紅胡蝶幻影 〜無明烏錯想浮舟 その後 (お侍extra  習作53)

           千紫万紅、柳緑花紅 口絵もどき
 


 北方にて桜がほころぶ前にと、急な思いつきで冬の名残りを追っての短い旅をしたのは確か。辺境では春まだ浅く、寒の戻りも多かった頃合いのこと。新しい画題にと煮詰めていたところの、寂寥感の満ちた心象を求めてのことだと、自分でもそう思っていたはずだったが。今にしてみれば…辺境の地を渡り歩いているという誰ぞの面影、風の噂の断片でもいいから拾えぬものかと思っていたせいなのかも知れぬ。そんな自身のいじましさだか いじらしさだかへ、苦いような切ないような想いが込み上げ、それから…苦笑が洩れた。どっちにしたって いい大人の持つ感情ではなかろうにと思ってのことなれど、

 『日頃から妙に冷めているお前にしては、いい表情
(かお)をしておるよ。』

 常からも軽口を叩き合ったり、素描帳を気安く見せ合ったりしているほどに。気の置けないとしている僅かばかりの知己なぞへ、四科展へ向けての新作についてを語るとき。自分でも気づかなんだが、この男にしては珍しくも、どこか生き生きした表情になっていたそうで。
『…。』
 冷静に物事の本質を見据えての…時に怜悧が過ぎて酷評を買うような作品も描くような。よく言って大胆不敵な自信家、気の合わぬ手合いからは“傲慢で独りよがり”と悪しざまに罵られることもざらだという、新時代の急先鋒。そんな先進気鋭の若手絵師、島谷勘平氏が、虹雅渓の外延にて思わぬ刺客による襲撃を受けたのは、河畔の柳が緑の若葉を増やしていた初夏の頃合い。詳細背景などなどは、その事実自体を引っくるめ、表向きには伏せられたものの。日頃の行いが祟った…というくらいならともかくも、足繁く通う癒しの里でつれなく振った天神から恨みを買っただとか、人気太夫を争っての色敵に刺されただとか、世間では様々に風評が流れもしたらしく。それへといちいち いきり立たないところは、成程 冷静で皮肉屋で何でも面白がるお前らしいことではあるが、

 『そんなことはどうでもいいと、
  別なことへ魂を持ってかれてるように見えるのは、俺の気のせいか?』

 案じてくれた友人へ、形ばかり苦笑って見せる。半分くらいは図星であった。選りにもよって、胡蝶の精へと魂を持ってかれ、腑抜けになってしまったこの身を持て余し。筆を持つでなく、画帳を開くでなく。気がつけば物想いに耽り、物憂げに虚空を見上げてしまう身を、遣る瀬なくも引き擦って。もはや夏を待つ気配も弾けていそうな青空の下、涼風に揺らぐ梢の先にて、ひらひら躍る瑞々しい緑の目映さに、その深色の双眸をつい細めた絵師殿だった。





            ◇



 意識が戻ったのは、殺風景だが清潔そうな一室に据えられた寝台の上であり。まるきり見覚えのないそこが“虹雅渓中央警邏隊本部”の診療所病棟だと島谷に判ったのは、一番最初に見舞ってくれたのが、その仰々しき機関の隊長殿であったから。
「…おお、気がつかれたか。」
 何がなんだか、まるきり事情背景が見えぬまま、妙に手慣れた筋の連中から凶器を向けられるという、物騒極まりない窮地に立たされの。そんな窮地から…これまた何がどうなったやらも判らぬまま、それは手際よくも鮮やかに、庇われての救い出されたという、何ともかんとも奇っ怪な出来事に襲い掛かられてしまった、まだうら若き絵師殿へ。

