凍月 〜お侍 習作の6
 

 
 堅い靴底越しに、じゃりと濡れた小石の感触がした。無意識のうち、かすかに傾斜があることに気づいて、僅かながら足元に力が入ったらしく。冷たい音だなと思ったと同時、ほうと吐息をつけば。まだまだ微かにではあるが、鼻先の黒々とした夜陰の中、溜息がその大きさで仄かに白い靄になった。辺りには冷えた緑の匂いが垂れ込めている。どれも樹齢百年以上という見事な大樹の揃った鎮守の森のほうではなく、村の周辺を縁取る木立の中。あってはならぬ誰ぞの気配を拾うため、独り、哨戒にと歩いているのは、赤い背中のお侍。村人たちへの射弓の指導の方も、そうそうじっとついていなくとも良くなったほどの上達振りで。ずっとお立ちのお侍様も休んでくださいと気を回されるほどとなって来たので、そこで…守備態勢の充実とともに、そちらへと重点が移りつつある、村の周縁への哨戒のほうへも自主的に加わることにしたキュウゾウであり。夜間の哨戒は戦さ場でも当たり前にこなして来たこと。それでなくともしんと静かな土地だから、そこへの闖入者の気配という不整合を拾うのは造作もないこと。それでも舐めてはかからずに、青い月光に濡れ光る、椿だろうか厚い葉の茂る木立の中を急いで進む。というのも、
「…。」
 木立の向こうの少し先に、人の気配があるのに気がついてのこと。傾斜の頂上の、確かその先は、切り立った断崖となっている僅かばかりの空間で。ちょっと前までは遠くまでもを望める物見になっていたとかいう話。今は…野伏せり様が洗い浚いを持ってくから、皮肉にも張り番をおく必要もなくなってしまったという、そんな何にもない高みに。息を殺してもない自然体の誰かがいる。
「…。」
 薄い唇を引き結び、夜陰の帳
(とばり)へ気配を潜ませたまま、足早に目標へと近づいてゆく。自然と腕が動いており、腰の傍ら、下側の刀の柄へと右手が触れる。相手に警戒の匂いがしないのは、よもやこんなところにまで運ぶ哨戒の者がいようとは、思ってもなかった余裕からか? 意識が収縮を始め、相手への注意が絞られる。木立の密度がまばらになり、木々の間を透かしての月光が、掠れかけの道の上、真昼の木洩れ日のように まだらに差し込む。向こう側には何の障害物もなく、そのまま冷ややかな夜空だけが広がっているのが見て取れて。そんな木立がふっと途切れて、

  ――― 蒼い月光を浴びて佇むは、褪めた白をまとった男の背中。

 しかも。その背には、重々と見覚えがある。褪せた深色の蓬髪を、肩から背中へまで流し、夜風にたなびく白い外套に、首元へは常備の襟巻きを深めに巻いての一応の防寒態勢を取っている彼こそは。我らが首魁のカンベエ殿ではあるまいか。
「…。」
 その向こうは切り立った崖であり、よって彼の向こうにはあっけらかんと何もなく。強いて言えば、晩秋の濃密な夜陰がどこまでもの遠くまで、寒々と垂れ込めている空間があって。そこからずっと高みへと視線を転ずれば、遮る雲とて従えぬ、真ん丸な望月がぽつんと君臨しているばかり。そんな漆黒の帳
(とばり)と向き合っていた男が、ゆっくり肩越しに振り返ると…風を避けてか襟巻きに覆われた口元は見えなかったが、彫りの深い目元を僅かほど細めて見せて。キュウゾウへと向けて、低いが張りのある声を放って来た。
「見回りか? ほどほどにしておけよ?」
 そういう自分こそ、やはりたった独りでこんなところに来ている。他の見回り班とぶつからぬよう、あからさまな気配の無い方へ無い方へと選んで辿った道。つまりは、村人や他の侍たちが“こんな夜更けに手暗がりな此処からの侵攻はなかろう”と感じて つい避けたのだろう、断崖の高みへと続く道なき道であったのに。
「…。」
 この首魁殿、口数少なな日頃の有り様や思考の至るところで、隙というものがないらしいと、あらためて思う。若しくは許容の尋がたいそう広いのかも。周到完璧というのではなく、機転への引き出しがたんとあり、突発事にも動じない。これが卒なき老練ということかと思うと共に、別なことへも気がついたキュウゾウであり。
「…。」
 途中までは気配を消していたものの、人がいると察知した途端、駆けつけることへと意識が切り替わり、さほどまで息を殺してはいなかったはずで。こんな物騒な場所、しかも独りきりだったというのに、そんな“誰か”の接近に気づきながらも、それへと背中を向けて待っていた彼だということにもなり、
「どうした?」
 しかもその相手、敵の野伏せりでこそないながら、彼を斬りたいからと同行している、そりゃあ物騒な存在の自分だというのに。無論、こちらには今のところは殺意もないが、それでも…どうしてこうまで、警戒もなく動じないでいられるカンベエなのだろうかと、それが不思議でならなくて。
「…。」
 黙ったまま、されど、立ち去るでなく。その場へ立ち尽くすキュウゾウに、そちらもまた視線を外すでなく、付き合いよくこちらを見返ったままでいる。月光の降る位置が僅かほど向こう側なので、口元を隠されたその表情には…蓬髪の縁が落とす淡い陰が紗のようにかかっていたが。やんわりと細められた目許はそのままなのが見て取れた。ずんと年下の者を、擽ったくも穏やかに見やる目であり、だが…ひねって解釈するならば、何かしら挑発の目にも見えなくはなく。

