紅胡蝶 妖幻桜花舞 (お侍 習作98)

       〜 お侍extra  千紫万紅 柳緑花紅より
 


 
 冷酷にして淡々と。いつまでもどこまでも続くかと思われた、それはそれは厳しかった凍夜寒日も。暦をやり過ごすにつれ、日いちにちと刻々春めいて。弥生の月に入れば さすがに陽も長くなり、暖かさに思わず背条が伸びる、穏やかな日々が訪のうて。

 「名ばかりの春でも のうなったようだの。」

 よほど極端な北端地域ででもない限りは、春夏秋冬、趣きある四季が一年を通じて巡るこの大陸。種蒔きの支度の都合から、農耕のその始めにと定められたる春の訪れが、そんな暦の上でのみならず、肌合いでも実感出来る頃合いになったその証し。寒さに身を堅くしていた木々の梢に、小さな芽吹きの気配がむくむくと膨らみ。それらが徐々に臙脂の殻を割っての、仄かな淡色にほころび始めると。どういうものか、人の心も妙に華やいでの浮き立つらしく。街道を行き来する旅人の、足取りやら話し声やらも、冬よりずんと、明るく響いての軽やかにさざめいて。

 「お…。」

 砂防服でもある重たげで裾長い外套を羽織った連れの視線が、思わずのことだろう、ついと流れた先をこちらも辿れば。今はまだ冬枯れの名残り、葉を落としたままな枯れ枝の絡み合う天蓋の一点。青みを増した早春の空を背景に、メジロだろうか小さな小さな鳥の影が一つ。小さな首をせわしく動かしながら、ちょこり留まっているのが頭上に望めた。

 「あれは、花の蜜を呑む鳥だ。」

 ウグイスと同じく、里まで降りてくるのは春の木花の開花を追ってのことで。そろそろ咲くぞという匂いか何か、あれには自然と判るのだろなと。仰向いたことで長い蓬髪の丈が少しほど下がり、腰まで届くほどとなった勘兵衛の言に。小鳥よりもそんな彼の背中のほうをばかり見やっていた久蔵が、ふ〜んと、何とも気のない声を返す。春告げ鳥のお仲間の話よりも、ほんの少しでもよそへとその心持ちを向けている勘兵衛の、遠い眼差しや横顔の聡明さが、何とはなく切なくて。

  ―― 常に傍らにあるものは わざわざ見ないの?

 この彼を慕っての 寄り添うていた姿も自然なそれで、そりゃあ優しかったあの人は。それでもいいと、傍らにおいでなだけでも夢のようだからと。多くは望まず、ただただ微笑っていたけれど。自分はまだまだ…情というものの味や温みも覚えたての身だよって。到底そこまで寛容ではいられない。

 「…。」

 辛抱なんて知らぬとばかり、白い手をついと伸ばすと。無防備な背中を覆う深色の蓬髪の裾、掬い取ったそのまま、指先に絡めてみる。すると、

 「久蔵?」

 すぐの反応、何か用かと肩越し、勘兵衛が振り返りかけた眼前を、はらはら横切った何かがあって。

  ―― これこそ春の訪のいを知らしむる使者の筆頭

 ぽかぽかと ぬくい日和をほどよく冷ますよう。そよぎ来た東風の、少しほど涼やかな流れの中へ、白い陰が幾たりか紛れている。流されるままにはらはらと、細かく震えながら躍っているそれは、寒の戻りの風花、名残りの雪か。いやいやこれは柔らかな花弁。どこぞかで気の早い山桜が咲き初
(そ)めていたものを、悪戯な東風(こち)が無残にも毟(むし)ってしまった末の来訪者。

 「ほほぉ。」

 これはまた風雅なことと思いつつ、されど。まだまだ寒さの方へと間近い頃合い。それでも咲いた花には何とも無情と。少しずつ収まる風の流れにあそばれ、覚束なくも頼りなく、宙を躍る白い花片へ。こちらは肌へと刻んで染めし、紫紺の六花を覗かす手が伸びて。ひらり訪のうた可憐な欠片を、危なげなくも掬い取る。大好きな手の見せた、何の気もない所作だのに、

  ―― ああほら、そうやっていつもいつも。
      小さき者へと手を延べようが。

 他愛なくも罪のないこと。だのに彼の手がそれを成せば、相手へも、そして この自分へも罪作りなこと。この自分を差し置いてと、頑是ない悋気を感じて尖ってしまった、こちらの不興に気づいたか。振り返って来た勘兵衛は、小さく微笑うと久蔵の髪へもその手を延べて来て。

