月影 冴えて… (お侍 習作92)

       〜 お侍extra  千紫万紅 柳緑花紅より
 


 
森羅万象、全てが眠りし深夜の刻。
皓月の冴えたる天蓋を負うた、
昏き森の中を駆け抜けるは、一陣の疾風。
夜陰の藍に黒々と浸された中、ただただ翔るは白き衣の偉丈夫で。
深色の蓬髪を風になぶらせるままにして、
彫の深き精悍な面貌を、尚のこと いかつくも堅く凍らせての疾走は、
この世のものとは思われぬ殺気に満ちても見えて。
さながら、鬼の行脚か夜叉の彷徨か。
日頃の鷹揚な落ち着きをすっかりとかなぐり捨てての、
それほどまでの真剣必死で、道を急ぐ彼なのは、
懐ろへと抱えた存在のせいでもあろう。
綿毛のような金の髪をふわりゆさりと揺らしているが、
意識はないものか その顔容も日頃以上に凍ったままだ。
まぶたを降ろした白面に、月光がかかるのさえ忌まわしく。
苦しげな容体の現れか、
眉間の微かに寄った様が、常の彼には見られぬ表情だったから。
飛び抜けての痩躯なのは判っていたこと。
だってのに、こうして抱え上げれば、
何とも頼りない重みなのが却って痛々しくて。
長きにわたったあの大戦の折、
どれほどの窮地や死線に相対しても心揺るがなかった大将だったはずが、
それが今は、言いようのない焦燥がその胸きつく締め上げていて、
そりゃあもう 苦しくて苦しくて堪らない。
目に見えぬ物に追われ、形の無い物へすがっての、
なりふり構わず、ただただ駆けるしかない不器用な我が身を呪い。
懐ろへと掻い込んだこの存在、
失くしてなるか奪われてなるものかと、
必死の形相でひた走る。

 “今少し、待っておれ。”

その身ごと双腕へ掬い上げるようにして、からげ上げたる紅の衣紋。
その長い裳裾が風にたなびく様は、
さながら…壮年殿の白き衣を染めての滴り落ちる血潮にも見えて。
不吉な道行きは何から発したそれであるやら、
そうして、其処からどこを目指しているものなやら。
全てを見ていたはずの煌月も、無言のままに彼らを照らすばかり。





  ◇  ◇  ◇



 いかにも強腰豪胆な不貞々々しさを放つ、挑発的・威圧的な態…ではなくの。むしろ至って静謐な存在だ。上背もあってのなかなかに鍛え上げられた肢体をし、壮年という年頃にしては精悍で、野趣あふれる剛の威勢もある。とはいえ、意気盛んにして屈強精悍なもののふの、勇壮な佇まい…とやらからは、もしかせずとも程遠く。砂防服だろうか、随分とくたびれた長羽織に揃いの内着。雑兵のそれを思わせる粗末な筒袴の足元からは、ごつりとしたくるぶしがあらわに覗いていたりもする。延ばし放題の蓬髪に、どこか昏い双眸。うらぶれた仙のような風体には、正直言って拍子抜けした者もいて。

  ……… ただ、

 そうでありながら、不思議と…荒ごとへと相対すその姿や所作には、妙に物慣れた匂いがし、

 「…。」

 すっかりと宵も更けた頃合いゆえに、辺りはしんとし闇深く。褪めた皓月の光にさらされて、年齢相応、いかめしい容貌へは隈取りのような陰影が色濃く刻まれており。重たげな手ですらりと抜き払われた大太刀が、その刃を青く濡らして姿を現せば。彼の気魄へも ひとかたならぬ厚さとそれから、紛れもない冴えが鋭く加わる。安定よくも地を踏みしめ、すっくと立っているその立ち姿には、並々ならぬ威容さえ感じられるほど。そんな彼を、島田勘兵衛、実物本人を前にして、