  ――― ふと。

 そんな彼が、襟元まで片手を持ち上げると、顎と口元のある辺りへと指先をかけ。そのまま襟巻きを掴み引き。手前へするりと外しながら、こちらへ向かって歩んでくる。口元にはやはり、声の調子から察したそのまま小さな笑みを浮かべていて。だが、心なしか…苦みも少々含んでもいる気配。
「そのなりでは寒いだろうに。」
 急ぐでない歩みは、動線上から避けるのに…寄るなという意思表示をするのに十分なそれだったが。
「…。」
 キュウゾウはそこから動きもせずにいて。やがてすぐ眼前にまで至ったカンベエが、

  ――― ふわりと。

 腕を延べて、頭の向こう、背中へと放るようにして掛けてくれたものに気がつく。肩へと触れたは、まだ十分に温みの残る襟巻き。襟やら袖口やらは詰まっていても、細い首や肩の線がそのままに現れている厚みのなさが寒々しく見える、そんなキュウゾウの恰好へと気遣ってのことだったのだろうけれど。
「…っ。」
 ちょうど耳朶のすぐ間際を降りた男の両の手が、青年の頬の間際でつと止まる。手のひらの温みへ反射的に、ふっとキュウゾウが眸を伏せたからであり、それと同時に、
「…なんと冷たい。」
 ぎりぎり触れてもないうちから。彼の手へまで、その頬の冷ややかさが伝わって来もしたからで。眉をひそめた首魁殿、動作の続きで手早く防寒の布を首回りへと巻いてやると、何を思ったかそのまま、

  「…っ。」

 相手の肩を両手で捉まえ、彼の側からも心持ち身を寄せて。気がつけば…それは手際よく、すっぽりと懐ろへと招きいれてしまわれているキュウゾウで。

  「…何の真似だ。」

 これはさすがに無体にも程がある、と。それにしては、激高の感じられない単調な声で問いただせば。くっと小さく喉奥で弾けたらしき、男臭い笑みの気配と共に、

  「これだけでは足りぬと思っての。」

 これ、とは、襟巻きを差してのことだろう。枯れた響きを仄かに含んで、だが何とも言えぬ味のある声が、思いの外 間近で立って、
「よほどに冷えておるのだな。避けも払いも出来ぬとは。」
 体が侭ならなくなるほど冷やしてどうするかと。もっとずっと年弱の相手への叱言のように囁いたカンベエであり。襟元が涼しくなったその首元へ、こちらの頬がぽそりと埋まる。直に触れた肌は意外なくらい熱く感じられ、それだけ自分の肌が冷えていたことに、今頃 気がつく。とはいえ、
「別に…。」
 剣呑にも払い飛ばしてまで拒むほどのことでもないと思ったから。だから…と、抗弁を紡ぎかけた青年の口が途中で止まった。いつもの如く、長々と紡ぐのが億劫になったからではなくて。
「…。」
 ほんの少し、相手の方が背丈が高くて。それで、首元へこちらの頬が触れているその位置からだと、カンベエが背中を向けた格好になった月が、ちょうど真正面の上空に望めていて。その目映さに、つい、見とれたキュウゾウだ。

  「…月が。」
  「んん?」

 戦さ場で見上げる空には、敵襲へ備えての索敵とか哨戒の場だという意味しかなくて。月や星、風には、分析以外に意味なんてなくて。それが、今宵は。広くて寂寥、そんな夜空にポツンと浮かんだ、何とも目眩い真珠色の月の荘厳な佇まいから、どうしてだか眸が離せない。そんな自分にこそ戸惑った。
「月が、どうした?」
 すぐ間近からあやすような声がして。やはり冷えていた背中や肩が、相手の暖かな上着の中へと取り込まれ、頼もしい腕にしっかとくるまれてゆく。背丈だけじゃあなく、体の作りも一回りほど大きい相手だ。青年の痩躯など、やすやすと包み込めてしまうのだろう。背に伏せられた手のひらが、間違いなく刀に触れているのに、今は全く気にならない。取り込まれてゆくことへと流されたのは、そこが心地のいい居場所だったのとそれから、

