雨やどり (お侍 習作81)

        *お母様と一緒シリーズ 〜 甘いの辛いの 後日談?
 


 実りの重さで深く深く頭を垂れている、それは見事な金色に色づきし稲穂たち。黄昏どきの風になぶられてさわさわと、急な驟雨のような、細波のような音を立ててゆく。目には見えない風の流れを、うねりに乗せての西から東へ、連なるように運んでゆくその声は。真夏の躍動が去った後の、ほんの少し物寂しい、秋の風情に似合いな寂寥の音。もはや刈り入れを待つばかりの、よくよく育った稲穂たちに囲まれて。そのようにいかにもの秋を迎えつつある、此処は辺境の地の静かな農村…だったのだが。目下の只今は、砦をこさえの、何やらどでかい装置を作りのと、慣れぬ作業へ精励中。毎年毎年、このくらいの時期ともなれば襲来し、まるでそれが当然の権利のように実りをごっそりと略奪してゆく“野伏せり”へ。もうもう勘弁ならんと立ち上がった農民たちであり。先の戦さでその身を特化させ、重武装をした機巧の敵をねじ伏せるそのために、こちらも人品卑しからずな頼もしいお侍様を掻き集めての、堂々たる“臨戦態勢”に入っており。鎮守の森から切り出した大丸太や、大昔に墜落したものであるらしい斬艦刀から採った鋼で“弩
(いしゆみ)”という大掛かりな装置を作り。村へとなだれ込んで来ての攻め込まれても、迎え撃って守り通すための砦や堡を設え。戦力として見込んでいるその上へ、士気を高めることをも兼ねてのこと、村人らへ弓の鍛練もつけている周到ぶり。

  「…次。」

 家並みが連なり、住民のほとんどが住まう、村の中心部の広場では。朝も早よから晩の結構遅くまで、ただただ黙々と、弓を引いては射るを繰り返すという鍛練が、整然と続けられており。弓なんて生まれて初めて手にするというよな者もいたほどの、とんでもなく初心者ばかりの集まりを、キュウゾウというお若いお侍様が一人で指導監督なさっておいで。ご本人が鋭い刀そのもののような印象の、すらりと細身の寡黙なお人。次の段階へ上がる時にだけ、いわゆる“要領”を語ってくださるその他は、ところどこでの掛け声以外、全くのほとんど口を利かないところがまた。静謐でおいででも滲む気迫に有無をも言わさぬ、お若いながらも重厚な、そんな存在感のある いかにもお侍という御仁であり。そうは言っても、

 「…っ。」

 弓を構えての射出位置まで、次の並びがきびきびと進み出て来たその間合い。小さな粒がぽちりと落ちて来たのへ、おやや?と顔を上げた幾たりか。集中していなかった訳じゃあないし、雨になったら即中断という訳でもない。冗談抜きに驟雨の中での戦いとならぬ保証はないのだから、結構な雨脚を受けながらでも、手元が滑らぬよう、目測が外れぬよう、矢を放てるようになっておく必要だってあるのだろうが。そこまで求めていいほどには、まだちょっと覚束無い腕前の彼らである以上、優先されるは健康管理の方だろう。黄昏の蜂蜜色が去ってのち、宵青の訪れがやけに早かったのもこのせいか。通り雨にしては勢いのある雨脚がざっと襲い来たのを見極めて、

 「…。」
 「はい。」

 ちろりと。顔をそっちへ向けたかどうかも定かではないほどの微かな目配せへ、助手の青年が是と頷いて。
「今日はここで解散だで。体ぁ冷やさんよう、よぉ汗を拭うてから作業場ん手伝いに行くように。」
 師範に代わっての指示を出したのへ、承知の礼はキュウゾウの方へ向けてから、皆が散り散りになりそれぞれの持ち場へと向かってゆく手際もまた、統率の取れたなかなかの段取りで。

 「…。」

 さて、それでは自分はどうしたものか。激しい雨ではないけれど、この雨脚だと夜中のずっとを降り続けそう。こういう晩こそ、警戒を怠ってはならぬのがセオリーではあるけれど、先程、自分と入れ替わりで夕餉を取ったらしき若侍が、詰め所から出てのそのまま、哨戒のためだろう農道の方へと出て行ったのを、視野の隅にて拾ったばかり。それよりわずかに先んじて、白い衣紋の蓬髪の惣領もまた同じ道を辿って行っており。砦へ設けた物見に陣取るゴロベエと見張りの交替がてら、現況の確認に向かったらしく。作業に哨戒にと出てった顔触れの頭数がそれであるのなら、その隙にこちらは休んでおく方が効率を考えれば妥当か…という答えが出ても、