 「…くっ。」

 居並ぶ賊らが揃って息を飲む。手ごわい存在だというのは先刻承知。ほんの短い間に、どれほど名のある盗賊らが彼らに仕留められて来たことか。なればこそ手勢をかき集めての、しかも街道での夜討ちを構えた。仕留めればこの世界での立場は上がる。たかが生身の二人連れ、数で掛かりゃあ容易い仕儀と、舐めてかかっていたものが。

  ―― その強かさ、重厚にして圧巻。

 冷たい季節の、凍るような夜陰の中だから…ではなく。視覚からの印象だけで威圧され、背条が凍り、総身が震えるということが実際にあるのだと。そんな想いを今まさに味わっていよう無頼の者ら。たった一人の壮年を相手に、すっかりと萎縮して身動きが取れずにいる。十重二十重、厳重に取り囲んでの完全包囲。逃げ場はないし助けもないのは相手の方だってのに。

 「…。」

 鷹揚な所作にて巡らされた睥睨一つで、皆が皆、息を詰め。怖じ気に捕まり、背条が凍りそうになるのはどうしてだろか。あまり場数を踏んでいない者には、直接感じる覇気の重さが痛いほどだし。心得がある者はある者で、どこから打ち込み斬りつけても、あっさりと躱され、逆に跳ね飛ばされての斬られるだろう“先”が見える。これが真の練達の有り様というものかと、こんな修羅場にて思い知らされようとは、誰一人として思いも拠らなかったに違いなく。

 「チッ。」

 ついの舌打ちが出たのは、そうまで情けない自身への焦燥からか。これでは埒が明かぬと、さすがに思い切ったのだろう野盗の頭目。ふんと荒々しい息をつき、

 「何してやがるっ、一斉にかかれっ!」
 「お、おうっ!」
 「相手は痩せ浪人一人じゃねぇかっ!」
 「おうさっ!」

 口々にいがらっぽい胴間声を張り上げて、自分を奮い立たせるようにし、それぞれが得物を握り直して、地を蹴り、駆け出す。生身と機巧、入り混じっての陣容が、いかに寄せ集めの連中かを露にしてもおり。それでも、こちらを個々のばらばらに分断出来た手際は、なかなか大した運びであったが、

 “そこまでが限界であったのだろうか。”

 弧を描いての取り巻いていた相手へ、こうも一斉に、雪崩を打って掴みかからんとするとは、何とも芸のないことよと。こちらは依然、冷静なままにて状況を見て取れている壮年殿。勝機に酔ってか、それとも捨て鉢なのか。正気から少々焦点のぼけた表情になって、自分を目がけて殺到する連中を見据え、その実、誰へと照準を合わせることもなくいた勘兵衛だったが。

  ふっ、と。

 静かに眸を伏せて。正眼に構えた大太刀の切っ先へ、物慣れた呼吸で念を集めると。

  ―― 哈っ!

 刮目と同時、鋭い気合いを放った壮年殿のその身から、一体何がほとばしったやら。

 「うわっ!」
 「がっ!」
 「な…っ!?」

 躍りかかり襲い掛かった勢いがそのまま、いやさ、倍になって返って来たようなもの。何が何にという感触に当たった訳でもないというのに、やはり一斉に外へと弾き飛ばされた無頼の面々であり。愛刀を吹き飛ばされた者、その拍子に腕をよじられた者。機巧仕掛けの義手やそこへと仕込みの武器をへし折られた者もいて。鋼筒
(ヤカン)や甲足軽(ミミズク)なぞは、堅い体が徒となり、脾腹や身が裂けてのもはや動けぬ者も出ての倒れ伏すばかり。こうまでの陣営を一気に薙ぎ払ったのは、命を張っての戦さを掻いくぐった“侍”が身につけし、超振動という、一種 念と気合いによる技の発動で。鋼を切り裂き、気合砲や光弾さえも跳ね返し、かつての大戦では戦艦の主砲さえ物ともしなかった奥義だが、

 「こ、こんな奴だったとは。」

 褐白金紅との異名を冠せられ、噂に名高い賞金稼ぎ。生身の躯で、しかも得物は刀を振るうのみという評判を甘く見て、これまでどれほどの賊らが返り討ちに遭って来たことか。それへとやっと納得した頃には もはや時遅く、