  「こたびは、とんだことだったな。」

 少々鋭い風貌に、だが今はさして威圧も載せぬままの穏やかそうな表情で、警邏隊の制服姿の、兵庫という名の隊長殿が、それらの“真相”を直々に説明して下さって。それによれば、写生旅行にと出掛けた先にて、島谷本人も知らぬ間に、掏摸が盗んだ…何カラットになるものか、グラムや何斤と描写してもよさそうな途轍もない大きさの金剛石というご大層なブツを、その手荷物の中へと預けられていたらしく。
「…ああ、あれが。」
 そのもの自体は島谷も見ていたが、貴石にはあり得ない大きさだったため、てっきりただの水晶石だと思っていたと正直に答えれば。おやと意外そうに瞬きをしてから、くすすと柔らかく微笑った兵庫殿、
「よろしいのか? 飛ぶ鳥落とす勢いで売り出し中の絵師殿が、金剛石を水晶石だと思っていたなどと公言しても。」
 絵師でありながら、なのに物の見分けもつかぬとはと、笑い者にならぬか…と。少々揶揄するような言い方をされたが、厭味は欠片も含まれてはおらず。それをこそ掬い上げられるほどに尋深い感性の持ち主殿は。味のある顔容
(かんばせ)へ、ちらりと苦笑を滲ませてから、
「私は生来からの野暮天で、絵師になっても垢抜けない不調法者。見たものから感じたことを、紙面画面へいかに映すかにしか関心はありません。」
 貴石とはいえ魅惑のてんでないものもあれば、石ころでも風格滲むものはある。そこのところが見通せれば、絵師としての目利きには十分ですので。金剛石とガラス玉の見分けさえつかずとも、別段不便もございません…と。けろりとしたお顔でそう言ってみせるところはなかなかに豪胆であり、
「…まま、確かにあそこまで大きいと、有り難みもないのは確か。」
 兵庫もまた、そうと同意してから。自分の口許へと拳を寄せ、その陰から、
「ここだけの話、私にもあれは文鎮にしか見えませなんだ。」
 彼だとて、役目や役職柄のこととして“鑑識”という方面からの知識・見識は持ってもおろうに。それでも…そんな一言を囁いて、目許を細める稚気を見せ、島谷をもクスクスと笑わせて下さったほど。それはそれとして、