 「…ほれ。」

 そこへ引っ掛かっていたらしき、小さな花弁を摘まみ取り。それからそれから、その手が口許へと下がっての、

 「このようなところにも。………と。」
 「…っ。///////

 緋色の柔らかな口唇、親指の腹で撫でるよに触れてから、ああ済まなんだ、これは主の口であったか。白々しい言いようをし、くつくつと咲笑う。連れが何にか臍を曲げかけていたことをまで、気づいていたのかどうなのか。鈍感無粋な朴念仁が、されど時々、呆気ないほどするりと。こちらの間合いの更に内側という、至近極まりない際にまで、容易く迫っていることも多々あって。今もまた、ちょっぴりささくれ立ってた心情を、実はあっさり拾われていたらしく。そよぎ来た風の運んだ花舞いへ、それは即妙に便乗してのこのお言いよう。

 「…馬鹿もの。////////

 胸をとんと衝かれての、一旦騒がされた格好にて。気持ちを均され、結句 体よくあやされたと判る。それが口惜しいながら、とはいえ…こちらの気概気性への把握あっての構われようでもあるだけに、そこのところは仄かに甘くて心地いい。いい年をした壮年が何を剽げておるかと窘めながらも、年季の染みた精悍さが匂い立つお顔がふわりほころぶの、こうまでの至近で見られる至福は、他の何物にも代え難くって。風に煽られた髪が、頬を撫でる擽ったさへと誤魔化しながら、目許を薄く伏せてのそのまま。甘酸い想いを噛みしめてみる………。

  ―― そんな清かで長閑な早春のひなかに、ふと

 風や陽の穏やかさに棹差すような、不穏な気配が仄かに立った…ような気がして。背条を撫でた雑音へ、金髪痩躯の剣豪殿、そのまなじりが鋭くも素早く立ち上がったが、

 「…。」
 「久蔵?」

 勘兵衛には拾えなかった、若しくは意に介すほどではないとした気配。さしたる強さではないのは、それだけ消気の術に長けてのことか、それともさしたる邪気ではないからか。それともそれとも、せっかくの甘い和みに水を差された格好だったゆえ、久蔵には殊に忌々しい存在として癇に障ってしまったものか。

  ―― 誰ぞが、見ている?

 何しろ双方とも男ぶりのいい二人連れなだけに、注視注目ならばどこででも受けている身。片やは、伸ばした蓬髪も雄々しい野性味としていや映える、いかにも鍛え抜かれた屈強な体躯をし、男臭くて精悍で頼もしく。だのに、年経て得たそれだろう、懐ろ深くも粛然と落ち着き払った存在感のある、重厚な渋みが知的な壮年殿と。それへと添うたる うら若き剣豪は、そんな壮年殿とは正反対の、玲瓏にして妖冶な風貌。金絲の髪に白磁の肌をし、切れ長の双眸は朱に冴えて。真っ赤な衣紋が吸いついた、薄い肩に細い腕。かいがら骨の陰が立つほども華奢な背中をしながらも。幽玄とは此を言うかと一見しただけで得心がゆくほどに、挑発も威嚇もないまま、だというのに…その刃からは逃れ得ぬとの、絶望にも似た冷たい恐懼をまといし存在。この若さで、先の大戦では“死を呼ぶ紅胡蝶”と囁かれたほどもの練達でもあり。そんな偉丈夫と美丈夫の二人連れだよって、人目を引くといや引いてやまぬも致し方なく。だが、

 「久蔵?」
 「先へ。」

 余程の引っ掛かりを覚えた若いのだったか。こちらは…何をそんなに警戒の必要があるのかと、事態を呑めずに怪訝なお顔をするお連れへ。きつい眼差しだけを向けての“先へ行け”と促すばかり。何が何やら、やはり判らぬままながら。だが、一旦言い出すと聞かぬ時のお顔だと、そこはこちらも把握をしており。言われるままに、長閑な街道のやや外れへ向け、少しほど歩調を速めて歩み出せば、

 「…っ!」

 今度こそは、勘兵衛にもその気配が察せられたほどの、強くて勢いのある何物かの気配がし。一斉に飛び出して来て、連れ合いの痩躯目がけ、躍りかかって来たのが肩越しに窺えて。
「久蔵っ。」
 ハッと息を引きつつ振り返ったとほぼ同時、背後の空間が奈落にも似た深い奥行きを保っての、暗転したかのような錯覚を覚えた。またも吹き寄せたる東風が運んだ花雨の舞う中で、

