白 雨  (お侍 習作60)

        *お母様と一緒シリーズ
 


 何とはなく、湿気を含んで厚ぼったい大気が垂れ込めているようだなと思ってはいたのだが、そんな空気が金気をおびた風に掻き回されての数刻後、

  ――― ぱたっ、ぱ…たたたっ、と

 軒近くの日陰に繁茂していた蔦の葉を、叩いて弾く音がしたかしらと思わぬうちにも、ザッと勢いのある雨脚が一気に落ちて来た。昼下がりの空は明るいままだから俄雨ではあろうけれど、真夏のそれのようにすぐにも上がってくれるかどうかは微妙なところ。まま、どちらの作業場であれ、見切りをつけるのはお上手な監督が率いておられるので、危険のないよう作業は一時中断と運んでいるだろなと。さしでがましくも駆けつけることもなかろうと判断し。惣領殿が見回りに出ている間の留守番の、その傍らに手をつけていた内職仕事、黙々と続けているシチロージであり。手元から目線を上げぬままでおれば、
“…お。”
 少し若い声が何かしらの指図に張られているのが聞こえて来る。雨脚とそれから距離もあってのこと、内容の詳細までは拾えなかったが、しばし待てば詰め所の戸口に人影が立ったので、それへとやんわりした笑顔を向けてやり、
「習練は中止したのですね。」
 金の綿毛に雨粒を宿らせたまま、真っ赤な外套の肩先や膝あたりの雨粒を白い手で払っている、それは寡黙な剣豪殿ご自身の声ではなかったことも先刻承知のおっ母様。
「コータ殿のお声が此処まで聞こえました。キュウゾウ殿の意をよく汲んで下さっているようですね。」
 武芸を一通りこなせそうだからということか、蓬髪の惣領殿から“村人へ弓の稽古をつけよ”と任されたキュウゾウであったものの、寡黙な上に無表情な師範と来ては、意志の疎通はなかなか難しいだろなと危ぶまれたところが。村人の中、コータという名の ずんと若くて利発そうな青年が、殊の外、このお侍様の思うところを読み取れるようになっているらしく。最初のうちは、
『肘を緩めるな、ということですよね?』
 などと、いちいち確かめつつであったものが、このごろでは目配せだけで…習練の難度を上げる指示や解散の合図、弓の補強や矢の扱いのコツなどなどに至るまで、何とか通じているらしいから大したもの。そんなところから今では“通詞”の役を買って出ており、先程の声も、大方、
『雨が上がるまでの解散とする。片付けは後でいいから弓だけ持ち帰れ。体を冷やさぬようにな』
 などなどという、簡単な注意を授けていたのだろうと思われる。
「さあさ、キュウゾウ殿も上がって囲炉裏に寄って下さいませな。」
 降り始めたばかりだったとはいえ、この勢いの中を広場から戻って来たのだ。湿気以上のお水を浴びたろうし、土間の上では外から入り込む冷たい温気も間近なので、髪も服もなかなか乾きはすまい。それを思っての声をかけたが、
「…。(否)」
 大したことはないということか。表情の乏しいままかぶりを振った次男坊、上がり框に腰掛けただけでそれ以上は動かない。雨が上がるまでそこからお外を眺めているつもりらしくって、
“上へ湿気を上げたくはないのでしょうか。”
 言葉少なな子ではあるが、その分、意外な行動を持って来て、驚かされたり微笑ましい想いを授けてくれたりも多かりしな彼であり。こうやってシチロージが囲炉裏端にて縫い物なんぞを手掛けておれば、好奇心が擽られるものか、おっ母様の背後に回り、小さい子供のように手元を覗き込んでは飽かず眺めているのが常だのに。今日も丁度、セツ殿から教わったばかりの“刺し子”というのを練習中。コツを会得し、上手にこなせるようになったれば、皆の替えのシャツなぞへ手掛けるつもりの補強の縫い取りであり。藍の木綿の大きな布地をお膝へ広げ、それは細かい縫い目を刺す手元、彼が覗きに来ないというのは不審でならず、むしろこちらが落ち着けないほど。せっかく乾いていて暖かいところへ、自分が寒気ごと上がっていっての湿らせてはいけないと、きっとそうと思ったに違いなく。
“お優しい心遣いだってのは判りますが。”
 そんな風に心を砕いてもらったのなら、たいそう嬉しいことではあるけれど。こちらへほっそりとした背中を向けたままなのが、ムキになっての妙な我慢をしているかのようにさえ見えて。ともすれば、こちらまでもが何か我慢を強いられているような気分になるから不思議なもの。
「…。」
 恐る恐るというよりは結構大胆にも、すぐの間近へ無造作に擦り寄って来、こちらの肩先へ手をちょこりと添える。そんな時の彼がはらむのは。刀を振るわせれば鬼のように強く、冷淡非情なまでの斬撃を、躊躇なぞ一切挟まぬままの即断で発揮なされるお人…とは到底思えぬ、軽やかな存在感のみで。可憐な小鳥が遊びに来ての、小首を傾げるような稚い所作にて“何をしているの?”と覗き込む、その折にやんわりと伝わる感触や温みの、何と切ない暖かさなことか。表情の薄い彼がほんのり浮かべる喜色の気配もまた、見ているだけで…胸の奥をやわい力できゅううとつねられるような想いのするよな、何とも初々しい愛らしさなのに。それを拾える機会を下さらないなんて狡いと、そうと思えてしまったシチロージであったのかも知れず。何より、
“あれでは体を冷やしてしまいますのに。”
 確かに、あのくらいで風邪を拾うような脆弱な人物ではなかろうさ。あの凄絶だった大戦の最前線へ、生身で投じられての生き延びた“つわもの”だ。もっと苛酷な目に遭ったとて、けろっとしたお顔で掻いくぐってしまわれるのだろうけど。手当てや補完が出来ることなんだから、それくらいは享受して下さってもいいじゃないかと、常の日頃から持ち合わせの多かりし保護欲が…彼へのそれに限っては“母性”に近い積極性が、シチロージの胸の裡
うち、黙ってはいなかった模様であり。

