「いのりの路」
寺西英夫神父
祈りが大切であることは、キリスト者なら誰でも知っている。そして、自分は祈りができていないと、ほとんどの人が感じているのではないだろうか。
ご存知のように「天におられるわたしたちの父よ」で始まる「主の祈り」は、イエスご自身が教えてくださった祈りである。マタイ福音書の6章8節には、次のように記されている。「あなた方の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だからこう祈りなさい。『天におられる……』」
ここでイエスは、祈りというものを、神に願いを伝達する手段のように考え勝ちな、わたしたちの通念を、まず否定している。
「父よ」という呼びかけは、イエスの生の言葉では「アッバ」であったと考えられる。「アッバ」とは、幼児語で、自分の父親を呼ぶ愛称である。幼な子が何かにつけて、親を呼び求めるように、祈りとは、神に頼るほかはないわたしたちの、神に向かった叫びのようなものだということなのであろう。
赤ん坊が「パパ」とか「ママ」とか、泣き叫べるのは、それ以前に、まだ言葉もわからないときから、親が赤ん坊に語りかけ続けてきたからである。であるならば、わたしたちの祈りにも、先立つものがあるはずだ。
わたしたちはみな、無の闇の中から、神の声によって、存在の世界に呼び出されたのではないか。このあやふやなわたしが、辛うじて存在し続けることができるのは、常に神からの愛の呼びかけがあるからではないか。
以前、ある手術のために全身麻酔を受けたことがある。いつかかったのかわからぬまま「寺西さん、寺西さん、終わりましたよ」とほほを叩かれて、我に返った。誕生とは、そして新しい誕生である復活とは、こういうことに近いのではないかと、あとで思ったことだった。
キリストを おもいたい
いっぽんの木のようにおもいたい
ながれのようにおもいたい
(八木重吉)
わたしたちの祈りは「かたこと」のようだ。ひとり言に過ぎないのでないかと思うことがある。だから、わたしたちはキリストとともに祈る。洗礼によってキリストに接ぎ木され、聖体によって日々養われているわたしたちは、天地をつなぐ一本の大木である「キリストとともに、キリストによって、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで。アーメン」と祈る。
幼な子が、少しずつ言葉を覚えるように、キリストにつながって、聖霊にうながされて自分の祈りを、叫びたい。
ゆきなれた路の
なつかしくて耐えられぬように
わたしの祈りのみちをつくりたい
(八木重吉 1898-1928)
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