  ―― 斬っっ、と。

 若木のように嫋やかな肢体をしながら、どこへどれほどのそれを秘めておるものか。その身にまとった紅蓮の衣紋の、たっぷりしていての足元まである長い裳裾を、華やかにも大きくひるがえし。鋭くも俊敏な体さばきをもってして、いかにもザッとの右へ左へ。白昼の明るさを、それ以上の鮮やかさで閃いた刃の軌跡、凶悪な銀線が豪と走っての分断する。素人目には、それは無造作に振り抜いただけの太刀筋に見えたことだろが。背に負うた双刀を、上から下から、一気に引き抜いたそのまんま。鋼の重さを物ともしないで、それぞれ片手のみにて制しつつ、力をためもしないでの無造作に振り抜くこと自体が、そりゃあ凄まじい力とコツの要る一仕事。柄の糸巻きがきちぎちと軋むほどもの握力で絞り上げるよにして握り込まねば、失速した刃が切っ先をどこへ運ぶか判らない。そうまで厄介で我儘極まりない得物であるというのに…そこまでの力技に慣れているとは到底思えぬ、拳の節々の骨も立たぬほど、綺麗ですんなりした白い手が、だからこそ恐ろしい奇跡を見せた訳であり。しかも、

 「ぐあっ!」
 「がはぁっ!」
 「ぎゃあっ!」

 その一閃には無駄な空振りもない。掴み掛かって来たのは4人の男で、そのどれへも不公平なくの二太刀ずつ。手元を叩き、返した切っ先か若しくは柄の先にての殴打にて、脾腹か背の真ん中を、どんと打
(ぶ)っての叩き伏せており。これこの通りという解説に要した数秒さえ尺がはみ出すほどの、瞬殺の太刀一閃。疾風のように通り過ぎたは、ほんの刹那のことであり。ちょいと体を伸ばしてみましたと言わんばかりの呆気なさにて、得物の双刀、再び鞘へと戻した彼へ、

 「…久蔵。」

 向こうから無法にも掴み掛かって来た…とはいっても、どう見たって素人だと判る相手なだけに。本気の刀にて薙ぎ払うのは大人げがなさすぎると言いたいか。渋いお顔になった勘兵衛に窘められるまでもなく、

 「大事ない。峰打ちだ。」

 さしもの久蔵でもそのくらいは察していたらしい。単に峰を返していたのみならず、打ち払った一撃一撃自体へも、力を抜いての気を遣ってやったらしく。下手を打てば肋骨の2、3本も折れていたかも知れない、ああまで咄嗟の空撃ちが、無傷で済んだはこれもまた、彼が途轍もない練達なればこその妙技というもので。確かに斬られたはずなのに、どこにも怪我はないと来て。あたふたしつつもぐるぐると、それぞれが自分の身を見回していた男らへ、

 「……で? お主ら、一体何者だ?」

 人騒がせにも程がある。不意打ちだけでも問題なその上、見るからに人斬り用の刀を帯びた侍相手に、素手で掴み掛かって来ようとは。無謀というより、もはや自殺行為でしかないのだと、首根っこ掴んで言い聞かせたいところの壮年殿。とはいえ、見回した顔触れは、若いのはたったの一人だけで、残りの三人は多少の上下はありそうながらも分別盛りの壮年世代。どこぞかの街の商人だろうか、身なりもそれぞれ小ぎれいで、形式から外さずのきちんと整えており。となると…悪戯っ気からこのようなことしでかしたとは、ますますのこと思えないと来て。一体どこの誰なのか、座り込んだままな彼らを見回し、勘兵衛が問い質
(ただ)したところが、

 「お、お待ち下さいませっ。」
 「どうかどうか、お慈悲のほどをっ。」

 今度こそ斬られると思うての恐怖からか、あわわと尻込み後ずさりした面々、そのまま背後に立っていた久蔵の足元へと背中をぶつけ、飛び上がったり身を縮込めてのうずくまったりするものだから、
「何も取って食おうというのではない。」
 先程の怖いもの知らずにも飛び掛かった度胸はどうしたかと、その変わりようへこそ辟易したらしき勘兵衛の言の後を継ぎ、

 「先の宿場から尾行しておったろうが。」

 日頃 表情の薄い久蔵が、細い眉を寄せ、目許を眇めて、見るからに不愉快という顔をする。どういう企み、下心があってのことか、自分らを注視して来る彼らの小バエのように鬱陶しい気配を、だが、ずっと我慢していた彼だったらしく。いかにもな険しい顔をした彼を見て、男らはますますのこと萎縮を見せる。頭を抱え込むような格好になっての、4人揃って地べたへ這いつくばると、

 「も、申し訳ありませぬっ。」
 「そちらの御仁が…用心棒殿が離れたのでと、それでの無体ではございましたが。」
 「まさかまさか、若様までがあのような凄腕であらせられようとは。」


  「「………………。」」


 ちょぉっと待って下さいませな。勘兵衛が久蔵が、揃って絶句しかかったのは、彼らの言いようの中にちょっぴり飲み込みづらい単語があったから。

  ―― 用心棒殿? 若様って 一体誰のことですか?