 「…。」

 即断即決な彼には珍しく、さあさあという静かな雨脚が定まり始めた秋雨の中、何を思ってか立ち尽くしているキュウゾウであり。そんな彼の視線が向いていたのは、田圃の真ん中を突っ切る農道へと向かう道の先ではあったれど、そこを道なりに進んだら、家並みが途切れる一番の端には彼らの詰め所もあったりし…。

 「…。」

 そのままだと風邪ひきますよ? キュウゾウ殿。






  ◇  ◇  ◇



 茅葺き屋根には静かな雨脚はそれほど響かないので、

 “…おや。”

 秋虫の声がやんでの しんとなった気配で初めて、お湿りの到来に気がついて。そこに何をか見い出したいか、細い顎を僅かほど上げて宙を見やったは。情報や手筈の申し送りがてら、ゴロベエの担当する部署へと出てったがため、惣領殿が居ない詰め所の留守を預かっているシチロージ。視線の上がった青い眸が見やるは、だが、頭上ではなく自分の思考の中であり、
“いきなりの奇襲を仕掛けてくるのなら、こういう晩が最も狙い目ではありますが。”
 雨脚は気配を消してくれるし、夜陰という暗がりも機巧の眼を持つ野伏せりにこそ、やや有利な要素だが、

 『ここほどの米処を、そう簡単に有無をも言わさず潰すだろうか。』

 随分と長いこと、抵抗しないままの恭順を示していた村であるその上。地中に潜む水脈の気配を感じ取れることから、周辺の村へもその名を知られた“水分りの巫女”という特殊な能力者のいる里だけに。そこまでの無体をいきなり仕掛けるのは、他の村への見せしめ以上、ともすれば反感という形での余計な弾みを与え、連鎖反応という逆効果さえ招きかねない。そこまでの大局や遠望を鑑みる、思慮深い大将があちらにいるかどうかは不明であるが、それでも。
“それならそれで、まだ早い、か。”
 例えば、想定外な運びながら ここの張り番担当だった輩を斬ったがため、彼らの本陣への報告が途絶えただろうから。状況の確認をするためにと、代わりの伝令を寄越しもするだろし。自分たちの動向、あの荒野にて拾ったクチがもたらした情報を得ての、一気呵成に急襲を仕掛けるつもりであったとしても。それにあたっての陣営を整えてからの推参になるので、やはりそれなりの時間を費やそうから。どちらにしても今少しは余裕を見てもよかろうとは、カンベエの見立てであり、
“こちらとしては、是非ともそうであって欲しいトコですしね。”
 何せ少数精鋭、手が足りなさ過ぎなため、時間はいくらあっても足りぬくらいだと、オーバーワーク気味の誰かさんを思えば溜息がついつい漏れるところだが。とはいえ、こちらばかりが不利というものでもない。弩の完成が間に合わないなら間に合わないで、張り子の丸太が相手への陽動になる…なんてな、先付けの策までオマケでついてるところ。相変わらずにタヌキな段取りだよなと、元上官の相変わらずな周到さには苦笑が絶えなかったシチロージでもあって。そして、

 “………。”

 雨が降っているのなら、体を冷やさぬうちに此処へと戻って来て欲しい人物がいるのだが…と、槍使い殿の色白なお顔が現実へと戻って来た途端に悩ましげなそれとなる。哨戒と伝令担当のカツシロウとは次元の異なる意味合いで、そういう作業はあまり向いてはいなかろうということから造成班には組み込まれていないお人。夜陰の雨とあって、弓の習練を中止にしたとして、ならば彼はどうするのか。村の周縁の断崖絶壁や、鎮守の森の、目が眩みそうになるほど高い高い老木の上なんぞを、その軽快な身ごなしで哨戒して回るか、それとも。冷たい雨風も厭わずに、鎮守の森の古木の根元や岩棚の隙間に凭れての仮眠を取るか。
“…此処へは来てくれないのでしょうね。”
 こんな場合なだけに、いつ何時 合戦の火蓋が切られるやも知れず。それでと感応が鋭敏になっている彼であるらしくって。先だってはひょんな運びから、久方ぶりにこちらの懐ろにもぐり込んでの共寝をしてくれたのだが、その折に…詰め所にくるのが面倒な訳ではなく、ただ、人の気配が薄べり挟んだのみというよな間際で立つと、ついつい拾う難儀な感覚をしているので、此処では却って寝付けないと。そんな風にぼしぼしと語ってくれた彼であり。その結果、何でどうしてと詰め寄ることも出来なくなったおっ母様だったりし。