  「こんなまで直接的な接触を受ける前、
   思わせ振りの脅迫を受けるとか、
   連中の家捜しにあって家が荒らされたというようなことはなかったのか?」

 こそりと忍ばせたものを取り返すのに、本人の前へと立ちはだかっての“お命頂戴”とはまた、あまりに乱暴でいきなりな展開には違いなく。旅先での持ち物に紛れ入れ、しかも届ける様子もないと来て、島谷が気づいていようがいまいが、本人がいつも持ち歩いているとは思わなかろうから、まずはそうされるものだがとの前提から訊いた兵庫殿へ、
「いえ、そのような覚えは…。」
 まだ独り身の気楽さ、家は画材置き場のような扱いでしてと、やはり正直なところを苦笑をしつつもご披露し、
「戻ったそのまま、土産話をするついで。朋友の間を渡り歩いての、夜っぴいての飲み会もどき。芸術論だの何だのと、やくたいもないことをぶつけ合っては、怒鳴ったり笑ったり掴み合ったり。大人げないことをして、浮かれて過ごしておりましたゆえ。」
「ああ、それで。」
 あいつらにしてみても捕まえようがなくての強攻策だったということか…と、納得がいったらしき兵庫に向けて。特に怪我を負った身ではなし、ごそそと身を起こしての起き上がり。均整が取れているものの、それでも筆を振るうのが生業
(なりわい)の“絵師”にしてはなかなかの体躯を、やや窮屈そうに折り曲げて、
「そんないい加減な振る舞いをした揚げ句の、この度はこのようにご迷惑をおかけして。まったくもって面目のないことです。」
 視線までもをやや俯けたまま、どこか殊勝にもそんな言いようをする島谷殿であり、
「あ、いやいや。何を仰せか。」
 貴公が悪い訳でなし、そもそも悪党を取り締まるのが我らの職務であるのだし…と。あまり恐縮せぬよう、宥めてやりつつ、
“何だ。見た目ほど豪胆な御仁でもないのだな。”
 ついつい兵庫殿がそうと思ってしまったのは。言わずもがな、彼の側に…このお人にそりゃあよく似た顔見知りがいたからで。彫が深くて精悍な面差しは、だが、黙っての納まり返っている分には哲学者のような静謐さを満々とたたえ。いかにも奥行き深い知慧を滲ませた風貌である…ってのにも関わらず。壮年のお侍然として落ち着き払っているどころか、とんでもない行動力をも発揮する“現役”の もののふだから困りもの。絵師であるにしては…という描写を“いい壮年にしては”と置き換えれば、何から何までこのうら若き彼と重なりまくるほど、その年齢には不相応なまでの体力も反射も、それを遺憾なく発揮出来る場面への奇縁も持ち合わせ。ついでのことには、熟練の周到さによってよくよく練り込まれ使い込まれた権謀術数までもを、十分すぎるほど蓄えておいでというから、本当に本当に困った御仁であり。
“…まったくだ。”
(笑)
 しかもしかも今回の一件、二人がそっくりだということが由縁して、そのお人へも余燼が飛んだその勢いを得てのこと、きっちりと一枚咬んでも下さった。それだけに、隊長殿がついつい、比較対象として思い浮かべてしまっても仕方がなく。
“まあ、あっちにしても好きで関わった訳じゃああないのだろうけど。”
 それに。こうまでの間近でよくよく見れば、さすがに別人だってことは歴然としており。くどいようだが、こちらの絵師殿の方が断然若いし、気が強そうな、我の強そうな雰囲気もなくはないが、それは…ひとかどの地位なり立場なりを自ら築いた存在たれば、誰しも持ち得る“存在感”というものが匂い立ってのこと。風格とか威容とかいうくくりは同じでも、人斬りである“あちらさん”の持つ…何とも言えず分厚く怖いそれとは、一緒にしちゃあ気の毒なほどにまだまだ青い人性で。
“逆な見方をするならば…。”
 絵師という、自身の気概…矜持や鼻っ柱の強さでもって“立って”いる生き方・生業を持つ彼だからこそ。侍でもない身でありながら、あの壮年の威容にも少しは似たような重厚さを、この若さでその身にまとうことが可能なのだ…というところかと。
“アレを知らねば、第一印象は指し詰め、お若いのに何とも泰然と風格あるお人だねぇで済むところなんだろうにな。”
 向こうのアレは、知っていればいるほど とんでもねぇ輩でしかねぇもんなと。大事な箱入り娘を奪られた恨みが余程に深いか、警邏隊長。
(笑) 言いたい放題をしている胸の裡(うち)などおくびにも出さず。何でしたらお家の方への連絡をしておきましょうか? ご家族は? 使用人の方がいるだけなのですか? だったら迎えに来てもらいますか?…と。ことさら丁寧に気を配って差し上げている極端さよ。(苦笑) 無論のこと、そんな彼だということが、こちらの背景というものを一切知らない絵師殿には、判るはずも気づくはずもなく。お心遣いをありがとうございますと、礼を述べての…少しほど間を置いてから。

