峠の外れ、塚石の傍ら。
眼下の足元へと濃い影を落とす、
桐の木の高みに座って、所在なげに独りきり。
双頬くるみ込んでの頬杖などついて、
ぼんやり、空なぞ見上げている。
新緑の緑が目映い初夏の木立の中にあって、
深紅の衣紋は目立つはずだが、
消気の心得がよほどに上手いのか、
誰ひとり気づく者はなく。
“まま、あのような頭上の高みに人が居ようとは。”
まずは思わぬことだろなとの苦笑をしつつ、
羽衣を失くした天女がお空恋しと消沈しているかのような、
そんなほっそりとしたお背(せな)を、向背からしばし眺めやる。
人が嫌いということではなく、ただ、
接し方を知らないせいでか、あまり懐っこく構えはしない。
必要のないことは必要がないからと、
仕事が片付けば、もう用向きもなかろうと、
先にとっとと歩み出すことも多かりし君で。
御礼や挨拶といった諸々をあしらうのはすべて相方に任せての、
まったくもって気儘な若いの。
「…っ。」
不意に“ぱたたた…っ”と、羽ばたきの音がして。
おやと小手をかざし、彼のその上、目映い空を透かし見やれば。
真っ青な空から滲み出して来たかのような、
瑠璃色の小鳥が宙に躍って、彼へと懐く。
赤と青と、軽やかな存在が二つ。
地上よりずんと高みで、見やるはどのような景色であることか。
――― 空の住人、か。
鳥は骨質がそれは“粗”なのだそうで。
空に浮くため少しでも身を軽くと特化して、そうなったということだが。
そういえば彼の青年は、
痩躯なというだけに留まらぬくらいにその身が軽い。
膝の上へと乗り上がって来るときも、
閨房へと抱え上げての誘(いざな)うときも、
この年寄りが楽々抱えて持ち去れるほどであり。
どれほどの妄執にて搦め取ったるつもりでも、
迂闊に構えておれば、いつだって飛び去れる相手なのだと、ふと思う。
「…。」
翼の代わりに金の冠が、青空の中、頭上に煌く。
風に空に、愛されている、真っ赤な胡蝶。
孤高に身を置き、それが絵になる軽やかさ。
ほっそりとした背中は、
人ならぬ存在にいつだって戻れると、
そうと告げているかのようで。
“…それは困る。”
手放してなるものかと思う、そんな自らの業にこそ、
苦々しくも笑みが浮かんでならぬ、壮年殿だったりするのである。
◇ ◇ ◇
どうにも我慢がならなくてのつい、
連れを置き去りにして先に発ってしまったのは、
独りになりたかった訳でもなければ、煩わしさだけが原因なのでもなく。
「…。」
勘兵衛だとて、あの七郎次がそれは案じていた“人嫌い”のはずだのに。
それでも一応は、部下を束ねていた地位にあっただけのことはあり、
人あしらいにも長けてはいるし、
処世術も一通り、身につけていての卒がなく。
“そういうのだけじゃない。”
眼窩も深くて彫高く、どちらかと言えば精悍。
着痩せして見えるが、肩も胸板も雄々しく厚く。
刀をかざして見劣りのせぬ、野趣に満ちたる風貌をしているにも関わらず。
それが不思議と…端然と構えれば、物静かな佇まいにも調和して。
深色の蓬髪も、顎に蓄えた濃い髭も、
あれだけの男ぶりには、さりげない威容を加えるばかり。
思惟にふけっての横顔は端正で、
言葉少なな言いようでも、
少し枯れての、だが、深みのある響きが何とも言えぬ、
あの声で紡がれたなら、
誰だとて聞かずにはおれなかろうし。
さしたる論を弄さずとも、十分に場を収めての、
結果、多くの人々からその人性を慕われる。
勿論のこと、口先だけの男ではなく、
誓った約定は必ず果たすし、
その誠実で真摯な想いを体言させた鋭い眼差しは、
濃色を含んでの揺るがずに強く。
“…俺のものだのに。”
早い話が、彼が人に慕われれば慕われるだけ、
その分、独り占め出来ぬのが歯痒くてしようがない。
あの大きな手も、精悍な匂いも、
頬や肌にこぼれて来て触れるとくすぐったい蓬髪も。
少し堅いが、低められると甘く掠れるあの声も、
伏し目がちになると案外濃い陰を頬の縁へと落とすまつげも。
懐ろの温かさも、隆と筋骨の張った胸板や背中も。
脇から腕を回してしがみつくと、
手の収まりがいい、かいがら骨のところとか。
自分が乗り上がっても余裕で受け止められる腿や膝、
ごつり骨張ったくるぶしも。
「…。」
どこもそこも愛惜しく、そこもここも自分のなのに。
それを思うと歯痒くて、でも。
「…。」
ああでも、それに引き換えられるものが自分にはない。