 “…でも何でまた、あの朝に限っては説明してくれたんだろう。”

 前の晩の記憶があちこち抜け落ちている朝だったこともあり、その兼ね合いのようなところが気にならぬ訳でもなかったが、
“キュウゾウ殿もカンベエ様も何も言わないし。”
 特段、態度が切り替わったということもないので、彼らが言う通りの何も起きぬまま、悪酔いした時のセオリーで何もかんも放り出して眠ってしまったに違いない。それはそれで不甲斐ないなと、白い手を拳に丸めて自分の頭を軽くこづいたシチロージだったりするのだけれど。
「…?」
 雨の降る外から誰がやって来ても大丈夫なように、乾いた手拭いやタオル、鉄瓶から湯を足しての温かなぬるま湯で足元を洗えるようにという桶などを打ち揃え、炭や茶器の用意を確かめていると、外への板戸から小さな気配がした。交替で取った夕餉は、先程カツシロウが、作業場から持って来た知らせがあったのでと立ち寄ったついで、珍しくもこちらで食べてったのを送り出したばかりだし。カンベエの気配でもなければ、気配より先に声をかけてくるだろう、ゴロベエやヘイハチ、キクチヨのそれでもない。となると、あとは“彼”しかいないのではあるけれど、
“…まさかねぇ。”
 今さっき思い起こしていたばかり。足を運んでほしいのは山々なれど、まずそれはなかろうよと、自分へ向けてかぶりを振ったシチロージのその所作の端に間に合わせて、

 「…。」

 立て付けの悪い上、水気を吸って尚のことすんなりとは開かぬ板戸を、がたたと手古摺りつつ開いたのは、

 「キュウゾウ殿?」

 あらら、これはまた…と。上がり框のところへ腰掛けていたおっ母様が、少々驚きつつも立ち上がる。想うことさえ未練だと、期待しちゃあいけないと振り払ってたところだったのにね。思いも拠らない来訪者ではあったが、勿論のこと、雨宿りにと来てくれたのは正直に嬉しいこと。
「さあさ、こちらへおいでなさい。」
 声をかけつつ自分からも立ち上がり、手拭いを手に歩み寄って、小さな雨粒をきらきらとまといつけている綿毛のような髪へと当ててやる。紅の衣紋の細い肩や腕、薄い背中のところどこにも、まだ染み込む直前の雨粒が、ビーズか玻璃の細かい破片のようにまぶされており。立ったままの彼からそれらを素早く拭い去ってやると、手を引いてのさあ上がれと、板の間、囲炉裏まで誘
(いざな)う丁寧さ。殊に、冷たい手だったのへは、常のことと知っていつつも ついつい、おおと眉根が寄ってしまって。
「ちょっと待ってて下さいね。」
 湯飲みを片手に土間へと降りてくと、水を満たした瓶の傍ら、水口に立って何やらごそごそ。軽くゆすいででもいるのかと思わせた手短さで戻ってくると、お膝を降ろしたすぐ手元、茶器を乗せた盆から小さな壷を引き寄せて。そこに入っていた黒文字の木の匙で掬い上げたは、とろみのある甘い蜜。サジごと湯飲みへ差し入れての、そこへと自在鉤から持ち上げた鉄瓶を傾ければ、辺りには湯気に乗っての仄かに甘い、ショウガの香が広がったから、
「…。///////」
 自分で髪を拭っていた次男坊の赤い眸が、心なしか潤むようにきらめいたのは、
「はい、どうぞ。」
 手のひらの中で湯飲みを回して少し冷ますところまで…という わざわざの手間をかけ、それは手際よくも温かな飲み物を作って下さったことへと喜んでのものであり。ちょっぴり単調なままの声音で、
「…かたじけない。」
 と謝辞を告げれば、
「ああ、いいえいいえ。」
 こんなことくらいで畏まらないで下さいようと、それでも恐縮というよりは欣喜のお顔になっての、目許を細めてしまわれるおっ母様に、
「…。///////」
 ああ、どうしてだろうね。こちらまでもがほこほこと、胸の裡が暖かくなってむずむずと嬉しい。

