雪月花
      (extra 千紫万紅、柳緑花紅 番外)

        *すみません。勘七ものです。 



 しんと静まり返った空間だ。といっても全くの無音ではなく、薄い板べりの向こう、家の近間の木々の梢を鳴らして吹き過ぎる風の音も届けば、どこか遠くからは、何という鳥なのだか長い尾を引いての甲高い声を上げながら、鎮守の森の方へと飛んでゆく、その気配を追うことも出来る。すぐ傍らとなる室内にても、囲炉裏の自在鉤に提げて炭火へとかけられた、よくよく使い込まれた鉄瓶が、先程からしゅうしゅうと沸いており。どこからともなく忍び入るは、間近い冬の訪ないか。古いその上、長いこと人が住まわっていなかったという古民家には、きっと隙間も多かろからか。冷ややかな外気の気配が、床の高い作りの居室へも足元からさわさわと染みてくる。まだそんな刻限でもないのだが、ふっと室内が浅く陰って。これはもしやして、この冬初めての雪でも来るかとの、そんな静寂が辺りに垂れ込める。雪の降る時というのは不思議なもので。雪自身が無音のままに降りしきるのみならず、辺りの雑音をも吸収し、全て塗り潰して降り積もる。あまりの静けさに はっとして、外を見やれば雪が舞っているというのは良くあることで。

  ――― 何と傲慢で強引な存在でしょうねぇ。

 冬はたいそう雪深い土地で生まれ育ったらしい七郎次が、そちらもやはり、あまり緯度の変わらぬほど北国の生まれだと、いつの間にか聞いてあったという久蔵に話しかけていたのが昨夜のこと。右腕の前腕の一部をギブスで固めて首から吊り下げている以外は、もうすっかりと元の健常な闊達さを取り戻した久蔵は、医師殿に教わった、腕や足腰の筋骨を戻す整体回復術
(リハビリ)をこつこつとこなしたり、くるくると良く働いて家の中を整然と保っている七郎次の手伝いにと、水分りの泉まで水を汲みに行ったり。数日ほど前からは、人目を避けてのことながら、鎮守の森にて勘兵衛を相手に、刀を使っての軽い切り結びの習練をしてみたりと。元の力を取り戻すことへ、静かながらも確かな前進を目指して動き始めており。
『勘兵衛様が手を抜いておいでだと、久蔵殿、不満そうでしたよ?』
『当たり前だ。』
 まだ片腕を吊っておる身の者を相手に、本気で斬りかかれるものかと、言い放つ惣領様にしてみても。自分へ直接言うのではなく七郎次へ零すだけなところから察して、当人もそのくらい判っているらしいのは明白と、苦笑に留めていはしたが。そうかと思えば、囲炉裏端で繕い物なぞ手掛けている七郎次の手元を、相変わらずの興味津々、赤い双眸を瞬ぎもさせず、ただただじっと見やっていたり。勘兵衛からの手ほどきにて、普通の楷書の書き方を教わってみたり。
(苦笑)
『久蔵殿は筆は左利きだったのですね。』
 とはいえ、箸使いは右だったから。骨から身をほぐす必要のある魚や、少し大ぶりな切り方の野菜や鷄など、匙で掬って食べられぬものは、相変わらずに七郎次が口元までを運んでやっており、
『一応の作法は身につけておられますのにねぇ。』
 忘れなきゃいんですがと困ったように眉を下げつつも、なかなか楽しそうに“はい・あ〜ん”と、汁気の多いものはもう片方の手を皿のように添えて、熱いものは十分吹いて冷ましてから。次男坊へと手づから食べさせてやっている母上だったりし。勿論のこと、本物のそれではないながら、心和む一家団欒の図…に間近いものが、十分な厚みのあるものとして、暖かくも展開されている日々が続いている。