 「うがぁっ!」
 「ひぃい…っ!」

 大きに引けた腰を後ろへ突き出しての、みっともなさを露呈して。恐れ慄いての棒振りしか出来ぬまま、進み出て来る相手の、てきぱきとした動線に釣り込まれては右へ左へ、薙ぎ払われては飛ばされて。地べたへ叩き伏せられ、そのまま人事不省となればいい方。下手に抗っての刀を捨てないままな輩は、その悪あがきを固執と見なされ、斬って捨てられ土に還される。何せ彼らは役人ではないのだし、正義を掲げての天誅を構えている訳でもなし。だってのに、うかうかしておれば どこからだって、とんでもない連中から…私欲や功名目当てで斬りつけられかねない身でもある。斬り捨て御免で進まねば、その行く手に塞がる者は際限
(キリ)が無かろうて。
“難儀なことよの”
 望んで得た勇名や評判ではないけれど、野伏せり崩れを狩って来たのは事実。依頼された場合もあれば、今宵のようにかかる火の粉を振り払った結果という場合もあって。どっちにしたって生き残っての勝ち続けておればこそ、名も上がっての目立つ身となり、更なる噂がならず者らを惹きつけてしまう。悪循環もいいところだと、その胸中にて苦く微笑っての、

 「…さて。」

 こちらへと宛てがわれし一通りの賊を撫で斬って。連れ合いはどうしていようかと、彼が向かった方をと伺う勘兵衛で。前振りなしにとまず強襲して来たは、甲足軽が7体ほど。ただでさえ重い装備の機巧躯にしては俊敏なことが知られる相手なその上、随分と連係を練られた連中でもあったらしく。間近にあっての切り込んで来た手合いの向背には、思わぬ高みから降り落ちてくる者がすぐさま控えても居てと。それは目まぐるしい攻勢が連綿と襲い掛かって来。それらに一気に取り囲まれては、さしもの双刀使いであれ、油断なくの相手をせねばならなくなり。隙のない鋭い切り結びが間断ないまま続き、じりじりと場を移しての去って行かんとしたところへ、こちらは足止めだろうか、第二陣が勘兵衛へも襲い掛かって来たという、そこまでならば巧妙だったその手筈。
“まま、あの程度の相手ならば。”
 自分がそうであったように、手間取りはしても倒されはしなかろうと。それほど切迫することもないままに、太刀を収めて進み出ようとしていた、


  それが…そんな気持ちの切り替えの間合いが、
  隙といや隙だったということか。


 周囲への注意をまるきり蔑ろにしていた訳でなし。強いて言えば、相手の動作が勘兵衛の反射を上回っての更に素早かっただけのこと。
「…っ!」
 随分と距離のあった真後ろの茂みから、宙空へ高々と舞い上がった存在があり。そんな素早くも大きな動作と並行させて、目標へ照準を合わせての精密な射撃を放つことが出来る。そこが機巧躯の精緻さであり恐ろしさでもあろうところの、眸にも止まらぬ光の一撃。皮膚を焼き、肉をも裂かん、灼熱を帯びたる光弾が、夜陰を切り裂くようにして放たれて。それらを察知出来ただけでも人並み外れた素早い反射。だったからこそ、結果も見えた。どこへも避けることが出来ぬまま、深手を負うだろうという最悪の結末が、

 「…っ!?」

 だったというのに。その強襲、相手の意に反して勘兵衛へとは達せずに、狭間へと飛び出した者の、二の腕を裂いての逸れて終わった。向かい来る凶弾の弾道を遮って、自分の上へと重なった人影が、
「…っ。」
 撃たれた衝撃に日頃の無表情を歪め、その痩躯を撓わせての反らして見せて。

 「久蔵っ!」

 彼もまた、自分へまとわりついて離れなかった連中を、手を焼きつつも片付けて戻って来たところ。多勢を相手の切り結びを片付けたらしき勘兵衛へ、ほっとしての駆け寄りかかったその足が、途中からバネを増しての地を蹴っており。