 これまた彼らしいっちゃらしいことながら、何とも正直に…得体の知れない物でも見るかのような、どこかしょっぱそうなお顔になった久蔵が、もしかしなくとも“若様”であり。そんな彼から少し距離を置きたいと促され、数歩離れた格好になった勘兵衛が、古武士然とした風采もそれらしい“用心棒殿”ということか。彼らの正体をそこまで知らぬとは、素人も素人、よほどのこと世間の狭い顔触れたちであるらしく。ということは、

 “延々と尾けて来た“付け馬”ではない、ということだの。”

 どんな因果を抱いてのことか、この街道を…幾つもの宿場を通過してのずっと尾けてきた“付け馬”ならば。2つ先の街道にて起きた“大捕り物”も知っている筈。ちょっとした組織を成していた盗賊団を相手に、獅子奮迅の働きをし、役人たちに別れを惜しまれつつ発った彼らを知らないとなると、その次の宿場の、しかもあまり町の外へは出向かぬ立場の住人と察せられ、

 「実は…我らは◇◇の宿場の、生糸問屋〇〇屋の者でございまして。」

 おおう。早速にも立てたばかりの目串が大当たりした模様。だがだが、生糸問屋とはまた、彼らには縁がなさ過ぎるお店の方々ではなかろうか。確かその宿場では、滞在した宿の他というと、電信の親機を置いていた早亀便の中継所と、雑貨屋くらいにしか足を運んではいない筈。ちらと視線を投げた先では、久蔵もまた心当たりがないとの瞬きをするばかり。そんな彼らの目配せには気づかなんだか、主犯…もとえ、首魁らしき壮年が、恐る恐るに口を開いて、
「若様を見初めたは、我らが主人のお嬢様でございまして。前々からそれは憧れておいでだった“紅胡蝶の若様”ご本人を、町なかの辻にて見かけたと、そりゃあもうもう興奮なされて。」
 そうと言っての彼がそろりと、懐ろから出しての差し出したのが、

 “絵草紙?”

 いやいや、そんな粗末なものじゃあない。質のいい紙を綴った読本もどきで、多少ほど手ずれしているが、丁寧に扱われていたらしく。四方の角には最初からの養生だろう、補強のテープが綺麗に貼ってある。ご覧下さいということか、目礼を交わしての手に取った勘兵衛が、表紙を見てそのまま…ははあと腑に落ち、それだけで八割ほど合点がいったのも無理はない。

 「島田?」

 よく当たる易者のような反応へ、久蔵が傍らへと寄り、その手元を覗き込めば。表紙には見覚えのある…真っ赤な胡蝶の大群が戯れる森の絵が、バランスよくもコラージュされての刷られており。
「…紅胡蝶、ゆめ、まぼろし?」
「夢幻
(むげん)と読むのだ、恐らくは。」
 下の方に流麗な字体にて刷られたは題目か。横から手を伸べた久蔵が、こちらさんはやや乱暴な手際で1枚1枚ページを繰れば、現れたは…同じ作家のそれだろう、麗しき逸品の数々だ。

 “…成程の。”

 緻密繊細、写実に徹した絵もあれば。いかにもの和国画、玲瓏な印象だけを生かしての線描きや面塗りが、淡とした画面の中へ凛然たる存在感を醸していたりもし。中でも最も見事な作は、やはり桜花の散りゆく中に立つ、それは麗しき若者の姿。こちらの彼を知らぬ者が見たならば、女とも男ともつかぬは架空の存在を描いたものかと思っただろう、それは妖冶な横顔や若木のような嫋やかな痩躯が、迷いのない筆で鮮やかに描かれており。

 「この絵を描いた絵師殿は、同じ題材での作品が評判だそうで。
  この絵を贔屓とする方々の中には、
  ウチのお嬢様のように、
  この若様が実際においでだと信じて疑わぬお人も多いとか。」

 そうまでの熱中ぶりから意中としていた対象にここまで似通った存在、妖冶で美麗なうら若きお侍様が本当に眼前へ現れたとあって、とうとうお嬢様ののぼせも最高潮。満足に食事も喉を通らぬほどとなってしまわれ、それでと。本物かどうかはともかくも、その麗しの若様とやらを探索して来よと送り出された彼らだそうで。………とんでもない事情があったもんである。