  「その久蔵はどうしたのだ?」

 そのってのは何ですよと、勘兵衛からの声へ苦笑混じりに顔を上げた七郎次。同じ囲炉裏端にお膝を揃えて座し、水分りの巫女様の先々代にあたる婆様から教わった、刺し子という縫い物に勤しんでいた手を止めると、
「利吉殿の手伝いにって、薪割りに行ってるんですよ。」
「薪割り?」
 訊き返されて是と頷き、
「風呂焚きや竈には炭じゃあなく薪でしょう? 生木じゃあすぐには使えない。そうかと言って、そうそう沢山まとめて割っておいても置き場所もないし、雨ざらしになっては元も子もない。」
 とはいえ、雪が降り積もっては遅いから、本格的に降り始める直前という今のうち。空気も乾いているのが打ってつけだからって、一冬分をまとめて割り始めているのだそうで。
「だが、久蔵は鉈や斧は使えるのか?」
 勝手が違う刃物だぞと案じて訊いた勘兵衛へ、
「大丈夫みたいですよ?」
 昨日から通ってますが、片手なのに餅つきみたいで
(?)物凄く効率がいいってんで、他の皆さんもお願いしたいと順番待ちなのだとか。これもいい鍛練になるからって、一人で頑張ってるようですが、
「間に合わないようだったら、アタシたちも手伝いに行きましょうね?」
 にっこりと笑っての至極当然という言いようをされて、相変わらずの母親っぷりへ、苦笑しつつも“うむ”と返した蓬髪の惣領殿が、何とはなしに視線を向けておれば。ちょいと根を詰め過ぎて疲れたか、視線を戻したお膝の上から、縫い物はもう終しまいと、傍らに置いてあった組木の小箱へ糸や針、布といったお道具をてきぱきと仕舞い始める七郎次。
「お茶、淹れますね。」
 そのまま土間へと立ってゆき、茶器を盆へと載せて戻って来る、その一連の立ち居振る舞いの、何とも隙なく優雅なことか。隙なく無駄なくという切れの良さは軍にいた頃からも見られた機敏なそれであったが、そこへと加わりし流線の艶は、あの“蛍屋”で過ごしたという5年のうちに身についたものに違いなくて。急須を温め、湯飲みを温め。茶葉を入れて湯を注ぎ、しばらく待っておもむろに湯飲みへと注ぐ。蓋を押さえながら傾けるという、さりげない所作や、湯気を見つめる伏し目がちの眼差しにも、心穏やかであればこそのゆとりとそれから、品のいい落ち着きとが添うており。
「どうぞ。」
 いつものように差し出された湯飲みより、ついついその手の持ち主の方へと視線がいった勘兵衛様。するとすぐさま、どうしましたか?と控えめに問うような、水色の視線が返って来。これだから、あの久蔵が参っても仕方がないのだとの小さな苦笑と共に、何でもないとかぶりを振る。
「…そうそう、勘兵衛様。」
 彼にしてみれば直前の会話の続きだったか、
「昨日、久蔵殿にこんなことを訊かれたんですよね。」
 こちらからもやっぱり、あの次男坊の名前が飛び出して来て。どうも彼を中心に回っている家になりつつあるなとの苦笑を浮かべつつ、目顔で小さく頷くことで話の先を促せば、

  「島田を、俺が独り占めしてしまっていいのか、と。」

   おや。

 ちょっと思い出した…にしては、そうそう軽々しい話題でもないような。少なくとも日常の甘えっぷりの話だったら、七郎次へそう訊く前に、勘兵衛へと母上の独占っぷりをそうと訊くのが順番ではなかろうかなどと
(笑)、そのくらいに意外な感触を覚えたほどに、どこかしら真意が掴み切れぬお言いようであり。怪訝そうなお顔を示す惣領様へ、
「先の大戦時に副官であったというだけで、こんな難しい、得るものもない戦いにすんなりと付き合えるものではなかろうに。何かしらの思い入れがある同士でなければ、そうそう二つ返事で付いて来られるものではあるまいと…。」
 七郎次が補足するように並べた文言に、
「…ちょっと待て。」
 勘兵衛様がますますと眉を寄せてしまわれる。はい?と言葉を区切った七郎次へと訊いたのが、
「そうまで長々と切々と、あの久蔵が語ったのか?」
 寡黙でその上、ちょいとズボラなところもあって。説明が長くなりそうなことへは、中途で“もういいや”と。誤解されても構わぬと、うっちゃってしまう節のある困った次男坊。今となっては懐かしい話、合流したばかりの彼とキララと七郎次とで、神無村までを辿ることとなった折も。臍を曲げた訳でもなければ虫の居所が悪かった訳でもなかろうに、相槌の“承知”という一言さえ返さぬほど、そりゃあ口を開かなかった彼であり。そんな寡黙勝手なところへと、あのキララが“協調性が無さ過ぎます”と、ずっとむくれていたほどだったとか。そんな彼のそんな気性が、そうそう簡単に改まるとも思われず。七郎次が滔々と紡いだような言いようを、あの久蔵が口にしたのかとわざわざ訊いた勘兵衛へ、
「あ、いえ。」
 七郎次もそこはあっさりと否定。
「もっと短かったですよ。」
 にこりと微笑って言い直したのが、