  「身を呈して私を護ってくださっていたあの方々は、もしやして。」

 訊こうか訊くまいかと躊躇してでもいたものか。これまでのはきはきしていた口調が一転したので、ままこのくらいはヒントをやってもよかろうと、
「何だ、気づいていたのかい。あいつらのこと。」
 水を向ける兵庫であり。
「あ、いえ。襲撃を受けた段に至っての やっとですが。」
 話してもらえるのかとホッとしてのことだろか、肩から力が抜けたのを眺めつつ、
「あの二人ってのは。深色の髪をだんだらに延ばした、何とも太々しい壮年と。やたらに身が軽い、金髪の若いの、っていう“あの二人”のことだな?」
「はい。もしやして彼らは、今 噂になっている賞金稼ぎの方々では?」
 あらためて訊いたところが、
「…。」
 ここに至って。少々歯切れの悪い態度を示す兵庫であり。公的な公安組織に身を置く彼は、そんな存在を認めてはならぬ立場なのか。いやいや、そういった機関からの懸賞金がかかっているようなお尋ね者がいるとも聞く。だとすれば、無法者や無頼な輩と紙一重のそんな連中が、名を馳せ、巷を闊歩していることをこそ、不甲斐ないことよと機嫌が傾いた彼なのだろか。そういった様々が思いつくほどには、世情にも練れている絵師殿が、
「あの…正体を明かしてはいけないお立場なのでしょうか?」
 多少は遠慮気味になっての、言いようを選んでそうと訊き直せば。上背のある黒髪の隊長殿、少々泳がせていた視線をはたと止めると、
「ああ、いやいや。あんたが案じているような、実は“公安”に属すとか何とかいう、劇的な背景なんぞは一切持たない連中だ。」
 だから、俺たちが無理から箝口令を押し付けて、その口、開けさせねぇようになんてこたぁしないし。逆に言や、あんたが義理を感じて黙っていようがいまいが、それは俺らの知ったことじゃねぇ、と。やや伝法な口調でそこんところを正して差し上げてから、
「あんたが目串を刺したその通り、あの二人は“褐白金紅”とか何とか呼ばれてる、賞金稼ぎだ。」
 まずはそこを答えてやっての…それから。
「ただまあ奴らは、それが生業だとはいえ、危ねぇ連中と斬った張ったしてやがるからな。あんたが何か知っているとか、あいつらと関わりのある身だと分かったら、そういう奴らからの魔手が、無防備なあんたへも伸びてこねぇと限らねぇ。」
 遠回しな言いようをした兵庫の弁に、皆まで言わずとも通じたか、
「…そうなると、わたしの存在があのお人たちの枷になってしまいますね。」
 だとすれば、やはりご迷惑には違いないと、勝手に卑下しての納得をなさったようだったが、

 “いや、あんたが危ないとだけ言いたかったんだがな。”

 何たって、あの二人は途轍もない練達で、しかも…未だその看板を下ろしてはいない“侍”だから。斬ると決めればその手を止めないだろうし、そんな英断は今でも揺るがないままでいるのに違いなく。見苦しい命乞いにも心揺らがさず、数多の野伏せりや野盗らを斬って来たように、それが無辜の市民でも恩のある友や親兄弟でも、明日を誓った、そう彼らお互いが相手でも。たとえ世間中からの非難を浴びようと、斬ると決めたら迷わず斬るのだろうし、その延長で、もしもこの絵師がオトリにされての、彼らやその知己が危うくなれば、どちらを優先するか、惨くとも切り捨てるのはどちらとなるかは自明の理。それが気の毒だからと、つい言葉を濁したのだが、

 “初見も等しいこの御仁にこうまで思わせるほど、
  あやつらは侍としても 多少ほど、不器用なところもあるからなぁ。”

 今の御時勢には生きにくかろうに、あくまでも非情な“人斬り”には違いない彼らが、他方で…その切っ先を向けないで済む相手であるのなら、出来る限りの骨折りをしてでも助けようとする。相手への恩着せにならぬ格好にて、何でも背負おうとする人性をしていることへもまた、それとなく気づいている兵庫だったから。この男が杞憂しているその通り、なのかも知れなくて。

 「だとしても。あんたが気に病んでしまうこたぁない。」

 彼自身も思わぬほどの、優しい口調で。そんな風にあらためての口添えをする兵庫であり。
「今回の一件なんぞ、あっと言う間に霞むほど。これまでに狩って来た途轍もない数の連中の、その関係筋から恨みを買っているような奴らなのだ。そっちは連中の自業自得だからな。あんたはただ、側杖
(そばづえ)喰っての巻き添えにされないよう、自分のこと、自分の身内のことを案じていなさい。」
 特に彼を励まそうとしての針小棒大な脚色も何もない、これ以上はないほど真っ当な言いようをしたのだが。それでもどこか力の籠もらぬ様子にて、
「はい…。」
 失意に満ちた声を返す絵師殿だったものだから。