 「…くっ。」

 刀で弾くことを構えていたものか、いや、それにしては躍起になっての飛び出し方が闇雲過ぎる。彼ほどの練達が避けようのない間合いと読んでのこと、盾になってのその結果、我が身を損ねた庇いよう。多少は防弾性も高いと聞いたが、そんな衣紋を引き裂いた一撃は、相当な代物であったに違いなく。衝撃とともに激痛に襲われたその身で、それでもそのまま倒れはせず。その場へ頽れかけた身を何とか持ちこたえると、抜き身のままでいた双刀の一方、夜陰へ向けてぶんと投げれば、

 【 ぎゃあっっ!!!】

 機械を通した耳障りな絶叫とともに、橙色をした閃光が炸裂し、忌まわしい不意打ちを仕掛けて来た兎跳兎らしき機巧躯が一体、懐ろ辺りへ細みの刀を突き立てられて。明々とした炎に飲まれての崩れ落ちていた。





  ◇  ◇  ◇



 例の大戦の終盤辺りになって、斬艦刀乗りという生身の兵ら、前線担当のいわば歩兵級の陣容の中に突出した存在として現れたのが、超振動を操れる手ごわい侍たちであり。そもそも天穹を滑空する戦闘機の外甲板に立って同乗し、合戦へ参入出来るというだけでも途轍もない身。心肺機能や筋力体力、平衡感覚に加えて、翼もない身で空中へと躍り出しての人斬りがこなせる、底無しの度胸も持ち得た、正に鬼でもなければ務まらぬ恐ろしいばかりな任を。行ってそれきりの体当たりしか期待されない特攻ではなくの、何度も生還して来る人外クラスの存在が現れ始めて。そんな化け物への対処にと開発された、等身大型機巧躯の中でも、兎跳兎はその戦闘特化が甲足軽以上の仕様となっており。凄まじい膂力で刀を振るえるのみならず、浮遊や飛翔も出来れば岩盤を削って地にも潜れるし。それほどの細かい動作が出来るその上、大した威力の光弾を放てるまでの仕組みを搭載していて。そんな飛び道具に撃ち落とされ、どれほどの斬艦刀乗りたちが空に散っていったことか。彼らの無機質な動作の気配はなかなか拾えないものだが、それでも…生き残ったもののふたちはそれなり、無い気配を嗅ぐという勘を身につけていた。あるはずの環境音や夜気が遮られておれば、そこには無音の何かがいるという理屈を体得し。機械の駆動音もまた、制御に限界があるがため。センサーでは感知出来ずとも、人の感覚でならば拾い上げられるそれを読んでのこと。どんなに精巧な機巧躯が開発されようと、しぶとくも生き残れた身であるはずが、

 “…こんなことで、命を落としてどうする。”

 ただでさえ、自分の半分もまだ生きてはいない若い身空でと、苦いものを噛み締める勘兵衛だ。久蔵に限っては、大した相手ではないという慢心はなかっただろう。若いに似ず、それは冷静な彼であり、自身の力量へも冷徹な眸で断じての判断が下せる青年だ。それが…何へと目が眩んだものか、あのような無謀をしようとは。よほどの激痛に襲われたか、勘兵衛の腕へ受け止められたことへと安堵して、そのまま意識を失った連れ合いを抱きかかえ。夜陰の中をただただ駆け抜けた勘兵衛であり。夜露がしのげればどこでもいいと、通いのそれか、それとも冬場はずっと大戸を閉ざしている代物か。無人の茶屋を見つけると、無法御免と板戸を蹴破り、上がり込んでの今に至る彼らだったが、

 「…。」

 窮屈だろう外套を脱がせ、それで露になった手ひどい火傷へ、持ち合わせの薬を塗ってやり。置き去りになっていた衾を延べての、そおと寝かしつけ。痛むことからのそれだろう、きつく寄せられる眉を見ては案じ、急く息を数えるしか出来ぬ不器用な我が身へ、歯咬みしつつも耐えながら。汗を拭ってやっての看取っておれば。傷が痛くて眠れぬか、それとも多少は持ち直してのことなのか。冷たく白いお顔に小さくほころんだ花のよに、潤みを帯びた紅の眸がゆっくりと開いての現れて。連子窓からさし入る煌月の光の照らす中、覚束ない視線が虚空を幾許か泳いでののち、傍らに添う存在に気づいて、微かにその顔を傾けて来る。