  「島田とは寝もしたのだろうに、と。」
  「…っ☆」

 途端にぐっと言葉に詰まった主、
「…もしかして噎せましたか。」
 うつむいて苦しげな咳をするのをお助けしようと、立ってゆくと間近まで身を寄せ、大きくて広いお背
(せな)を、ゆっくりとさすって差し上げる。優しい気遣いに揶揄の気配はなかったものの、
「お主ら、日頃からどんな会話をしておるのだ。」
 てっきりと、見目麗しい見栄えも清かな、ほのぼの健全な母と子という構図そのままに解釈しておれば。
「そんな生々しい会話をしとったとは。」
「嫌ですよう、母と子だなんて。」
 そこか、そこなのか“嫌ですよう”なのは。
(苦笑)  冗談はともかく、
「アタシだってギョッとしましたよ。」
 ええ、そんな話をあの久蔵殿が持ち出したなんて初めてのことですと。主様の咳が収まったのを見計らい、ついでにお茶を取り替えましょうねと、湯飲みを持って元居た位置へと立ち戻る。飲み残しをまとめる甕へと冷めたのをそっと注ぎ入れ、新しいお茶を主の大きめの湯飲みへと注ぎながら、
「どう答えたものかと言葉に詰まって。」
 その時の模様を思い出したか。立ちのぼる湯気を見るともなく見やってから、小さく“くす”と苦笑をし、

  「そんな態度で…是と答えたようなもんでしたがね。」

 どこかで子供だ子供だと思ってたお人を相手に、迂闊なもんですよねぇと。涼しげな目元を細めて微笑った七郎次。ということは…?
「………。」
 やはり怪訝そうに眉を寄せ、何へと対してだか、こちらは真摯な顔になったままな勘兵衛様が、

  「是だと。彼奴に通じたというのか?」

 あらためて問えば、
「おや。あれでも久蔵殿は、言葉の行間とか、場の空気とか、ちゃんと読み取れるお人ですよ?」
 しなやかな腕を伸ばして湯飲みを“どうぞ”と差し出し、やはりにこりと笑って言った古女房だったものの、
「…時々ですが。」
 肝心なところをこそりと後から付け足した。というのも、
「こういう話題も許容しておいでだったっていうのは、実を言えばアタシにも意外だったんですがね。」
 けどまあ大戦を経験してらっしゃる、一応は二十代なんですし。それこそ勝四郎殿に比すれば、
「ちゃんと…というのも何ですが、実践は積んでらっしゃる訳ですし。」
 言いながらくすすと笑ったお顔にも、その実践の間違いなくのお相手ですものね…などという、下世話な仄めかしを含むような、いかにもな当てこすりの気配はなくて。というのが、

  「シチも好きだから…って、言ってくれましてね。」

 どう応対したものかという戸惑いを隠し切れずにいた七郎次へ、その肩口へ ぱふりとおでこを乗っけて、
『シチの嫌がることはしたくない。』
 好きな人を困らせてはいけないと、ある人にいつもいつも言われてた。結局のところ、その人のことをいつもいつも困らせていた自分だったけれどと。ぽつぽつと語ってくれた久蔵であり、
“それって…。”
 もしかしたらば、あの時の。彼がアキンドたちの側から袂を分かつた時に、勘兵衛を鉄砲で撃つ構えでいたものを、彼自身が薙ぎ払った相手、ではなかろうか。ちらとそう思ったと呟いてから、
「それはアタシも同じですよと。」
 久蔵殿も勘兵衛様も、アタシには大好きで大事なお人たちだから。お二人が幸せになってくれたなら、何にも言うことはありませんてと。
「そうと言ったんで。まま納得してはくれたみたいですけれどもね。」
 素面
(しらふ)のまんまでそんな甘ったるいことを語ることとなろうとは、長生きはするもんですねぇなんて、擽ったげに苦笑した槍使い殿の笑い声へと重ねるように。それはとんだことだったのと、蓬髪の惣領様も男臭いお顔をほころばせ、くつくつと笑って下さったのだけれども。

  「そんなことを訊かれたせいでしょか。
   何だか、ええ、ちょっと…思い出しちゃいましてね。」

    んん?

