利き酒  お侍 extra
 


 それほど北の地ということもないのだが、それでもそういう時期だからか。陽のある昼日中から、外気が随分と冷え込む頃合いになった。黎明の刻、夜明けの寸前が一番寒いのと同じで。あと少しで春が来る、そのすぐ手前だからこそ、最も冷え込むということか。宿を取るときのいつもの習い、物音や気配で煩わされたくはないからと、離れのある宿を選んでの逗留中。だが、連れ合いの壮年がいつも口にするそんな言いよう、実は建前だということくらい、さすがにもう判っている。自分たちが狩って来た“賞金首”の残党たちが、逆恨みから寝首をかきにと襲いかかって来かねぬ身。どれほどの手勢でいつ何時と、判っていたら苦労はなくて。何せ相手は野伏せり崩れで、卑怯上等。夜襲朝駆けも辞さないだろから、せめて他への塁が及ばぬようにと、出来るだけ母屋から離れたところをと選ぶのが、もはや習慣になっていて。

  ―― しゃりから、しゃりり

 細いつま先を突っ込んだ庭ばきの下駄の歯が、細かい砂利を咬んでは湿った音を軋ませる。みぞれを思わす冷たい音なのは、昨日の雨で濡れているせい。母屋で湯を浴びてのその帰り。口許からこぼれる吐息ばかりじゃあない、金の色した頭からだって湯気が出ていそうなほどに、十分温まっては来たけれど。冷めた煮こごりみたいな、濃密な夜陰の垂れた中。ついと見上げた夜空には、凍るように尖った下弦の月。宿場といえど小さなそれだけに、周囲の宿のにぎわいも知れており。寒いばっかな夜は早寝に限るか、明かりの灯る窓さえ少なくて寂しいばかり。それでもたゆまず歩み続ければ、雪見障子が行灯のように明るいのが望めて。ああ、あったと、無性にほっとする。だってそこには彼がいるから。

 「おお、戻ったか。」

 きれいに磨かれた格子戸から入っての小上がりの先。襖を開くとまずは板の間の居室になっており、その先は畳のある寝間という作りで。大した調度もない板の間には、寒くないようにと大きな藍染めの陶器の火鉢が据えられてあり。その傍らに丸く綯われた円座を敷いての胡座をかいて、先に湯を浴びていた勘兵衛が待っていたが。

 「…?」
 「んん? これか?」

 久蔵が入れ替わりで母屋へと向かったその時には、此処にはなかったものが増えていると。そんな物問うような視線を寄越しつつ、火鉢の傍ら、向かい合うよに敷かれたもう一方の円座の上…を通り過ぎ。お揃いの宿着の上、やはりお揃いの綿入れを羽織った壮年殿の、お膝間近へと細い腰を下ろした、年若な連れ合いへ、

 「宿の主がな、今宵は殊に冷えるというて。」

 差し入れだと置いて行ったのだと。膝近くへ置いていた、手びねりの作りらしき、ごつごつと武骨な大徳利を撫でて見せる。途端に、

 「…。」

 訊いた久蔵の視線がちょいと尖ったのへは、

 「ああ。安易に口にしてはおらんさ。」

 苦笑を返した勘兵衛で。ささと勧められたところで、思い出したことがあったと話を始めて誤魔化して、そのどさくさの中で相手へも勧め、毒味というのではないが先に飲ませたとのこと。迂闊なことはしないに越したことはなく、不審な物へは手をつけないのが基本だというくらいは、勘兵衛とて重々承知。

  ―― そんなことよりと、不審というならお主こそと

 大きめのぐい飲みの縁へと口をつけるついでのように。少しばかり顎を引き、伺うような素振りを作って。間近に向かい合う、若々しい白面を見やった壮年殿で。食事もとうに済ませたし、寝間も整えていただいた。よほどの用向きでも生じぬ限り、宿の者はもう来ない。となれば、常なら当然顔にてお膝の上へ跨がって来るもの。なのに今宵はどうかしたのかと。言外に訊いている連れ合いからの視線を受けて、

 「…。」

 藍色の染めつけにいや映える、白い手が火鉢の縁へと載せられる。特にどうという理由なぞないのに。ただ、そんな風にしてのすっかりと。この身をひたり、寄せてしまうと。

 “その姿がまるきり見えなくなってしまうじゃないか。”

 喉の奥、胸の底で不満げにこぼした久蔵で。そんな人の気も知らず、妙な奴だと…それでも目許を口許を和ます彼から、

  ―― ああ、視線が離せなくなる。

 泰然としている折のその横顔の、意外なほど繊細な稜線や、伏し目がちになった目許の色香が気に入りで。何時までもどこまでも眺めていて飽きないが。ただ眺めていられるというのも居心地が悪いものなのか。だってしょうがないじゃないか。鋭い一瞥、睥睨、そこから始まった恋だもの。