 『シチのような性分の者へはの、
  甘えてやったり手を焼かせてやるのもまた孝行になるものぞ。』

 偉そうな言い方はちょいと筋違いではあるけれどと、苦笑をこぼしつつもそんな風な助言をくれたのが。先の大戦の間中、この気配りの塊のような古女房から そりゃあ手厚く世話を焼かれていたのだろう、彼の元上官でもあった蓬髪の軍師殿で。先日のちょっとした騒ぎの折、寝入ってしまったシチロージを、自分のごつごつと筋骨の張った雄々しい懐ろへと凭れさせたままという、何とも羨ましい構図のままで彼が口にしたのがそれで。
『誰へでもと食指
(?)が動くほど人間が甘い奴ではないからこそ。そんなあやつが見かねるほどのお主が、なのにつれないものだから、ますます気を揉ませてならぬのだと思うのだがの。』
 かつての自分へ重ねてか、いやいや、そんな方向へも気が回るお人なら、ああまでの“人誑
(たら)し”になってはおるまい。そんな罪作りな壮年殿の言があったのを、思い出したキュウゾウとしては、

 “…。”

 あれはこういうことだったのかと。妙に落ち着かないまま手を焼いて下さるおっ母様の様子へ納得を寄せているばかり。
「今宵はもう、習練は終しまいなのでしょう?」
 昼日中ならともかく、こんな宵に解散を告げた場合は、次のシフトへ移行しての、作業場や休憩の場へとに皆散ってしまうので、明日の朝になるまで体が空く身。そんなことまでしっかと把握なさっているおっ母様が、わざわざ何を訊きたいのか。
「…。」
 こくりと頷いてから、そのまま顔を上げ。隣りの間の仮眠用の部屋への板戸へ視線をやれば、それだけで通じたか、
「そうですか。じゃあ、寝間の支度を…。」
 殊更に目許を細めて微笑って見せて。いそいそ立ち上がるところが、判りやすくて可愛いなどと思っては罰が当たるのだろか。あんないいお顔をさせてあげられたのにね。これまで我儘ばかり言っていてすみませんと、ちょっぴり反省した次男坊。今宵はこの雨のせいもあって、工兵殿もゴロベエもいちいち此処へは戻らず、作業場の物見や庇の下で休むことと運ぶだろうし。カツシロウやキクチヨはリキチの家での寝起きが常。カンベエはそれこそ、あんな助言をくれたほどなのだから、キュウゾウの在中に気づけばそれだけで、余計なお騒がせもするまいと。一応 そこいらを見越して足を運んだキュウゾウであり。隣室のかすかな物音を聞きながら、温かいショウガ湯をゆっくりいただいておれば、