 それは丁寧に淹れられた、芳しい香の立ったお茶から注意を逸らされたほど、いやにくっきりとしたお言いよう。視線を上げれば、古女房殿の、お顔の表情こそほころんでいるものの。

   ほんの、少し。

 眸に浮いた色合いが、室内の仄暗さのせいもあってのことか、心なしか翳りを含んでいるような。
「覚えてますか? 勘兵衛様。」
 夜中にいきなり呼び出され、射殺すような眼差しだけで判れなんて詰め寄られたんですよ? あれはさすがに怖かったです、島田隊で一番の跳ねっ返りでもね。
「手近で間に合わそうなんてな心持ちからの思し召しだったなら、軍法会議ものでも構わない、敵わぬまでもせめて一太刀くらいは浴びせてから舌咬み切ってやろうって、そんな覚悟でおりましたが。」
 勇ましいことを並べた古女房殿へ、ちょいと苦々しげなお顔になった勘兵衛様、
「…そんな真似など せぬわ。」
 低い声音で言い返せば。相手も あいと頷き返して、
「ちゃんと、アタシだからというお手付きでしたよね。」
 今更 含羞むように微笑った七郎次であったりし。
(苦笑)

  ――― でも。

「好きだの大切だだの、お主だけだの浮気は許さぬだの、この手を離すなだの、先に逝くなだのと、そういう誓いめいたことは一切言い合いませなんだ。」
 立て板に水とはこのことかというほど、それは一気になめらかに、つらつらと並べ立てられたものだから、
「…言ってほしかったのか?」
 それこそ今更なことながら、それでも律義に訊いてやれば、七郎次は“いいえ”とかぶりを振る。この、野趣あふれる精悍な風貌をした元・上官が、そんな見かけでありながら、妙なところで屈折しており。人の情というものを受け入れる尋を、当時は持ち合わせていなかったこと、そりゃあ頑ななまでに孤独で居ようとしていたことを、重々承知してもいたから。嫋やかに整った目鼻立ちがふっと臥せられての憂いを帯びたのも一瞬、
「言葉で形にしてしまうのは、アタシにも怖うございました。」
「怖い?」
「ええ。形になれば、次はそれが壊れないようにと恐れねばなりませぬでしょう?」
 甘くて美味しい恋情はされど、忠心などに比べれば、時に うんと脆くもある代物だから。いくら当人の心の強さの問題だと型通りなことを思ってみても、こちらからだけの思い込みでしただなんて冷たい事実を突き付けられでもしたら? それこそ、心ごと木っ端微塵に砕け散ってしまうだろう、大きく深い傷を負ってしまうだろうから。
「勿論、そんな考え方をしていたのはアタシの勝手です。」
 これまではそれがいいのか悪いのかなんてことさえ、考えもしなかったんですがね。
「だのに。久蔵殿にそんな話を振られて。それで、自覚しちゃいまして。」
 形にしないままのそんな漠然とした想いを、大戦の間からそれ以降も、アタシはずっとずっと抱えていたんだなあ、なんて。
「………。」
 ただ黙って聞いている勘兵衛なものだから、ついつい饒舌になってしまうのか。七郎次は静謐を埋めるように言葉を継いだ。
「今度のこの戦さでも。ただ、お傍に居られるだけで、お役に立ててるってだけで嬉しかった。だってアタシは、5年ほど、冷凍睡眠装置の中で眠っていましたからねぇ。目が覚めたら、戦さなんて もう5年も前に終わったよって教えられて。…桃太郎どころかとんだ浦島太郎で。」
「…シチ。」
 もうよいと遮ろうとする勘兵衛の声を、今度は故意に振り切って、
「それから5年かけて、いろいろなことを宥めたり諦めたり。やっと心を落ち着かせたところへ、生きてる勘兵衛様が現れた。」
 諦めたというのは、もう生きておいででないかもということを飲んだという意味。だというのに、そんな眼前へ現れたお人。昔と変わらぬ存在感と男らしい精悍さをたたえたその上へ、昔よりも深みを増した重厚さとそれから、人へと関わろうとなさっている、懐ろの尋の深さとを身につけて。
「すっかりと男ぶりを上げてらしたんで、見違えましたよ?」
 わざとにお道化て言ったものの、
「………。」
 痛々しくて制止も出来ぬか。視線こそ逸らさなかったものの、勘兵衛は口を開きもしなくて。
「勘兵衛様にすれば十年間もの空隙がありながら、なのに。またそのお傍に、言葉要らずの重宝な奴よと置いてもらえるのが、確かめもせぬまま、当然のこととして、そんな特別な立場に据えてもらえるのが、そりゃあ嬉しかったんですがね。」
 ふうと、肩を落としながらの溜息が一つ。