 「…ふむ。」

 聞かされたお侍二人にしても、どれほどの納得がいったものだろか。それよりも…昼餉の頃合いという時間なせいか、街道の往来、しかもこんな外れを通る人影もないものの。身なりのいい、それなりの年頃だろう男衆が、恐れ入っての道の上へ平伏する図は、なかなか眸を引くそれでもあって。
「とりあえずは顔を上げて下さらぬか。」
 これではこちらが何かしらの無体を押し通しているようだと、勘兵衛が穏やかな口調にて言い諭し、一人一人の腕を取っての立ち上がらせたところへと、

 「…。」

 彼もまた、彼なりに何をか考え込んででもいたものか。途中から伏し目がちになっての沈黙を保っていた久蔵が、ふと。道の端に居並んでいた木立ちの傍らから離れると、襲撃者たちの側にいた勘兵衛の間近にまで歩み寄って来、

 「久蔵?」

 いかがしたかと振り返った彼の衣紋の胸倉を、華奢な作りの白い手でぐいと掴んだそのまま。僅かほど爪先立っての身長差の微調整もなめらかに、キョトンとしている壮年殿へ、紅衣に包んだ痩躯を擦り寄せて。それからそれから、連れ合い殿の口許へ、自分の緋色の唇を衒いなくも押しつけてしまったから。

 「え?」
 「はぁあ?」
 「あわわ。////////

 段取りこそ乱暴ではあったれど、何しろ…くどいようだが、いづれも絵になり様になる、それは端正な風貌・美貌のお二方。年経て得たそれ、人の世の機微の奥深き含みを掻いくぐっての身につけた、そんな苦み渋みをまといし、男でも惚れ惚れしそうな面立ちの、壮年殿の精悍なお顔へと。片や、この世の人とは思えぬほどに、生々しき存在感を一切持たぬ、正しく“佳人”の若々しい白面が。あっと言う間に添うたそのまま、薄く開いていた連れ合いの口許、塞ぐように触れ合うての接吻と相成ったものだから。これを驚かずして何へと眸を剥こうかという流れ。ただ、

 「はわ〜。/////
 「こ、これっ。センタっ。」
 「そんなに見つめては失礼な。」

 一番若いのが腑抜けになっての視線を外せなかったのもまた無理のない話。男同士の口づけなんぞ、臍の緒切っての初めて見たのだろうに。これがまた、おどろおどろしくも気持ちの悪い光景ではなく。むしろ…可憐な桜花も恥じらって蕾に返ろうほどに、妖冶で甘美で色っぽく。殊に、自分から仕掛けておきながら、その冷たそうな白い頬に仄かに朱を亳いてのうっとりと、夢見るような顔つきになってゆく“若様”の変貌ぶりには、

 「…は〜。///////
 「これは…その…。///////

 最初こそ不躾けな手代さんを咎めた大人たちまでが、いやこれは艶っぽいと気を呑まれ。終
(しま)いには声を無くしての一緒になって、ただただ見惚れた始末だったりし。そんな突拍子もない…人前でというには ややはしたない、愛の交わりを披露したその上で。陶然としたお顔を離したそのまま、余情を堪能する間も惜しんでのこと、

 「俺はこう見えて女で、この男の内儀だ。」

 スパッと言い切った久蔵には、相手の4人のみならず、勘兵衛までもが“えっ?”という意表を衝かれたようなお顔になったほど。
“自分で自分を“内儀”とは言わぬものだが。”
 まあ確かに内儀ってのは他所様の奥方を指す言い方ですが。(ちなみに、もっと細かいことを言うならば、商家の奥方に使います。)この期に及んでそんな履き違えたことを思った誰かさんはともかくとして。
(苦笑) 何か途轍もない呪いでもかけられでもして、人の言葉が理解できなくなってしまったものだろかと。困惑に染まったお顔を見合わせた、どこぞかの大店のお使いの方々へ、双刀使い殿の言いようは更に続いて、

 「いいか?
  よって、俺がそちらのお嬢様とやらに逢うたとしても、
  女同士では添うことは叶わぬ。………違うか?」

 「………あ。」

 ああそうかと、久蔵の言いようへすぐさまの得心がいったのは、さすがは年の功か、一番年嵩の…恐らくは番頭さんであるらしく。

 ―― その娘御とやらの煩悶も、
     そもそもは、あの絵草紙に魂とられてしもうただけのこと。

 それへ似た俺を傍らに置いたとて、生身の者がなすあれこれへ幻滅しかしないに違いない。見失ったとの言い訳をしやすいように、そんな奇天烈なことを持ち出した久蔵であったらしい。とはいえ、にわかに信じられることじゃあないだろに、

 「成程、そうでございましたか。」

 ははぁと再びの恐れ入って見せ。重ね重ねのご無礼と、お手間を取らせましたる不調法、どうかお許し下さいませと、あらためて深々頭を下げた番頭さん。まだどこか意味が通じていない連れたちの、腕を取りの後ろ襟を掴みのして、やや強引に引っ立てて行った手際の良さと言ったら、