 「そうそう、これを。」

 余程に手際がいいものか、行って戻って来たとしか思えぬほどの手早さで戻って来て下さったおっ母様。その長身をキュウゾウのすぐ傍らへまで運ぶと、お膝同士がくっつくほどもの間近へすとんと腰を下ろしてから。ほらと差し出して見せたのが、碁石のような小さな小さな器。この大きさで、なのに一丁前にもネジ蓋になっており、開いた掌へと置いたその真上から、指先で押してちょいと小さく回すと蓋が開き、中に入っていたのは淡い緑色の半透明の軟膏薬だ。
「…。」
 久蔵にも重々覚えのあるそれは、シチロージが自分で作って使っている、ヤイバソウから抽出した成分が恐ろしいほどよく効くあの妙薬で。
「小さい傷にはあまり構いつけないお人でしょう?」
 無論のこと、大きな傷などそうそう負うはずのないお人。だからこその無頓着ではあろうけれど、
「せっかくの綺麗なお顔や手へ、傷を作って放ったらかしになってることが多いようだから。」
 お守りくらいに思って、持ってて下さいなと差し出したシチロージへ、
「…。」
 要らぬと突き放すほどのことでもなしと、手を差し出して受け取れば。ただそれだけのことへ、良かったと嬉しそうに微笑って下さったのがまたもや眩しい。
“〜〜〜。////////”
 ただ暖かく遇してもらえる嬉しさの何倍も嬉しいのは、大切な人が幸せそうに微笑ってくれる喜びに他ならず。それを教えてくれた人がこうして、含羞み半分、暖かく微笑ってくれるのだから。自分へも嬉しい、幸せなこと、何をおいてもありがたいのではあるけれど。不思議と何だか…座っているお尻や足元がむずむずして来て居心地が悪いのは。恐らくのきっと、こんなに多量に“嬉しいvv”を拾いまくったのが初めてのことだったからだろう。自分の他愛ない言動で、大好きな人がこんなにも嬉しそうなお顔をして下さるなんて思いも拠らなかった。せいぜい、がっかりさせぬ程度のそれだろと思っていたキュウゾウだったので。甘えるのも孝行だなんて言いようを、吹き込んでくれたカンベエへは。感謝していいやらとっちめてやればいいやら、少々計りかねていたところ、
「ほら、ここにも。」
 ずいと身を乗り出すようにして、お顔同士がくっつきそうなほどの間近へ寄って来たシチロージの、甘やかな温みや匂いが、
「〜〜〜。//////」
 早速のことキュウゾウをたじろがせたものだから。まだそんなに張ってはないため、触れねば判らぬ頬骨の辺り。きれいな指先ですりすりと撫でられながら、胸の奥をきりきりと締め上げる切なさへ きゅう〜んと目許を潤ませた次男坊、
“…やはり とっちめてやろう。”
 罰当たりにもそんな風に思ったというお話は、またの後段となるのだが。
(苦笑) こちらから擦り寄るような甘え方を見せたのが、却って勢いをつけたものか。嬉しいんだけれどこそばゆい、まだ少々免疫の足らないほどもの構いつけにて、ふんわりとくるまれる至福は、確かに心地いいけれど、

 “…あ。///////”

 こうまでの間近になって、キュウゾウがふと思い出したのは、先日のちょっとした騒ぎの折に起きた…ちょっとしたアクシデントだったりし。

 『いえね、どうしても昨夜の記憶が途中から見つからないんですよ。』

 先日、悪酔いした揚げ句に困った酔態をご披露下さったおっ母様。日頃から溜めてたらしき鬱憤を、吐き出すついでのお説教。ちょっぴり色っぽい路線でかかって来て下さった彼であり。間近になった形のいい緋色の口元から、ついつい視線が外せなくなったのは、
“…あの時は。”
 気が動転しまくりの、ただただ驚きばかりが勝
(まさ)ってて。その結果として、硬直するしかなかった爲體(ていたらく)だったけれど。しっとりと瑞々しくって柔らかそうな、何より、キュウゾウへの甘い言葉をかけて下さる優しい口許。笑みを含んでの、蠱惑の美しさをたたえた唇へ、
「…。」
 ついのこととて視線が留まり、その麗しさから眸が離せなくなって。そんな彼へと、

 「…っ、キュウゾウ殿?」

 話を訊いていましたかと。こちらを向いてこそいるものの、何だか…心ここにあらずに見えなくもない相手だと、シチロージの側でも遅ればせながらに気がついた。もう眠いのかな、苦手だろうに人前に居続けての“指導”なんてなお務めを続けておいでだしな、せっかく仮眠を取りにと来てくれたのだから、ここはゆっくり休ませてあげないとと。日頃の寡黙さとは微妙に異なる沈黙に気づいたところが、やはりやはり一味違うおっ母様。

 “…お〜い。”

 表情のピントが仄かに合っていないような。心なしかぼんやりとして見えなくもないお顔が、なのに、呆けたように間が抜けて見えないところが、
“美形たる由縁ってやつでしょうかねvv”
 もう陽も落ちてから随分と刻限も経っており、茅葺きの屋根裏が頭上のずんと高みへ望める、土間続きのこの空間。広々と開放的ではあるけれど、煌々とした明るさに満たされている訳ではない。だってのに、その白いお顔や淡色の髪は、人の眸を惹きつけるだけの魅惑をたたえての繊細玲瓏、そりゃあ整っていての麗しく。そこに載っている表情もまた、冴えて鋭く、凛となさっているものだから。こちらから視線を外すのはなかなか容易なことではない。
“…ほんに、希有な存在、ですよねぇ。”
 禁忌というのは、そこに有る欲や煩悩をされど敢えて抑えていることを指すのだそうで。だとすれば、彼がまとうはむしろ潔白の無垢。刀さばきには要らないからと、蓋をしたままなあれやこれやがたんとあるに違いなく。妖冶というのではなく、恐らくはまだまだ幼い未分化なところの危うさが色濃く残る、罪な人。今も、何に気を取られたか、じいとこちらを見やっての黙んまりが続いており。そんな彼がついと、しなやかな背を腰を、伸ばすようにして、こちらへお顔を寄せて来たので、
「???」
 何でしょうか、内緒話ですか? 誰もいなくてもそんな風だということは、誰にも話しちゃいけないことかしら? これもやはり、かあいらしいお人ならではな、何と無邪気な所作だろかと。さしたる警戒もせぬままに、ちょっぴりと小首を傾げたまんまで待ち受けていたシチロージへ、白皙の美男子のお顔は衒いなく近づいて来て。