  「久蔵殿にああと、勘兵衛様を独り占めしていいのかなんて訊かれると。
   …何だか、急に惜しくなっても来ましてね。」

 結局、形にはならず仕舞いだったこの想いは、一等大事にして来たこの気持ちは、何だったんだろうって…。

  「今そんなことを言ったって、どうにもなりゃあしませんが……。」

 小さく小さく口元を歪ませながら呟いた、そんな七郎次の声が ぽつりと落ちたのを最後に。

  ……………。

 閑と広いばかりな室内もまた、しんと静まり返ってしまう。時折はぜる炭の音と、外を行き交う風の音しか立つ声もなく。
「………。」
 ここまでの全部をさらけ出すつもりはなかったのだろう。自分が持ち出した話だのに、いやさ、だからこそのことか。取り繕うような話の継ぎ穂も思いつけぬまま、ただただ押し黙ってしまった七郎次が苦しげにうつむいていると、

  「…そうか。」

 はっきりした声だったが、いかんせん、あまりに短い一言だったので。何と仰せで?と、七郎次が訊き返そうとしかけたその間合いに重なったのが、

  ――― とんっ、と。

 不意に肩を突かれた掌打一つ。あっと言う間であったので、避けることも受け止めて留まることも出来ず。気がつけば、一応は正座していたはずだのに、板張りの上へと呆気なくも転がされており。
“…………え?”
 攻撃としての打ちすえではなかったので痛さはなくて。ただ、思いがけず天井を見上げたその視野へと、割り込んで来たのが…主の姿。がっつりと大ぶりで頼もしい、その右の手でこちらの機械の腕を押さえ込み、左の手は顔の脇へと突いて。それは手際よく、覆いかぶさって来たのだとようよう気づいたらしいと、眸の張りようの変化で読んでから。勘兵衛はおもむろに、七郎次へと問うた。

  「………どうする。」

   あ。

 自分へのみと真っ直ぐに向けられた視線だけで、今でもこんなに鼓動が高まる。背中に床の堅さを感じつつ、ただそれだけで逃げられないと観念してしまいそうになるのは。向かい合うお人がその身へと孕む、仄かに野趣さえ帯びた精悍さのせい。真っ直ぐな視線の何とお剛いことか。変わらぬ存在感の何と重厚なことか。当人にはそんな気はなくとも、人を惹きつけてやまぬ何かがあって。それはきっと、時折 枠から大きく外れる力強い大胆さだとか、はたまた、何も言わぬまま背を向けてどこかへ去ってしまうことに斟酌なく果断な、その潔い つれなさだとか。何とも雄々しくて、誰にも寄り添うことが適わなかったこのお人が。それは遠かったからと…詰まらない虚栄もあってのこと、自分なんぞがと最初から諦めていたこのお人が。こんなまで間近にその身を晒して問うている。どうするのだ、と。焦がれたそのまま縋るか、それとも突き飛ばして撥ね除けるか。

