いわおNo.204より
クリスマス号
2004年12月24日発行

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「神さまが共にいてくださる朝」
寺西英夫神父

 もう五十年以上も前の話です。
わたしの友人のひとりがラブ・レターをもらって、生まれて初めてだったのか、ものすごく興奮して「お前わかるか。わからねえだろうな。その手紙を読んだとたん、世界が変わったんだ。朝起きると、もう昨日までとは違う朝なんだ」と言いました。
「うーん。まあなんとなくわかるよ」と、その時まだ神学生だったわたしは、そんな風に答えたと思います。
 ひとりの人がいるだけで、世界が変わる。あるいは、その人がいなくなったために、もう世界が違って見えるようになってしまう。そういうことが、わたしたちの人生には起こります。

「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」

 これは、クリスマスのたびに、ミサの中で朗読されるルカ福音書二章にある言葉です。この言葉は天使によって羊飼いたちに伝えられた神のメッセージです。
 ニ千年前の最初のクリスマスは、ダビデの町ベトレヘムの郊外の出来事でした。羊飼いというと、わたしたち日本人は、なんとなくロマンティックなイメージを抱くかも知れませんが、ここに登場する羊飼いは、夜中野原で羊の番をしていた人たちで、羊のオーナーではない。いわば夜間労働者です。おそらく無学で粗野な人たち。夜働けば、昼間の宗教的勤めは守れないわけで、軽蔑されていた人たちです。そして救い主の誕生といえば、旅人のヨセフとマリアのために、ベトレヘムの宿屋に泊まる場所がなく、家畜などを夜退避させる洞窟のようなところで起ったというのです。赤ん坊は布にくるんで飼い葉桶に寝かせたと、ルカは書いています。ルカの語る最初のクリスマスの夜は、まことに寒ざむしい風景です。
 どうして、田舎者の貧しい夫婦から生まれた、しかも洞窟のようなところで、ひっそりと産み落とされた赤ん坊が「すべての人に大きな喜びをもたらす、世界の救い主」なのでしょうか。ルカがこの物語を、どんな資料をもとにして書きあらわしたのか、確かなことはわかりません。しかし、救い主キリストのこの貧しい誕生の風景に、深い意味をこめていたことは確かです。

 教会はクリスマスを、キリスト教という一教団の教祖様の誕生記念祝いとして、今年は数えて何周年というふうに祝っているのではありません。
 ベトレヘムで生まれたイエスという人において、神が人間のひとりとなられたという信仰を祝うのです。
 神が人間という仮の姿をとり、天から舞いおりてきて、悪人を打ちこらし、正直者をほめたたえ、また天に昇って行ったというような神話としてではなく、教会は、ひとりの具体的な人間の中に、神が人となったという信仰を、クリスマスに宣言しているのです。
 ひとりの具体的な人間――つまり歴史の中のある一つの時代、ある一つの場所に生まれ、生き、死んで行くひとりの人間。その一回限りの人生を、その時代、その地域のいろいろな社会的条件に制限され、ほんろうされながら生きて行く、そういうひとりの具体的な人間として、神が人となった。イエスとは、そういう方だと教会は信じているのです。
 このイエスは、貧しく生まれ、無名の三十年間の後、活躍したのはわずか三年たらず。はじめのうちは盛んに奇跡を行ったと福音書に記されていますが、すべての人を癒したわけではないし、世の中の悪や矛盾を解決したわけではありません。だんだんと奇跡は行わなくなり、捕らえられて、死刑囚として死にます。

 ひとりの人間とは、ほんとうに小さく、弱いものです。そういうひとりの人間の中に、神は人となった。信じられないようなことですが、もしこのことを信じるならば、世界が変わります。わたしたちの、この今の現実の中に、神さまが共にいてくださる。どんなにつらい苦しい生活の中にも、たとえ死にいたる病のなかにあっても、失望のどん底にいても、そこに神さまが共にいて、いっしょに苦しんでくださる。そして、わたしたちの善意と愛にもとずくあらゆる営みを、すべてしっかりと受けとめ、永遠のものとし、いつかすべてを一新してくださる。わたしたちキリスト者は、神がイエスという方において、人間のひとりとなられたという、クリスマスの信仰において、そう信じているのです。
 信じるか、信じないか、結局のところ、それは一人ひとりの問題となるでしょう。
 しかし、一回限りの、それももう始まっている人生ですから、そう信じて、希望をもって、日々新しい朝を迎えようではありませんか。

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