  「…あんな色だと気づかなかった。」

 あんな色? 彼には意味が計りかねたか聞き返して来たので、
「月は、暦や時間を知る物差しでしかなかったから、色まで見てはいなかった。」
 そうと言い足せば、そうか物差しであったかと頷いてから、

  「では星はどうだ?」

 何かの遊びででもあるかのように、次をと訊いてくる。低く響いて、だが、ゆったりとした囁きが、ひたりと沿うた相手の胸からこちらの胸へ、直に伝わってくるのもまた。凍えた吐息を詰め込んだ肺腑を、じんわりとほぐしてくれるようで いっそ落ち着けて。
「星は全部は要らなかった。幾つかが、方向を知るために必要だっただけで。」
「ああ、戦さ場ではそうだったな。」
 刀を振るえればいいと、ただそれだけ。その他には関心もなかったし、興味も向かなくて。戦さの間は、自分の身を脅かす敵対する気配しか拾うに値しなかったから、風景なんて見なかったし知らなかった。虹雅渓でも同じこと。軍にいた頃の延長のように、周辺への警戒しか必要ではなかったから、他は何ひとつ見なかった。

  ――― だから、今になって。

 夜空に星はこんなにもあったのだと、今頃になって気がついて、圧倒される。風のそよぐ音、水の匂い。今は闇の中に没しているが、高台から望めるは深い緑の連なる遠くの峰々。芒種の草に光る朝露と小さな羽虫。この村に来てから、何と世界は鮮やかに彩られているものかと、こんな場合だというのにもかかわらず、つい見とれてしまうことが往々にしてある。それにしたって、
『…もう虫の声はしないようだの。』
 いつだったか、詰め所の囲炉裏端でそんな一言を聞いたのが切っ掛けだったような気がする。こんなときでも余裕ですねと、確かヘイハチが少しほどおどけて揶揄すれば、
『なに、我らを待って稲穂がまだ健在だったのでな。』
 虹雅渓からこの神無村まで、結構な騒動もあったことから多少は時間を浪費しもして。そんなせいで、到着するまでに随分とお待たせしてしまった。村人たちが自分たちの決断へ懐疑を抱き、慄き恐れるまでに足りるほどに。そんな彼らから不安を払拭したのが、農民の出と分かったキクチヨの言い分とそれから、

  『この土は、だが、本当に今、お前たちのものか?』

 守るもののために戦えと、闘志を奮えと解り易く説いた、首魁殿の言葉もあってのこと。そんな経緯があったすぐ後の、同じ男が紡いだ一言だったので。自分にもたいそう意外な一言に聞こえた。自分は到底そんなところにまで気持ちの尋
(ひろ)が広がってはいなかった、いやさ、とんでもないところにまで耳目の届く彼が、意外で…脅威で。そんな一言に背を押され、あらためて見回した世界は…何と広くて、なのに緻密で。誰のためでもなく、ただそこにあるだけだのに表情豊かで。
「…。」
 何の気なしに吸い込んだ息。先程まではただただ冷ややかなだけで、胸の内側をキリキリと凍らせていただけだったのに。今は…誰ぞかの匂いと温もりが入り込み、眸を伏せても独りではないのだと、そっと知らしめてくれるよう。そんな挙動や肩からのこわばりが解けたことを見澄まして、
「少しは温もったようだの。」
 平生の生活の中でのそれのような語調と言い草に、キュウゾウが思わずキョトンとしかかったのも束の間、
「一旦温もってしまうと、寒いのはなお かなわんだろうて。」
 そうと続けて、では戻るとするかと。こっちの意は聞かず、だが、回された腕も解かぬまま、促すように歩み出し始めるカンベエであり。もっとずっと若々しい青年の、稚気が働いてのもののようなその強引さへ、勝手なことを言い出すなと…思いはしたが。
「…。」
 広い懐ろの中で体の向きを変えられたその弾み。ちらと見上げると、深色の眸が何とも楽しげに見返して来て、それで。
「…。」
 反駁の言葉が出なくて、それで。何物かから庇われるかのようにして、そろそろと。村の中からでは丘の上ほどの高みから、家並みのあるところへまでを、ぼちぼちと戻ることとなった二人であり。いつも見ていた、なのに初めてのお月様が、不器用な青年の金の髪をお友達だと思うてか。見送りがてらの悪戯、なおの光でその道を明るく満たしてくれていたそうな。








  ――― おや、お二人ともお帰んなさい。
       ちょうど今、いいものが煮えたところですよ?


 辿り着いたる詰め所では、首魁殿の相方の美丈夫が、懐っこいお顔をほころばせ、温かく迎え入れてくれたりするのだが…そっちのお話はまた今度。


  〜Fine〜  06.12.01.


  *急に冷え込んで参りましたね。
   皆様どうかご自愛のほどを。
(苦笑)

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