 「…さすがは商売人だの。」

 なんの、虹雅渓のお母様に比べれば、粋でもなくの強引だっただけだとでも言いたいか。目許を眇めた久蔵が、その手へ見下ろしたのが…撤収のどさくさに紛れて彼らが忘れていった、問題の絵草紙だったりし。しみじみ眺めた久蔵には、だが、依然として…どれほどの思いの丈から描かれた代物なのかまでは、判っていないものだろと。安堵半分、見やっておった壮年の耳へ、微かに届いた声がこれ有りて、

  「…良かった。」

 あまりに小さな声での呟きは、丁度吹きつけた東風
(こち)に紛れて語尾しか聞こえず。何が“良かった”のだ?と訊き返せば、

 「〜〜〜。////////

 どんな修羅場でもその冷徹さを崩さぬ若いのが、紅衣紋に負けないほどの真っ赤になってしまい。それでもピンと来ない朴念仁な連れ合いへ、きゅうと唇を噛みしめると、焦れたように目許を細めてのむずがるようなお顔をして見せる。そして、

  ―― だから…あの絵師に見初められたのが、
      お主の方でのうて良かったと。////////

 勘兵衛へと横恋慕されての、姿絵を広められておったらどうなっていたかと。それをこそ案じてしまったらしき久蔵へ。言うに事欠いてそれはなかろう…ではなくの、何と可憐で愛らしいことを言うことかと。それでの言葉に詰まった勘兵衛だったのも、思えば反応としてはおかしいので。その豪気なまでの天然っぷりはきっと、当分は治りそうにはないのだろう。含羞みに頬染めたうら若き連れ合いの、やわらかな金の綿毛をくすぐって吹き来る東風
(こち)に。山桜の白い花びらが、運ばれてのはらはら舞い来たる様もまた、幽玄にも麗しく。先程のにぎやかな連中が去ってから、いまだ誰の目もないのを良いことに、仄かに立った照れを持て余してか、視線を逸らした久蔵をそおと自分の懐ろへと掻い込んだ勘兵衛。

 「儂は果報者よな。」
 「…何がだ?」
 「このような形であれ、多くの人心を捕らまえたその本人を、
  こうして直に触れての、腕へと抱いておる。」
 「…っ。//////

 それを“果報”とぬけぬけと言ってのけた厚顔さは今更だとしても、見下ろしてくれる眼差しの、伏し目がちとなったことからの柔らかさや仄かな色香が…激発しかけた久蔵を思わず黙らせて。やはり、人目がないのをいいことに。今度は双方が求めてのこと、舞い散る桜花の花びらの中、身を寄り添わせた二人の間で、甘い甘い口づけが交わされ直したのでありました。








   おまけ



 「……それにつけても。」

 こんなひょんな場所で、またぞろあの絵師殿の作品にちょっかいを出されようとはと。今は風だけが二人を取り巻く道の上、顎のお髭を撫でながら、感慨深げに苦笑をする勘兵衛様であり。

 「せめて もちっと肉をつけてはどうかの。」

 妖精のようなという描かれ方を裏切ってやればと、やくたいもないことと判っていながら、訊いてみたところ。赤い双眸を細めての、どこか意味深な上目遣いになって見せた久蔵からは、

 「そんなしたら、お主が困るだけだぞ?」
 「???」

 謎めいた一言が返って来。いつものアレ、お膝に乗っかるのが前提になってる言だったらしいと、勘兵衛が気づいたのがその日の宿についてから。そうまでの後々に ああと合点がいった壮年殿へ、ほれそうだろがと返すそれ、しっかりといつもの定位置に収まってからの文字通り、大上段からの笑みを見せた久蔵だった辺りもまた、何ともいい勝負の相性であったそうですよ?
(苦笑)









   もひとつおまけ



 川のおもてを撫でるほどには、畔の柳もまだまだ若枝が短くて。それでも春めく陽気に照らされてのこと、野辺へ見ゆるは、菜の花の黄色、梅の紅。桃の濃緋に桜の緋白と、どれも健気な命の息吹が、春を迎えて さあさ起きませいと萌えての色々と、競い合うよに咲き揃っており。虹雅渓の最下層、栄える街の排熱のお陰で年中暖かな“癒しの里”でも、降りそそぐ春のお日和の暖かさはまた別格と。お使いに急ぐ若いのの足取りも、冬場に比べるとずんと軽やか。晩は妖しき華やぎに満ちる里だが、そんな界隈のあらゆるところが陽に晒され、すっかり暴き出されてしまう昼の間は、驚くほど長閑な空気がたゆたうばかりな遊里にて、