  「………。」

 その主の肩口から、長く零れていた蓬髪に気づき、それを指先でそろりと掬い取って。

  「…ご冗談を。」

 何とか。そうと応じて主の深色の双眸を見上げる。泣き笑いのみっともない顔なのだろうにと気づき、それを恥ずかしいと思いつつ。それでも…それこそ、精一杯の虚勢を張って見せる七郎次であり。
「たとえ本望を遂げたって。泣いちまいますよ、きっと。」
 確かに。昔むかしは、誰のものにもならなかった勘兵衛様が、伽の晩だけは自分だけの存在になってくれたのが、自分を欲してくれたのが、そりゃあ嬉しかった。それこそ、本当は情に厚いお人である表れ。時折堰を切ったように人恋しくなられる発露であるかのように、伽をとお召しになられたのであり。行為そのものよりその事実へと、溺れるように酔いしれた。このお人から欲してもらえることが、至上の歓喜だった。解いた髪を指で梳かれ、頬に触れる耳飾りの冷たさを擽ったく思い。気難しそうなお顔のまんま、もどかしげにこの身を食
(は)まれるのが、自虐的ではあったが嬉しくもあった。少しでも空虚なところを埋めて差し上げられるならと、心から思ってた。

  ――― けれどそれは、昔のお話。

「何もわざわざ、せっかく静まった燠火を起こさなくともいいでしょうよ。」
 今の勘兵衛様には、あの頃の陰はない。それどころか、こんなことが出来るようになったほど、人との関わりへと心が動くようになっておられる。一連の騒動の中で感化され合い、いい方向へと変化なされて。このままあの赤いお人に、いいように引っ張り回されればいいのだと。どこか拙い者同士、たどたどしいからこその やあらかくも暖かい間柄になって下さればいいと。やっかみもなく、素直にそうと思える自分だと自覚出来る。
「アタシはただの“古女房”でいいんです。」
 床に肘をついて身を起こし、ぶつかりますよと視線を上げれば、少しばかり思惑とは違った展開へか鼻白んだようなお顔をなされたが。そのまま身を引いて起こした勘兵衛と、膝を突き合わせるように向かい合う。
「ならば、どうして…。」
 だったら どうして。こんな話を持ち出したのだと。もしかして決まり悪いせいなのか、そんな物問いたげな眸をなさる主様へ、
「それはやはり…。」
 少々気が高ぶってしまっての気持ちの暴走のようなもの。だから、説明せよと言われてもと、彼もまた言葉に詰まるかと思いきや、

 「5年もやきもきさせられた、一種の意趣返しでございます。」

   はい?

 いつの間にやら涙も引っ込め、にっこり笑った元・副官殿、
「勘兵衛様の側からは、アタシの居所なんて とうに御存知だったのに。5年も逢いに来てくれなかった訳ですよね?」
「それは…。」
 もう戦さも軍もないのだとか、彼の側からだとて気にかけて探してくれていたからこそ、あんなややこしい場所に居たことを知っていたのだとか。そんな諸々は言われなくとも判っているから。
「それもまた過ぎたことですが、それでもね。その間ずっと、何かにつけては傷心していた者からの、ちょっとした恨み言ですよ。」
 五郎兵衛殿ではありませんが、全部笑って済ましましょうやと、まだちょっと赤みの残る目許を細め、重ねるように微笑ったお顔の、何と艶やかであったことか。

  「………。」

 丁度の間合いで、土間の連子窓からも、雲が切れたか陽が射し。室内は弾けるような明るさに満たされて目眩ゆいほど。色白な七郎次の笑みがそこへと溶け入ってしまうような気がし、ほのかに残る泣いた跡を拭うのに紛れさせ、伸ばした手で頬へと触れてみた勘兵衛は。さらりとした暖かさへ殊更の愛おしさとそれから、文字通りの身を削っての滅私奉公に尽くしてくれた彼への、深い感謝の想いをあらためて噛み締めたのだった。






  「…ああ、それと。
   久蔵殿を泣かせたら、いくら勘兵衛様でも容赦しませんからね。」
  「………っ☆」


   母は強し。
(苦笑)




  〜Fine〜  07.1.25.〜1.27.


  *物凄く“蛇足”というか、
   果たしてウチで需要があるんだろうかという、まるっきりの余談でしたが。
   それでもこういう部分も書きたいと思ったのは、
   最近通ってる“勘七サイト”様の、
   そりゃあ切ないお話に入り浸ってる余波です、すいません。
(苦笑)

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