  「なに。案じずとも、そうそう容易く斬られるような連中じゃあない。」

 野伏せり退治なんて比にならないほどの“大それたこと”を、あの二人は踏破している。何百という途方もない数の雷電で構成されてた“大遊撃部隊”に包囲され、ぎっちりと隙間なく守られていた筈な本丸戦艦を。斬艦刀一機で乗りつけての、ほんの七人で蹴倒した連中だ。

  “まま、それは滅多なことでは言えない事実だが。”

 まったくである。そんな“言えない秘密”は伏せといた上で、
「例の、奴らの存在を世間へ広く知らしめた読み物は知っているかね。」
 にんまりと口許を綻ばせての兵庫の言いように、ええと頷いた絵師殿へ、
「あれは奴らの仲間内が書いているものでね。あれでも結構な活躍ぶりだが、実態はあんな…月に2、3件なんてなもんじゃあない。」
 書いても差し障りがないものだけと、筆者が吟味し選りすぐっての“暴露”だから。

  「あの二人は先の大戦経験者だ。」
  「それって…。」
  「信じるか否かは、それこそあんたの自由だけどもな。」

 十数年も前に終わった先の大戦。自分も若い方だがそれ以上に無茶な話、あの久蔵の場合、逆算されるとあり得ない幼年での参戦者だってことになる。だが、それでも“事実”なんだから仕方がない。幼年学校に入校したその年度の内に、大人の師範を相手に負けなしという天才的な刀さばきを披露したことと、戦さに於ける研ぎ澄まされた勘とを買われての、最初で最後の“英才登用者”であり。そのくらいに、色々な理不尽やら無茶苦茶が実在実現していたのもまた、あの大戦。

 「あの戦さの前線組で生き残れた面子で、しかも今の今でもあの太々しさなのだ。
  それがそうそう、そこいらのチンピラ風情を相手にどうにかされるものか。」

 この自分が、いきなり権威も制御統制力も失った警邏隊を、それでも維持し続けての持ちこたえさせたのと同じに、と。そこへだけは胸を張っての太鼓判を押してやれる、兵庫殿であったらしい。………箱入り娘は まんまと奪られたけれど。


   “………うるせぇよ。”