 「おや、お雛様ですか?」

 母屋の一階、中庭へと向いた大きめの広間に、大小様々、幾つもの木箱をとっちらかして。お若い主人夫婦が膝突き合わせ、愛らしいお人形やらお道具やらを一つ一つ片付けておいで。漆の塗りも丁寧な、お茶の道具にお針箱。箪笥に長持ち、双六盤に貝合わせ。黒塗りの網代輿に牛車にと、それらは正しく輿入れの一式を模したものであり。盃やら銚子やら、沓に和楽器などなどを、小さな白い手にして畏まっていた何体ものお人形は、いづれも桃の節句に花添えた、そりゃあ愛らしい顔触れたち…と来れば。俗に言う“雛の別れ”の真っ最中であるらしく。とはいえ、そろそろ桜も咲こうかという頃合いだのに、また悠長なほど遅いお片付けではなかろうか。もしかして旧の暦でのお運びかしらと、ひょこり、小首を傾げたお客人の意中に気づいたのだろう。

 「いえなに、お雛様を早く片づけると、
  それだけ早く嫁に出てってしまうというじゃありませんか。」

 絹糸のような金の髪を引っつめに結った年若な主人が、結構本気らしき声音でそんな言いようをし、その傍らでは女将がついつい、夫の親ばかぶりへ くすすと苦笑をしたところが、

 「カンベちゃまvv」

 お雛様の本来の御主なのだろ小さな少女が、だが、お片付けには飽いたのか。ぴょこりと立ち上がると、客人へ向けてとたとたと歩み出してゆき、
「ああいけませんよ、カンナ。」
 何度教えても、こちら様を別なお人と取り違えてしまう愛娘。他の人に言わせれば、確かによくよく似ているらしいし、実を言うと七郎次だとて、初見の場では危うく取り違えかけたお人だが。その“カンベちゃま”こと、勘兵衛様とは、ともすれば親子ほども年齢が違おう こちらさん。島谷勘平と仰せの、只今売り出し、人気も知名度もぐんぐんと右肩上がりという最中においでの、うら若き絵師殿で。顎下にお髭をたくわえたのがよく映える、彫の深い面差しに、泰然とした押し出しの良さが相俟
(あいま)って、実際の年齢以上の、風格とでもいうのだろうか、落ち着きのある印象を自然のそれとしてまとわせておいでだし。しかもその上、絵筆より重いものは持つ必要がないはずの御仁でありながら、上背があって屈強精悍、聞けば護身術にと柔術を少しほどかじってもいるとかで。頼もしいこと、武家の如く…と、そんなところまでもが彼(か)の壮年殿と似通っているものだから、こんな幼い子供には仕方がないっちゃない取り違えなのかもしれないが。

 「いつもいつもすみません。」

 この自分よりもお若い方へのこんな失礼もなかろうと、彼への抱っこをせがみかかる愛娘をはっしと捕まえ、追って来た奥方へ渡しつつ、たびたびの無礼を謝したれば、

 「いやいや。」

 構いませんよと莞爾たる微笑を見せて下さるのは、彼の側でもその“そっくりさん”をよくよく知っていればこそのこと。巷でも評判の凄腕の賞金稼ぎ…という噂話でのみならず。実際に逢ってもいるからこその把握から、似ておいでだとの引き合いに出されても、まんざら悪い気はしない人物なのを知っているその上に、

 “選りにも選って、久蔵殿へ関心がお有りと来ちゃあねぇ。”

 数年に一度、ここ虹雅渓のみならず、幾つもの街や都市にまたがって催される、それはそれは大きな規模の芸術展で、彼が出品しての入選を果たした作品のモチーフが。七郎次らには馴染みも深い…紅蓮の魂を鋭く冷めた風貌の中へと宿した、うら若き剣豪殿。何とも印象的で、言い方を変えれば鮮烈なまでにエキセントリックな、あの双刀使い殿だったことへと端を発してのお付き合い。それを皮切りにするかのように、それ以降も、同じテーマの作品が連作で発表されており。その中に少しずつ姿を現していった人物の影へは、愛好家もまた すぐさま気づいて。女とも男ともつかぬ、何とも妖冶な存在は、淡とした描かれようから中性的な妖精のようでもあるかと思えば、時には妖しくも、淫靡で残酷な魔性の化身のようにも描かれており。あっと言う間にその一連のシリーズへのファンという層が山ほど生まれてしまったとか。そんな人々を当て込んでのもの、それらを一堂にまとめた『紅胡蝶 夢幻』という画集がつい最近発行されもしたのだが、