  「…あ。」

 咄嗟にこぼれてしまったようなお声とともに、かつん・からりからからから…っと、何か堅いものが板張りの上へ落ちたような音が立ち、
「?」
 おっ母様の危急の声への反応は、さすがに押さえることも適わなかったらしい次男坊が、それはなめらかな所作にて、細い肩越しに振り返れば。
「あらら、指抜きと針が…。」
 シチロージが膝立ちになって自分の周囲を見回している。
“指抜きと針?”
 針は知っているが、もう1つが何のことなのか判らない。とはいえど、
「…。」
 靴を脱いでの上がって来た気配を仰ぎ見たおっ母様の肩を押さえ、かぶりを振って見せたのは、立ってはならぬということか。
「針が…危ないと?」
「…。(頷)」
 ほんの数日の差ではあれ、コータ殿とは年季が違うおっ母様。彼が自分へ向けるには珍しい、圧し止めるような気勢のこもった眼差しには、

  ――― 自分が探すから母上はそこでじっとしていなさい

 そんな気色が感じられ。
「そうですか?」
「…、…。(頷、頷)」
 こくこく頷く所作のすぐ後、されど視線が少々泳いだのへと、
「…あ、ああ。指抜きのことですね。」
 知らないものは探せない。訊かれて頷いた次男坊へ、シチロージは自分の右手をお顔の間近に広げて見せて、
「中指に嵌めていた、銀色の鋼の指輪のようなものですよ。幅があって、そうですねヤスリの反対みたいに小さなへこみがずらずらと並んで埋まってる。」
 厚い布を縫うときは、針のお尻をぐいと押し出すのにも力が要ります。その折に指へ刺さらぬよう嵌めておくお道具で、
「囲炉裏に落ちはしなかったのだけは見届けたのですが。」
 何せセツ殿から借りたもの。お優しいご婦人だから責めたりはしないことでしょうが、ご愛用のもの、失くしてしまいましたでは済みませぬ。困ったと眉を下げるおっ母様へ、
「…、…。(頷、頷)」
 承知としっかり頷いて、床へと手をつくとお膝も板張りへとついたそのままの、四つ這いになってあちこちを見回し始めるキュウゾウであり。囲炉裏の縁の段差の陰や、今は主が居ないが日頃はカンベエが座している、ワラを綯った円座の周り。茶器や茶筒を載せた盆に炭桶と、囲炉裏の周辺を丹念に見回し。ふと、
「…。」
 腕を立ててのしなやかな背中をも伸ばしての、部屋の向こうを透かし見たものの。雨による陰りのせいもあってか、部屋の隅はその輪郭も淡い暗がりに霞んで判然とはしなかったし、
「遠くまで転がった音ではありませなんだ。」
「…。(頷)」
 シチロージの助言へ頷き、再び、囲炉裏端へと注意を戻す。まだそれほど明々と焚いている炭ではないけれど、こうまで間近へ寄ると輻射熱は結構高くなるものだと実感出来、色白な双刀使い殿の頬にもうっすらと赤みが差したほど。
「…。」
 指輪と言っていたからには、本当に小さなものであるのだろうが。ただ転がったにしてはどこにも見えないのが歯痒くて。四角い炉端の、シチロージが座したままの一角を避けての三方を、数回ほど隈無く見回してみたが、やはりそんな小物の影はない。探しものが苦手ということもないのだがと、一旦手を挙げ、顔を上げ、落ちてはないと言われた囲炉裏を、それでもぼんやりと眺めて、それから。その向こう側に広げられている、濃紺の布へと視線が移る。針はもう見つかったらしくって、白い手、指先にちょんと摘ままれており。そんな手が無造作に載っかったままの、おっ母様のお膝を覆っているほどもの大きな布をぼんやりと眺めやっておれば。
「?」
 その陰に…おやや? 何かが見えたような気が。
「…。」
 お行儀としてはいいものではなかったが、膝立ちになっての囲炉裏の縁をぐるりと回り込めば、
「…?」
 おっ母様の視線もついて来るのが判る。布の下にお膝を揃えての、キュウゾウに言われたそのまま、ずっと動かないでいたシチロージであり。探し物へと集中していた間も実は、その視線、次男坊に張り付いたままだった。そうしてそして、傍らまで寄って来た次男坊に、だが、
「…。」
 特にたじろぐ気配もないまま、その接近を見守っていた彼の視線の先。白い手が伸びて来て、お膝近くへ降りて来て。そのまま、布の下へと指先だけを差し入れて来たのへも、シチロージは一切動じずの態でおり。そこから出て来た手の先に、金属の丸い輪っかを見届けて、
「おや、そんなところにありましたか。」
 囲炉裏の縁に弾かれて戻ったか、正しく“灯台もと暗し”でしたね、意外なもんですねぇと。くすすと微笑って手を出した。柔らかく開かれた手のひらへ、何の疑心もないままに、綺麗な銀の指抜きを渡すキュウゾウの、ちょっぴり面映ゆげなお顔を見てにっこりと微笑い。それからそれから、
「ありがとうございました。」
 お礼を述べつつも…素早くの一瞥にて。おっ母様が見回したのは、紅色の衣紋の肩から腕から裳裾から。
「?」
 どうしたのかな、目が泳いだおっ母様だったけれどと、キョトリとしたキュウゾウ殿には、だが、それ以上のことは気づけなかったに違いない。