◇  ◇  ◇



  「…おや。」

 旅先で、久々に結構大きな町に街に立ち寄ることとなった。目的地とする先が郊外や辺境の地である関係から、そこへと至る道行きの途中に大きな規模の街があるのは、たいそう珍しいことだ。とはいえ、単なる物見遊山の旅で…あるようなないような彼らには、人の多い街にはあまり魅力もなく。携帯品に不足はないか、広域情報を仕入れられるなら見ておこうかという程度にしか重宝だと思うこともないというから、この街をここまでにした差配や創設者が聞いたら気を悪くしそうな、あくまでも単なる行きずりの二人連れ。そんな彼らだったが、その片割れがふとその眸を留めたのは。珍しいことには書店の、しかもグラビア誌やムック誌ばかりがにぎやかしくも並べられた、店頭の平台へ。資料集めに地図やら読み物を買うことはあっても、写真や図版主体のそういう筋の本には目もくれない野暮天であったのにと、怪訝に思った若いお連れ。早く行こうぞと促すのではなく、壮年の連れへそうまでさせた関心事の方へと眸をやれば、
“…美術誌、か?”
 人名なのか、それとも専門用語だか。素人にはその区別さえよく判らない語が見出しに居並ぶ、大判のグラフ誌には。なかなか丁寧な印刷にての、美しくも鮮やかな絵画や写真などなどが、どのページにも多数掲載されてあって。そんな中のとあるページ。ちょうど真ん中で、製本の都合などで歪んだりしないように、見開きを使っての掲載をという飛びっきりの気配りをなされた、今号で一番に大切な扱いのそれは、
「…真っ赤な林、森か?」
 様々な赤・朱・緋・茜とそれから、濃淡を生かしての絶妙なグラディエーションのみにて描き分けられた、膨大数多な胡蝶たち。それがまるで渓流に落とした帯のように群れを成し、右へ左へ舞い飛ぶ画面は何とも壮観で。その翅の隙間から覗くは、紫がかった漆のように深みのある墨色を背景に、白く塗り残したような木々の幹の影だけが居並ぶ、整然森閑とした森であり。画面の大部分を塗り潰す、赤と白という極端なコントラストが、だが。挑みかかるような攻撃的なそれではなく、むしろ、視線がどこまでもいつまでも吸い込まれるような、どこか神秘的な蠱惑に満ちており。ここが故郷で巣立ってゆくところなのか、それともここに許しなく迷い込んだ者らを幻惑しに出て来たものか。たくさんの胡蝶たちの姿は、ただただ鮮やかであでやかで。視線ごと気持ちまで吸い取るようで、ついつい眸を離し難くって。
「見事なものだな。」
 絵画刀剣、骨董品などなどに目の利く久蔵と違い、勘兵衛には、こういった芸術に対して、とんと関心もなければ判別もつかないし、それをそれでいいとするよな男であったはずだのに。これへは妙に感じ入ったような声を出し、視線を揺らすこともなくのまじまじと、観察してではなく、堪能しての眺める姿勢を取っており。
「うむ。」
 今時の画風だし、それを退けても新進作家の作だなというのは、久蔵にも判り。台にあった同じ本の表紙には、四科展入選作品特集とあるから、これは恐らく、本年度の選考にて上位入賞した作品なのだろうと思われた。
「………む。」
 ふと。勘兵衛が何度か瞬きをし、それから…不意にくつくつと笑い出す。腹を抱えるほどの大笑いではなかったが、それでも。がっつりとした喉元や肩が震えての、はっきりとした笑い方。風刺風聞雑誌や何やではなくての、こんな崇高そうなものを手にしての態度ではなく。それでなくとも、寸前まで魅入られたように真摯なお顔をして見ていた同じ絵の、どこがそんなに笑えたものか。
「…?」
 久蔵には何が何やら判りかね、怪訝そうに眉根を寄せての、いかがしたかと見やるばかり。そんな彼が案じる連れ合いが………見事な胡蝶の絵の中に気づいたもの。


  ――― 塗り損ねたように白く浮かぶ木々の、
       その高みの梢の細かく分かれている枝の部分を
       ただただじっと眺めていたならば。
       残像作用か何なのか、
       とある一角に じわりと浮かび上がってくる“影”がある。


 うなじをぎりぎり覆う長さだろう、ふわふわな綿毛のような髪をした。細おもての…誰だろか。横顔、いやいや女性の顔容のそれのように、するりと下りたる頬の線だけというほどに、向こうを向いてる人物の、頭部から肩あたりの影絵が浮かび上がって見えてくる。強烈な色彩のコントラストや、画面を眺めているうち、漫然と観た後は、画面のあれこれの上、どう視線が動くかを予測してのそれをも巧妙に計算利用しての。そうとなるよう、この絵には悪戯もどきな“仕掛け”が施してあったらしくって。鼻の頭さえ覗かない横顔の線と細い顎。すっきりしたおとがいから首元へと大きくくびれ、そのまますべり降りた線は、横へと伸びる下枝を細い肩口に見立てたところまで連なっており。

  “何とも巧妙なことか。”

 絵の見事さに魅入られての末、長々と眺めることによって眸へ残像作用を焼きつけてののち。この図が彼の横顔だと判る者へだけ意味を成す影を、鮮やかに浮かび上がらせるという、何とも巧妙な悪戯が隠れていたとは。そして、ということは。

 “儂への、何かしら言伝てのように受け取れるのは、果たして考え過ぎだろか。”