 「…久蔵。」

 何と言ってやればいいものか。まずは無茶を叱るべきだろか。小ぶりなお顔を見下ろしていた勘兵衛が、何かしらを紡ぐその前に、

 「………無事か?」

 日頃からもぼそりとしか口を利かぬ彼だが、それにも増しての力なく。掠れて頼りない声を絞り出し、そんなことを訊く久蔵へ。静かについた吐息に乗せて、ああと頷き、それから、

 「…。」

 大きくて重みのある、気に入りの手のひらが頬へと触れたのへ。青年の切れ長の眸がうっとりと細められる。大切なもの、失う危惧を拭われての安堵。そんな表情に水を差すのはどうかと思いつつ、だが、

 「何故、あのような無謀をした。」

 やはり言わずにはおれない勘兵衛で。自分たちは侍であり、他を凌駕するばかりではなくの、誰ぞを護ることもまた、もののふの強さあってのことではあるが、自身の身は自身で護ることこそが基本中の基本。怪我も負わずに済んでおればともかく、こうしてただならぬ深手を負ってしまっているのだ。それほど切羽詰まっていた事態へ、その身を盾にすることをも厭わず飛び込んで来ようとは。およそ正しい判断とは思われぬと、そうと言い置いておきたいらしい勘兵衛へ、

 「…。」

 熱のない、何かしら詰まらなさそうな顔のままで見上げて来ていた久蔵が、

 「…お主を斬るのは、この俺だと。」

 ぼそり、と。言い返して来たのが相変わらずのお言いよう。言葉知らずが、またそれか。確かにそうと約し合ったし、お主以外の他の誰にもこの首はやらぬが、時と場合を考えよと。懇々と言って聞かせんとしかけたその出端を挫いて、

 「俺だからこれで済んだのだ。」
 「…なに?」

 続いた言いようが、勘兵衛をして…呆けさせる。先の一言が全てであり、それ以上はもう何も言わぬし聞かぬと話を強引に終しまいにもってゆく、いつもの態ではないらしく。傷から熱でも出ているものか、少しばかり潤みの強い目許を瞬かせ、

 「お主であったなら、もっと深手を負っていたはず。」
 「…。」

 おやおや、こたびはなかなかのお言いようを並べる彼であり。頬へと添えられたままになっている勘兵衛の手へ、無事だったほうの手が上がって来ての添えられて。心からのそれだろう、夢見るような安堵の吐息をこぼすと、

 「お主は俺のものだからな。害されようとしておれば、何からだって護ろうさ。」
 「久蔵?」

 歯の根が浮くような言いようを、それと判っていて口にするような彼ではない。そうだと気づかず、心に思ったことをば淡々と紡いでいるだけか。それにしたって…それならそれで。誰ぞへ想いの丈をさらすというのは、この久蔵に限っては滅多にないこと。

 “…ああそうか。”

 その手を伏せたままな頬から伝わるのは、いつにない温みであり。やはり出ていた熱のせいで自制が緩んでいるのは間違いない。半分夢見心地なままで、思ったことをその端から紡いでいるまでのことと、得心がいきはしたが。それでも…譲れないことは譲れぬと、こちらも妙に頑迷なお人、
「だがの、久蔵。」
 これだけはと、低めた声で言い置いたのが、