髪から立つは椿油の香りであって、これという匂いもしないし、
指先も頬も冷たくて、肩は尖って薄く。
ならばと逆を探しても、やわらかいところなんて何処にもないし。
小さな子供へも悋気立ってしまうほど、心の尋も足りなくて。
「…。」
そのうちいつか、愛想を尽かされるかもしれないと、
そんな自分につい焦れる。
「久蔵。」
不意な声がし、それへと思わず背中が伸びて。
肩先にいたヒタキが驚いたか、
慌てて飛び立った羽ばたきの先が、軽く頬を掠めていって。
「降りて来ぬか。」
肩越しに振り返れば、眼下の街道、白い衣紋の彼がいる。
背条のしっかと伸びた立ち姿は、
小さな迷子を探しに来た大人のようでもあり。
だが、
「…。」
ひらり、降り立っての間近へ寄れば。
和んだ眼差しに滲むは、やわらかな稚気に染まった笑みであり。
まったくお主は、面倒ごとをすべて儂へと押し付けおってと、
青年の調子のいい逐電を、叱っているやら褒めているやら。
「…。」
そんな壮年の声を聞き流し、
久蔵の白い手が伸びて…首もとの深みへと吸い込まれる。
防具も兼ねた堅い生地が立っている襟の中、
ひやりと冷たい指が、熱い肌へと触れて。
見なくとも判る古傷の上をゆっくりとなぞる。
「…?」
「俺には何もない。」
「…久蔵?」
これとの対の傷も、
鏡で探して辛うじて判るほどに、もはや消えかけている。
「温みも安らぎも、頼もしさも何も。」
「…。」
「俺には何もないのが、歯痒い。」
何も持たずに、狭き孤高の淵に立っていた。
あの頃はそれで何の不満もなかった。
身を絞るほどの餓(かつ)えさえ、なお翔るためのバネになったから。
だが今は、そんな自分が切なくてたまらない。
この男に去られても、文句の言えない身であることが、
切なくて歯痒くてたまらない。
「…。」
厚みのある肩へ手を載せ、その上へ額を押し当てる。
欲しい欲しいと言うばかりの自分。
駄々ばかりこねている自分。
だって、何も持ってない。
持ち合わせられる奥行きすらない。
「…。」
何も求めぬのではなく、求めるものがないから。
だから、叱りもしないで、
あやしに回るばかりな勘兵衛なのではなかろうかと。
それに気づいてしまってからは、
まともに眸さえ合わせられないでいる久蔵で。
“…成程の。”
そうまで想われていようとはと、擽ったいやら…面映ゆいやら。
たで食う虫も好き好きとは言うが、
“買いかぶりにも限度があろう。”
呆れつつも…捨てては置けぬ。
辛かろうにと、血の気の薄い横顔を覗き込んでやっての…さて。
「何か増えられては困るな。」
「………?」
ふむと、わざとらしくも顎に手をやり、
鹿爪らしい渋面を作って。
深刻そうな顔になる勘兵衛であり。
「困る?」
「ああ。困るぞ。」
虚を突かれてのことだろう、
憂いの陰さえ忘れての、無垢なお顔が上がったのへと笑いかけ、
「いま以上に艶や蠱惑を増されては、寄って来る輩も増えようからの。」
「?」
「そうなっては、それこそ気が気ではなくなる。」
頼むから思い直しておくれと、
お願いするように、宥めるように。
柔らかな金の綿毛を、紅衣につつまれた細い肩を、
手套のない手でよしよしと、
梳いてくれる撫でてくれる大きな手の温かさに
ついつい陶然としていたものの。
「………。/////////」
何だか途轍もない惚気を、面と向かって言われたような。
こんな往来で、それも陽の高いうちから何を言い出すものやらと、
“これだから壮年は。”
デリカシーも臆面もないというのだと、
口が達者なら言ってやれたのに。
実際は…ただただ頬を赤くして、せめてとお顔を隠すだけ。
相変わらずのお二人ですよと、
頭上の梢から覗き込んでた小さなヒタキ、
楽しそうに“チキチキチキキ…”と囀ってから、どこぞの里へと飛んでった。
正青のお空が眩しい、初夏のある日の昼下がり………。
〜Fine〜 07.6.24.
*真面目な話や堅い話を書くと、
どういう反動か、
無性に甘いラブラブなお話が書きたくなります。(苦笑)
*背景にお借りしましたのは、ルリビタキという小鳥ございまして。
いつぞや、久蔵さんが口笛で呼んだのがこの子です。
らぴゅたにもアルプスの少女ハイジにも、
ポイントとなる場面での小鳥といえば…と登場していたので、
結構メジャーな鳥でもあるようですね。
めるふぉvv

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