  ――― 手のひらやお膝へ埃がつきはしませんでしたか?
       (ううん、おっ母様が毎日お掃除しているじゃないの。)
       とんだうっかり者でごめんなさいね。
       (そんなことはないよ、見つかってよかった。)


 ちょこり、正座をし直して。シチロージと向かい合う剣豪殿の背中が、あの双刀を背負ったままだというのに、不思議と…小さくも幼く見えるのはどうしてだろうかねと。戻って来たそのまんま、戸口から一部始終を見ていた惣領殿、こちら様はなかなか止まらぬ苦笑に苦心しておいで。かつんころころと板張りへ落ちたのは、指抜きではなく作業場で使われている、ボルト留めのナットだったし、それはシチロージの背後、框から土間へと転がり落ちていったままになっている。はっとして振り返ったキュウゾウには見えない角度で起きたこと。その後、囲炉裏へと寄って行っての捜索を始めたた彼が、部屋の隅へと視線を投げたその隙に、ささっと自分の膝にかけられた布の下、何か隠した古女房だったのも、此処からはよっく見えており、

 “髪が乾いているかを確かめておるようだから、差し詰め…。”

 スリットがあるせいで、無造作に座ったそのままお膝の周囲に裳裾が広がっている、足元まである紅の上着や。湿気を吸っての重たげになっていたのだろう、今は指通りもふわふかに戻ったらしき、柔らかな金の綿毛を乾かさせようとして。囲炉裏の傍ら、姿勢を低くさせてのうろうろさせたというところか。目的のためには手段を選ばぬというのはよく聞くが、

 “その手段とやらを、ああまで素早く弾き出せるとはの。”

 一体どこの誰から学んだ手管やら。難物なはずの次男坊を、それは鮮やかに操ってしまったおっ母様の手腕へと声を押し隠しての苦笑を続けていた惣領様だったが、

  「カンベエ様、いつまでそこにおられるつもりです?」

 風邪を引きます、上がって来て下さいなと。雨脚にも誤魔化されずに、いつから気づいていたのやら。よく通るお声が飛んで来ては、もうもう観念するしかなくて。

  “さて、儂は何を探せと言われるやら。”

 此処でそれを言ってやっての種明かしは、さすがに大人げがないかと思えば。これまた苦笑が浮かんでならず。降りしきる白雨の中、輪郭のぼやけた会話の声が、それでも楽しげにお外へまで響いていた昼下がりでございます。



  〜どさくさ・どっとはらい〜  07.6.22.


  *あああ、
   拍手お礼にと書いたのに、またしても字数を越えてしまいました。
   どうしてこうも、
   くだくだと綴ってしまう性分をしているのやら。
(とほほん)

   それはともかく。
   おっ母様、相変わらずに最強です。
   可愛らしい心遣いは嬉しいけれど、それより家族の体が大事。
   そのためならば目的も手段も選ばない、
   そんな強腰なおっ母様はますますのこと、
   次男坊の憧れの人でございます。
(苦笑)

めるふぉvv めるふぉ 置きましたvv

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