 「儂が怪我を負えばお主は腹を立てようが。
  それと同じで、
  儂だとて…このようなお主を前にしては胸が潰れそうにもなる。」

 決して説教のための嘘や方便、詭弁ではない。凶弾から避け切れぬことへの覚悟をしたその目前へ、この彼が飛び込んで来たあの刹那、冗談抜きに生きた心地がしなかった勘兵衛であり。数え切れないほどの同胞の死を目の当たりにし、いつしかそれらに心閉ざす法を身につけて。振り返るなと言い聞かせ、幾多の修羅場を踏み越えての今に至る身であるこの自分が…総身から血が引く想いを抱いたのは紛れもない事実だから。庇われたのだからそれこそどこも傷めてはないはずが、そのまま呼吸が止まるかと感じたほどに、胸の奥底を鋭い鉤ぎ爪で抉られるような痛手を負った。
「先で儂を斬るためのことであれ、お主が倒れてしまっては本末転倒ではないか。」
 違うか?んん?と、深色の眼差しに覗き込まれて。
「…。」
 玻璃玉のような瞳がゆらゆら泳いだのち、勘兵衛の言いようを肯定したいか ゆっくりと揺れた。人型とはいえ結構な巨体であった甲足軽らを相手に、斬りつけるような覇気を浮かべ、その眼差しを冴えさせていた彼だったのに。同一人物とは到底思えぬほど、どこか頼りないお顔のまんま。とろりとした視線を向けて来て、


  ―― 判ったから、そんな顔はするな。
      そんな顔? 何の話だ?


 またまた意表を衝かれてのこと、壮年殿が小首を傾げれば。言いようがなくてのむずがるように、う〜〜〜っと目許を細めるところがまるで、もっと幼い童のようで。

 「困ったような、案じるような、そんな顔だ。」
 「…そんな顔をしておるか?」

 それは心外ぞと、顎やら頬やら空いた手で撫でて見せる勘兵衛へ、潤みの増した赤い眸が今にも塞がりかけながら…それでも視線を外さずに、


  「そんな顔をされると、つらい。」


 ぽつり、呟くように言い置いて。そのまま眸を閉じたは、安んじての眠りについたからだろう。先程までのような険しい表情ではなくの、寝息も穏やかなそれへと落ち着いたのへ、やれやれとこちらも安堵の息をついた勘兵衛が、

 「…つらい、か。」

 つい繰り返したのは、久蔵の残した一言だ。紅の胡蝶と仇名され、こうまで繊細華麗にして玲瓏な姿と裏腹、その人性はまだまだ拙くの稚い人物だから。それこそ小さな子供と同じで、何ら含みのない端的な言いようをしただけだったのだろうけど。暑いも寒いも、つらいも痛いも、滅多に口にしたことのない彼だけに。腕へと負った傷より痛むと、それこそ率直に口にした久蔵だったに違いなく。

 「これもまた、引き分けかの。」

 相手が害されればこちらも胸が痛くなるし、相手が辛いならこちらも辛い。だから庇うなと叱ったら、叱らずとも胸を痛めていた彼であり。そしてその事実へと…勘兵衛にはついぞ覚えのないような、ほろ苦い想いが沸いて来る。

 “今頃になってこのような煩悶に胸を擽られようとは思わなんだ。”

 色恋沙汰にまだ慣れぬ、年端もゆかぬ若造のようだのと、味のあるお顔で苦く微笑って見上げた窓には。もうもうやってられないと見限ったか、月も外れて姿もなくて。代わりならそこに、愛しいお顔がいるでしょうということか。寝ずの晩となるがゆえ、行儀は悪いが立てた片膝へと頬をつけ、楽な姿勢になったと同時。これが怪我ではなくの感冒などなら、寒さ避けにとしっかと抱いてやれるもの。ただ見守るだけとは歯痒いと思うと同時、そんなしょむないことへも想いが至った、他でもない自身へと。取り留めなく浮かぶ苦笑の対処に、何とも困っていた壮年殿であったそうな。






  〜Fine〜  08.1.16.〜1.17.


  *総身改メ・逆Ver.というよりは、
   難儀なことには Part.3 でしょうか。
(苦笑)
   おさまが好きで好きで、とりあえずは大事にしたいキュウですが、
   自分が怪我をすれば おさまにも手痛いのだという、
   そこのところはまだまだ理解出来てないらしいです。

めるふぉvv めるふぉ 置きましたvv **

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