 「そういえば。紅胡蝶、偽刷りが出回っているそうじゃないですか。」

 許可を得ないで複写をし、勝手に刷られた、いわゆる海賊版までがあちこちでこっそりと売られているらしく。困ったことですねと綺麗な眉を寄せる七郎次へ、ええと頷首した彼の言が、

 「雑な版での流出はね。何だか歯痒いばかりです。」

 万が一にもそっちの雑なのが、モチーフとしたあのお人の目に留まったらどうしようかと。そういう順番で憂えているあたり、芸術家というものの価値観は一味違うということか。そこいらを察しはしたものの、何を言ってやればいいやらと窮してしまい、結局は たははと乾いた苦笑を返しただけな七郎次。
“それにつけても…。”
 この手の風貌のお人は同じような趣味・嗜好をしておいでか。何とはなく面差しやら雰囲気やらの似通ったあの壮年殿の、終生を共にとしていよう うら若き連れ合いさんを、こちらもまた想い続けておいでというのが、何ともまた不思議な相性で。
『何をお言いですよう。』
 勘兵衛様と島谷様とが似ておいでなことへは、さしたる意味はありませぬ。それぞれに人性豊かな、これほどのお人らのお心を掴みしめて離さない、そんな魅力を久蔵様がお持ちってだけのことじゃあありませぬか、と。雪乃がいつぞや微かに笑いながら言っていたその通りではあるのだろうが、

 “揃いも揃って罪な方ぞろいなお話ですよねぇ。”

 どのお人も一端の立派な男衆だってのに、なさぬ仲へと煩悶なさったり、はたまた叶わぬ恋に眸が眩み、その身を焦がしたりしておいで。そんな彼らを出会わせたのは、一体どういう邂逅のさだめでしょかねと。此処にはいないお仲間たちが、旅先にて早くもややこしい難儀へ遭遇していることなぞまだ知らぬまま。どこからか聞こえて来たまだまだ幼いウグイスの声へ、穏やかな春の陽気を喜ぶ微笑みへと誤魔化して。その実、困ったように苦笑ってしまった、此処にはいない誰かさんの おっ母様だったりするのでありました。







  〜Fine〜  08.3.17.〜3.19.


  *何だかどんどこ話の尺が長くなってしまい、
   妙に時間が掛かってしまった代物でしたが。
   おかしいな、
   ただ、絵師のセンセイ、若しくは作品の久々のご登場をと、
   構えてただけだったはずなのにな。
(笑)
   ええはい、島谷センセイは相変わらずに、
   久蔵殿のことが忘れられないでいるご様子です。
   許婚者もいるのにねぇ。
   しかも、その横恋慕が、
   ますますのこと あちらのお二人をくっつける役に立ってるほどで。
   まま、報われたいとかは思っておいででないのでしょうけれど…。


  *さてここからは、どうでもいいネタ話を一席。

   どこで読んだか見たのだか。
   南のお人と北のお人が、
   お互いを田舎者だと罵り合う掛け合いがあって。
   「この防人ふぜいがっ!」「何だと、この屯田兵がっ!」
   というものだったのですけれど。
   防人は九州警備の兵で、
   太宰府の管轄下に飛鳥時代から置かれたもの。
   屯田兵は言わずもがな、
   明治時代に北海道に置かれたやはり警備と開拓を行った兵のこと。
   (確か、さだまさしさんと松山某さんの、笑えるやりとりじゃあなかったか。)

   ところで、第一話のアヴァンの中、本丸へ突っ込んでく時に、
   シチさんが斬艦刀の計器を操作しつつ“サキモリ領域”って口にしますが、
   ということは、斬艦刀って南軍が発明したものなんでしょかね?
   それとも…出力のことを言ってると思ったんですが、
   もしかして標的ロックオンという意味なのかしら?


  *も一つ、どうでもいいかもなネタを。
   ウチの“褐白金紅”のお二人は、
   何ともめでたい紅白の衣紋でおいでですが。
   日本のとある筋では、
   赤と白の着物って、あんまり景気のいい話じゃあないそうで。

   「敷島の、
    大和男(やまとおのこ)の行く道は、
    赤き衣か、白き衣か」

   赤い着物というのは罪人が着る囚人服であり、
   片やの白装束と来れば、これは言わずもがなな“死に装束”。
   よって、
   義理人情からとはいえ無謀なことへと挑む馬鹿な奴らへ、
   先に待つのはこのどっちかの衣しかないぞというよな言い方をし、
   それでも初志を貫くのが男気よと嘯
(うそぶ)く…なんてな、
   ある種の美学を表したりもしたそうで。
   いやなに、ふっと思い出しちゃったもんですから。
   (…縁起でもないですね、はい、すみません。)

めるふぉvv めるふぉ 置きましたvv **

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