 島田勘兵衛へという名指しではないにせよ、この深紅の胡蝶の君の傍らに、いつも当たり前にいる誰ぞへ向けての、絵師からの含み。遥かに遠く離れたところから、いつの間にか彼を見初めていた者がいて。その想いはこんなにも強く、現にこうして、その手元間近へまで届くほど…と、そんな示唆が滲んでいるかのような気さえして。
“…島谷勘平、か。”
 作者として紹介されている名前には、重々覚えもあって。蛍屋での彼らの初見となったる例の出会いにて。久蔵が彼と無防備に話し込んでいたことを妙に警戒していた七郎次だったのは、こういう…懸想じみた執着の匂いを、知らず嗅ぎ取っていたからなのかも?
「? どうした?」
「…いや。」
 苦笑の後は妙に黙りこくっての物思いに入った連れを案じる、ある意味“火種のご当人”久蔵へ。大事はないと微笑って見せたが、それが却って不審に映ったか、
「宿を取ると言っていたろう。」
 腰を落ち着けて休んだ方がいいと言いたげな彼であったが、持ち物への補充や資料集め、手持ちの宝飾骨董類の資金への換金などなどという用向きを、全て終えてはいなかったし。素泊まりに近い宿をと考えていたので、入る時刻としてはまだまだ早い時間帯。
「今少し…。」
 街を見て回らぬかと言いかかったものの、
「…。」
 無言のままに凝視を向けてくる、連れの赤い瞳は冷然として動かない。こういう時は逆らっても無駄で、何より…こちらを案じる眼差しなのも重々承知である以上、情人からのそんな案じを無下にも出来ず。
「…あい判った。」
 これ以上困らせるのは、それこそ年甲斐のないことと。意を呑んでの店先から離れることとした勘兵衛であり、
「…?」
 あれほど見入っていたのに、あの雑誌は買わないのかという顔をされたが、かぶりを振るとこちらからこそ促し、打って変わっての道を急ごうという素振りを示す。

  “ただの錯覚、幻のような描かれ方だっていうのに…。”

 やわらかそうな髪の輪郭、なめらかな頬の輪郭。顎の小ささに首の細さ、肩のなだらかさ。浮かび上がったのはただそれだけだのに…愛情が籠もっていればこその嫋やかさややさしさの滲む、掛け値なしの麗しい絵姿に描けていたことへ。何の説明もないままにそうだと痛感したと同時、勘兵衛は少々慄然とした。絵心などない自分へでさえ、こうまで伝えるその威力。あのような絵を身近に置くことさえ、おかしな言い方だが恐ろしいと思っての、否定をした勘兵衛へ、
「…。」
 不思議と。当の久蔵は、平然としている。今も、そうかとあっさり納得したほどで。すぐ傍らから一緒に見ていたはずなのに。
『見事なものだな。』
『うむ。』
 そうと認めもした彼だのに。それ以上の何も、感じ取りはしなかったということか?

  『得てしてそういうものですよ。』

 後日、やはりあの絵を見てついつい苦笑したという古女房にその旨を話すと、あっけらかんと笑ってそうと応じ、
『久蔵殿は、もともとご自分の風貌に関心はない方です。』
 勘兵衛様が、あの絵師殿の風貌、自分に似ているとは思えなかったのと同じ程度にと、要らんことながらも判りやすい喩えを持ち出し、
『それに、自分の姿なんかよりずっと、関心の向きやすい大好きな対象
(もの)がいつも傍らにあるのですもの。』
 よそ見なんてしてる暇間も、それこそ勿体ないってもんですようと。断言されたが、

  『???』

 そこでピンと来ないところが朴念仁だというのですよと、却って呆れられた後日談をおまけとし、この奇譚は これにて幕と致しましょうぞvv
(ちょんっ)






  〜 どさくさ・どっとはらい 〜  07.5.21.〜5.23.


  *妙に人気の島谷センセー。
   引っ張り出した責任取って…というと大仰ですが、
   後日談はそもそもからして書くつもりでおりましたので、
   少々遅れましたが、ここに投下、でございます。
   胡蝶の幻、いつまで追い続けるおつもりかは、
   今のところは未定…とゆことで。
(苦笑)


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