「洗礼志願」
寺西英夫神父
去る三月四日、四旬節の第一主日に、洗礼志願式が行われた。第二バチカン公会議の典礼刷新によって、四旬節というものが、洗礼志願者とともに教会全体が回心し、神に立ち帰っていく期間であることがはっきりして、本当によかったと思っている。
ひと昔前の四旬節は、イエスの十字架を仰ぎ、自らの罪ぶかさを思って胸を打ち、罪の償いのために祈りと断食と苦行に励む、というようなイメージであった。だから、そのころの四旬節第一主日のミサは、何となく重苦しい感じであった。それに比べると、今は大分違う。洗礼志願者とともに、教会全体が若返って行く感じがある。「わたしにもあゝいうときがあった。あの精神的若さをもう一度とり戻したい。もう一度初心に帰ってキリストを見つめ直してみよう」といったような、前向きの明るい四旬節になりつつある。そして前よりも少しずつではあるが、社会性がでてきた。「日本は誰の隣人か」というのが、今年の日本司教団の呼びかけである。昔の四旬節の真面目さも捨てがたいが、現代の教会の方向を支持したい。
洗礼志願者と一口にいっても、それぞれにちいさなドラマがある。そんなに焦らなくてもいいと思う人が、復活祭までは待ち切れないと駄々をこねたり、もう好い加減に決心したらと思う人が、なかなか踏ん切りがつかない。
友人の神父から次のような話を聞いた。Sさんという求道者が勉強に来ていたが、ある日突然来なくなり、数年後、突然主日のミサに現れた。そして恭しく聖体拝領をした。ミサのあとで神父は彼女に聞いた。「Sさんついに洗礼を受けたようだね。おめでとう。でも何が切っ掛けだったの。こちらではなかなか受けなかったのに。」 「はい。少し考えるところがあって、O神父さんのいる修道院に行っていたら、ある日『洗礼を受けませんか』と言われたの。それで受けたんです。だって今まで一度もそのように直接誘われたことなかったんですもの。」
それぞれに時があることは確かである。でも「洗礼は神さまの招待である」ということを、この友人の神父の話を聞いて痛感した次第である。
洗礼は、神さまからの愛とゆるしの招待である。招待だから、拒むことは自由である。しかし、一旦、それを受ければ、そこに責任と義務が生じるのは当然なことだ。それを敬遠していては、何事も始まらない。
誰からも招かれることのない人生は、空しい。招きに応えて約束し、その約束を誠実に生きるところに、人生の値打ちがあるといっていいだろう。
神さまの愛の招きが自分に向けられていることを信じ、それを受けとめる決心をし、いま新しい出発への最後の準備をしている洗礼志願者の初々しさに、あやかりたい。

洗礼志願式(2004.2.29)
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