「ミッション・小教区再編成とわたしたちの課題」
幸田和生神父
寺西神父様から小教区再編成の話をしてほしいと頼まれました。ちょうど今日大司教の手紙が配られましたが、何を話しましょうか。来年の四月から宣教協力体の体制づくりが始まります。その根本にあるミッションということをどうしても皆さんに分かってほしいと思っています。ミッションは、「任務」「使命」と訳されますが、もともとは「派遣」と言う意味で、神から派遣された教会の使命をも表わします。プロジェクトチームでは、「福音的使命」と訳しました。使命なんていうと重苦しいでしょうか。わたしはそうではないと思っています。
カテドラルの工事現場の話です。三人の人が働いていました。「あなたは一体ここで何をしているのですか」と質問したら、ひとりは「煉瓦を積んでいます」と答え、もうひとりは「壁を作っています」と言い、最後のひとりは「大聖堂を造っています」と答えました。自分の人生を意味あるものとして受け取る。これがミッションのセンスです。人生を意味と希望と使命感で満たすと、そのとき人生は輝きます。ミッションは決して重荷ではありません。別に特別な能力がいるわけではありません。病気で何もできなくても祈ることはできます。祈ることもできなくなっても、苦しみのうちにキリストに結ばれていることはできます。
別なことばでいえば、わたしたちはただ楽するために生きているのではない、ということです。よく言われることは、人に迷惑をかけてはいけない=じゃあ、人に迷惑をかけなければ何をしてもいい=自分がいかに楽しくいきるかということになります。でも、そうじゃありません。人は楽するために生きているのではなく、愛するために生きているのです。
わたしたちはそれぞれにこういうミッションを受け取っていると思います。家庭で、職場で、地域の社会の中で。キリストのミッションの継続です。でも一人がすべてをできるのではありません。教会、キリスト信者の集まりがキリストのミッションを継続していくのです。
東京教区がやろうとしていることは、教会としてのミッションを見つめなおそうと言うことです。教会のミッションは福音宣教なんてよくいいますけど、ことばで福音を伝えるということよりもっと広いことを指しています。
では、イエスの使命を受け継いだ教会のミッションとは何でしょうか。「福音的使命を生きる」 では三つのポイントを示しました。
(1)福音のメッセージを伝えること
(2)共に賛美と感謝をささげること
(3)互いに助け合い、まわりの人を助けること。
これが教会のミッションです。逆にこれさえできればいいわけで、またこれがなければ教会とは言えないのです。
教会はそれぞれの時代の中でこのことをやってきました。何百年に渡って小教区と言うものを中心にやってきました。昔のキリスト教社会の中では、生活共同体と信仰共同体が一つでした。
今はどうでしょう? 親から子へ信仰が伝わりません。地域社会がゆらぎ、家庭がゆらいでいます。今、互いに支えあうことができているでしょうか。これも共同体・地域社会の崩壊によって難しいと言えます。小教区再編成とは、「小教区の枠を越える。一人の司祭の限界を超える」 ということがポイントです。
教会として上記の三つのポイントができなければなりません。(1)と(2)は信徒の皆さんはやりにくいと感じるかもしれません。ミサがなければ集会祭儀をしましょう、とか、信徒が入門講座を受け持ちましょう、というのは確かにだれにでもできることではありません。信徒みんなにとって大きなテーマは(3)だと思います。大げさなことではなく、本当に身近なところから考えればいいのではないでしょうか。
現代の病は孤立ということではないかと感じています。伝統的な生活共同体や家族が揺らいでしまって、人が孤立してしまいます。一人暮らしのお年寄りとか、若い人でもいます。いじめにあっている子どもとか、家族がいても孤独を感じている人、家族ごと孤立しているような家族もあります。
こんなことがありました。某教会で一人暮らしの高齢者が亡くなって何週間もたってから発見されました。またミサに来たくても来られない人、ミサに来てさびしい思いをして帰っていく人、教会に馴染めない人などもたくさんいます。信徒同士の支え合いというのがどうしても必要だと思います。これまでの教会ではほとんどのグループが神父なしで成立しませんでした。でもそれには限界があるのです。
どこの国でもいろいろな仕方で試みられています。一つのヒントは基礎共同体です。小教区よりももっと小さな単位で、一緒に聖書を読み、生活の分かち合いをし、共に祈ります。ラテンアメリカやフィリピンでよくあります。でもこれはキリスト信者が多い社会向きかもしれません。韓国でも小共同体運動が進められています。日本では地区毎の活動が重視されるようになってきました。かつての壮年・婦人・青少年という分け方は、今では同じ年齢層でもいろいろな人がいてもう限界です。
しかし地区だけでもカバーできないと思います。いろいろな仕方で小さなつながりを作っていくといいですね (聖書や祈りの会、ボランティア・グループなどなど)。その他にもいろいろなモデルがあります。
一つはAAに代表される自助グループです。1930年代のアメリカでアルコール依存症者たちが始めた回復のための12ステップをしています。今ではあらゆる問題に広がりました。同じ苦しみを抱えた人同士が集まって、自分の体験を話し合い、支えあって回復に向かっていきます。これにはすごい力があります。本当に苦しいことは教会で話せないという現実があります。わたしは千葉で精神障害者を家族に抱えた人たちのグループを作ろうとしました。家族の方たちは教会で話せないのです。障害者を家にひとりで置いておけないので、家族は家からも出られません。親の介護(あるいは配偶者の)で教会に来られない人というのもずいぶんいますね。
もう一つのモデルはラルシュ共同体のモデルです。ジャン・バニエ(カナダ人のカトリック信徒)が、1960年代にフランスで知的障害者と一緒に生活するラルシュという共同体を作りました。今は全世界に広がっていて、日本にもあります。最も貧しい人、弱い人を中心にして共同体を作るということです。これはすごいことです。(日本でもヨーロッパでも)能力で人間が計られる社会・利害関係で結びついている社会への強烈なアンチテーゼとなりました。最も弱い人、できない人を中心にしたときに、人と人とのつながりが生まれます。共同体ができてきます。一般の社会の中の障害者やお年寄りを中心とした地域の取り組みにはそういう面があります。教会でもできないでしょうか。
本当に孤立している人はおおぜいいます。もし自分は支えあう誰かがいる、という方は本当に感謝してください。何物にも変えがたい素晴らしいことです。それが信仰の面でも分かち合い、支えあうことができる人だったらすごい恵みですね。そして、孤独な人、孤立してしまっている人に少し目を向けてください。
自分は孤立している、一緒に人生を、信仰の道を歩んでいる人はいない。一人ぼっちだという人。それはあなただけじゃないんです。どうか、仲間を見つけてください。
孤立から連帯へ。これがわたしたちの時代のミッションの最大のテーマだと思うのです。
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