  ――― ふわり、と。

 小鳥の羽根の羽ばたきの、小さな翼の先で触れたよな軽やかさで。甘やかな吐息が触れたそのままのついで。柔らかで温かなものが、ごくごく自然に触れて来た。

  “……… え?”

 真っ直ぐに見上げて来た赤い瞳に、何かしらの暗示、催眠の呪文でもかかっていたものか。あまりに罪のないお顔だったせいか、重なり合ったその瞬間まで、何の警戒も抱かなかったシチロージであり。

 「…。」
 「…えっとぉ。///////」

 するり、離れてもなお。その総身はどこかぎこちないままに硬直の態を呈していたので。上目遣いになった次男坊のお顔が、何かしらの反応を待ってか、やはりじいと見上げて来ていたのへ。判っているのに、どこも動かせぬのが不甲斐ないばかり。それでも何とか、まだ至近に居残っている、キュウゾウの白いお顔を見つめつつ、

 「な、なんで…。」

 後から思うに、他に訊きようはなかったのかと後悔もしたのだが。この時はこれが精一杯だった一言を絞り出せば。赤い瞳のカナリアさんは、特に慌ても狼狽もしないまま、むしろ…楽しそうに小さく微笑って、

 「…触れたかっただけ。」

 内緒話のそれのよに。少ぉし掠れさせたお声で言ってから、すっくと立っての歩みを運ぶ。ハッとしたシチロージの視線が追ってくることも判っていたらしく、次の間への戸前で立ち止まると、

 「…寝る。」

 はあさいですかと。どこぞかの御伽話みたいに、決して開けてはなりませぬと言われた訳でもないのにね。立ち上がることもできぬまま、ほっそりとした背中をただただ見送ったおっ母様であり。

  “びっっっっっっくりした〜〜〜〜。”

 またかい。
(笑) 相変わらずにキテレツな言動の絶えぬお人なれど、この頃ではお互い様で慣れて来ており。こちらも驚かなければ、向こうからもあまりに突飛なことはしでかさなくなっていたものが。一気に平均を均すかのよに仕掛けて来られたのが“これ”であり。

 「………え〜っと。//////」

 何とか落ち着いて来だしての、最初に思った感慨は、

 “案外とお上手だったな。”

 そんな一言だったりし。覚えているのは直前の、仄かに伏し目がちにされた目許と睫毛越しの赤い瞳の潤みと、それから。柔らかく触れて来ての、感触を確かめてらした落ち着きようとか。お顔をそっと離したあとの、余情を甘く堪能してなさったかのようなお顔だとかを思い出すにつけ、到底“初めて”という感じじゃあなかったような気がしてならず。実は百戦錬磨のつわものだとか? いやいや、そんなことはなかろうて。きゅうぅと抱きしめて差し上げると真っ赤になるよな、いつまで経っても初心でかあいいお人が、そんなところだけ百戦錬磨だなんてありえない。…なんてな断じ方をするシチロージも実をいや、カンベエ以外の“相手”はあまり知らぬ身なのだけれど。

 “あんなにお綺麗なお人なだけに、
  引く手数多で身辺が落ち着かず、已なく付き合った相手がいるとか?”

