四旬節

sprin014_s.gif


「キリストは父への道」
寺西英夫神父


 四旬節が始まった。信者はこの期間、イエスの受難の記録を通読するようすすめられている。
 人は決して死苦を目指して生きる者ではないが、人生には苦しみが伴い、死が人生の終わりであることは厳然たる事実である。だから人は死苦の意味を問わざるを得ない。そして、キリストのうちにこそ、すべての意味が隠されていると信じるキリスト者は、イエスの受難史を繰り返し読み、見つめるのである。
 イエスの受難史を貫いているものが、二つあると思う。
 ひとつは、人間イエスの、すべてをはぎとられた悲惨な姿である。多くの支持者たちに囲まれていた人が、いまやユダに裏切られ、ペトロに否定され、すべての弟子達に逃げられ、群衆は一転して「十字架につけろ」と叫ぶ。雄弁な人は沈黙し、奇跡の人は無力になり、人間世界のみにくい権力機構に、いいようにあしらわれる。そして生身の人間にとっての致命的な打撃である、あらゆる種類の肉体的苦痛。人間であることは、こんなに悲しいことなのかと、思わず顔を背けたくなる姿が、そこにある。
 もうひとつは、ひたすらに父なる神に信頼し、その御心に従って行く、雄々しいイエスの姿である。それはなによりも、あのゲッセマネの祈りの中に見ることができる。「アッバ、父よ。あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」 (マルコ14・36)彼は悲惨な死を望んだわけではない。父からの使命を妥協することなく果たして行くことが彼の第一義であって、それが受難死を受容することなしに不可能になったということである。だから彼は裏切者を呪わず、敵を憎まない。最終的には死を父なる神からのものとして受け入れる。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」 (ルカ23・46)
 イエスの受難死に、文字通り倣うことは、至難の業であろう。「あなたのためなら、命を捨てます」 (ヨハネ13・37)と言ったペトロは、その夜のうちに「わたしはあの人と関係ない」と言ってしまうのだ。しかし、人がもし、父なる神に全面的に信頼し、人生を人びととともに誠実に歩もうとするならば、その途上で必ずぶつかることになるさまざまな障害、矛盾のなかで、それを突き抜けて歩んで行ったイエスの足跡を見出すことができる。ペトロや弟子たちは、そのようにして、神に立ち帰ったのであった。
 そして遂にキリストの死の神秘を、次のように表現する。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」。(ヨハネ3・16)

寺西英夫著「続・荒れ野から」キリストは父への道 1989.2.26より



BACK