 そんなロマンスが彼の上へ全く想像できないのは、自分が母親属性で接しているからだろか。今でこそ落ち着き払っての冷然としておいでだが、入隊したばかりの頃なんぞは、さぞや初々しい紅顔の美少年だったに違いなく。誰が護るかという形での争いがあったほどだったりして…などと、勝手な想像を膨らませかかっているおっ母様だが、此処に某ヒョウゴさんがいたならば、

 『紅顔の美少年? 厚顔の無愛想の間違いだろう。』

 あれは最初から太々しいほど動じずに振る舞っていたし、初期段階の訓練中、眉ひとつ動かさず、そちら様の雷電を再起不能にした鬼っ子へ、誰が手を出せたもんだろかと。さぞや苦々しいお顔をなさったに違いない。
(笑) それもさておき、


  “でも、何でまたあんなことを…。”


 触れたかったからだとご本人はお言いだったが、だったら普通は指を伸ばして来るものじゃあなかろうか。
「…。」
 小さな灯火と、あとは囲炉裏の火だけの仄暗い空間。そんな中で、向かい合ってのそろりと伸ばされる手。赤い衣紋につつまれたしなやかな腕の先、白い指先がそろり、おずおずと伸ばされての触れて来たとしたらと想起して。
「………。」
 それだとて、なかなかに煽情的な構図だし、あの冷たい指先が触れたならと思うと、

 「〜〜〜っ。////////」

 ふるるっと、背条や肩先が妖しい何かに擽られ。そっちでもそんなに変わらなかったかもと、困ったお人の思わぬ悪戯へ、これも後塵というものか、悩ましげに赤くなっていたところが、

 「…。」
 「あ、カンベエ様、お帰りなさい。」

 いつの間にやら、外からの戸口から入って来ていた惣領様に気がついて、あわわと我に返った古女房の。その姿を見てだろう、何とも言えない、珍妙な表情になっていたカンベエ様だったりし。やはり濡れておいでの御主へ、手拭い片手に立ち上がりつつ。そんなにも怪訝に思われるような呆気っぷりだったかなと、彼の側からも大きに鼻白んでいると、

  「何でまた、中途半端に髪を下ろしているのだ? シチロージ。」
  「え? ……………あっ! 首巻きもないっ!」

 帽子は残っていたが、結っていたはずの金の髪は…うなじを隠してのすっかりと下りていたし、首元へと引っかけていた、襟巻き代わりの緋色のあの布もない。きっとキュウゾウが、虚を突かれての呆然としていた隙に、手際良く引き抜いてったに違いなく。そうか、こんな悪戯をしたかったからかと。やられたっとばかり、自分で自分の懐ろ辺りを押さえたおっ母様のお声を聞きながら、

 「♪」

 上手く誤魔化せたことへと苦笑が止まらないまま、戦利品のいい匂いがする緋色の布を懐ろへと抱いての、おっ母様の敷いてくださった衾にくるまり、おやすみなさいと寝付いた次男坊だったりするのである。
“思い出さなかった。”
 お顔が近づいた拍子にふっと思い出したのが、あの晩の思わぬ接吻で。すっかりぱっきり何も覚えていなかったシチロージではあったれど、何かの拍子、似たようなシチュエーションにおかれた途端、思い出したらどうしよか。そんな不安を感じてしまいつつも、ままよと重ねた唇は。あの時は驚くばかりで判らなかったが、しっとり柔らかで優しくて。なんて頼りないところだろか、だから離れがたくなるのかなと。そこまで実感させたほど、甘くて心地いい感触で。

  「♪♪♪」

 ああ良かったとの安堵とともに、枕元へと外した双刀の代わり、手の甲へとくるくるっと巻いたおっ母様の匂いを相方に、ほこほこと眠りについた次男坊だが。明日の朝方、そのおっ母様の懐ろにいて、あわわっと驚くそのときまでは。しばし勝者の立場を味わっておくといいですよvv


  ――― もしかしてエンドレス?
(笑)






  〜 どさくさどっとはらい 〜  07.9.30.〜10.01.


 *南々さん、Hさん、見てますか?(思い切り私信。こらこら
  キュウの側からの“ちう”というと、
  確か『仲違い』というお話で
  もどきなことを巡ってのごちゃごちゃを
  既にやらかしているお二人だったりするのですが…。
  あれとは微妙に時間軸が違うということで どかご容赦を。

 *こちらから甘えて見せるのもまた、
  甘やかしたがりへは孝行になるという論は、
  拍手お礼の“梨”へ続いてたりします。
(おいおい)
  そう言いはしたものの、勘兵衛様には自覚はありません。
  あの人の場合、天然の“人たらし”という魔性なのであり、
  計算してないからこそ、
  誰が悪くもないのに泣く人が出るという最悪の結末へ向かってしまう。
  始末が悪いったらありません。
(苦笑)

**

めるふぉvv めるふぉ 置きましたvv **

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