  ―― あれこそ“一目惚れ”というもの、かも知れない。

 初見の場となったあの資材置き場にて、当世には稀な“侍”だとの印象を嗅ぎ取った。それがあまりに久しい感触だったから。刃を合わせてみたくなり、問答無用で立ち合いへと持って行ったところまでは 十分こちらのペースだったのに。巧みで勘がよく、刀さばきには切れの鋭さがあり。気がつけば…こちらの素早さの出端を挫いての、数々の老獪さに振り回されており。なんて狡猾な奴かという苛立ちや憤懣が、だが。内心では小気味よくって堪らなかった。この自分が翻弄されるなんて何年振りか。どれほど間近い間合いにあっても様々に畳み掛けられて捕まらぬ相手が、小癪で面憎いのに。あのままいつまでも、いたかったのもホント。思うより先に身体が動いていたほどの、息をもつけぬ切り込み合いの中に。昔はそれが日常だった、死と背中合わせの総毛立つような緊迫の中に、この身を置いていたかったのに。彼はあっさりと刀を引き、今は勝負をつけられないと言い出して。

 “釣られた…か。”

 今にして思えば、あれもこやつの策のうちだったのかも。現にまんまと勘兵衛の後を追ってしまった。必ず決着をという約定を結び、断然不利な戦さへ身を投じる羽目に陥って…まま、それは勝ったからもういいのだが。

 「…。」

 声が届けば姿を探し、姿を見れば顔を見たくなる。顔を見やれば視線がほしい…とキリがなく。そのくせ、見られることには慣れがないからか、

  ―― 昏い眸と視線が合うと、何故だろか総身が震えた。

 こんなにも何かへ執着したのが、そういえば初めてだ。精悍で浅黒い濃色の肌も好きだし、いかにも男らしく、骨格からして大ぶり武骨な、持ち重りのしそうな手も好き。小鉢くらいはある ぐい呑みを余裕で持つ、この手の熱さを知っている。首元へと添えられると、片手でやすやすと半分以上を覆われてしまい。戯れからか、締めつけるよに軽く力が籠もっても、何故だろか少しも怖くはなくて。

  ―― ああ、ごつりとしたその手を見ているだけで、あの熱を思い出す。

 肌越し、その下の血肉を、ほろほろと蕩かしてゆく熱。ざわりと立った官能の波は、息を詰めても止められはせず。指先へ爪先へ、達してそれから。全身へと至る甘い毒と化すのを知っている。


  知らず、その手を同じ場所へと当てがいかけて。
  ハッとし、衣紋の胸元を指立てて押さえ込むことで誤魔化して…。





  ◇  ◇  ◇



 言いたいことがないからか、いやさ、即妙な言いようを思いつけぬから言わぬのか。日頃から寡黙な彼のことだから、やはり口は開かぬかと見切りをつけかけたそのすんでで、

 「酒とは、そんなにいいものか?」

 懐ろをおさえたまんま。久蔵がぽつりと、小さく呟いた。特に酒好きとか酒豪というほどではないけれど、どちらかといえば勘兵衛は酒を好むほうであり。今のように盃を傾けていると、まるきり呑めない彼はそれを眺めているしかない。何せこちらさんは舐めた程度でそのまま昏倒する身。勘兵衛の側でもそれを知っていればこそ、無理強いしたこともないままでいたが。

 「…こっちは?」

 火鉢の陰にもう1本。こちらは華奢な白磁の、花生けのように繊細な作りの細口の瓶子が見える。視線で問われ、ああと気づいて引き寄せがてら、

 「これも主人が持って来てくれたものでの。」

 夕餉についていたのと同じものだと言われた。ならどうして手をつけぬのかと、小首を傾げる久蔵へ。

 「甘い酒だ。水と変わらぬ。」
 「???」

 ほれと差し向けられても別なぞ判らぬと、小首を傾げて見せかけて。あ…と、その表情が止まったそのまま。匂いに何かを感じたらしく、目許を細めて興味を示す。試しにと、白磁の瓶子を傾けて、少しばかりを掌へ垂らせば。瓶子に負けぬ白い頬が寄って来て。くんと匂いを嗅いでから…朱い口許から紅の舌がちろりと覗く。肉の薄い舌はまるで、そこだけが別な生き物のように躍り、勘兵衛の掌のくぼみ、こぼされた酒のたまりへと やわく触れてから遠のいて。

 

どら

 



 「…。」
 「…大事ないか?」

 目眩いはしないかと案ずれば。頷きながら唇を舐め、甘いと呟いたそのまま小さく微笑った彼が。一体何を喜んだのか、勘兵衛には生憎と判らなかったが。そうかと微笑って、無理はするなと、間近になった耳朶へ囁く。そのすぐ傍ら、おとがいの陰には赤い痣。雪の上へとこぼれた椿の、花びらのよに艶やかで。そのまま上へ、この唇を合わせるまでもなく、同じ跡になると知っている。今度はこちらが取り留めなくも上機嫌になったのへ、久蔵が瞬きをしつつ不審がったが、

 「?」
 「いや、なに。」

 この冷え込みでは明朝は雪かも。そうなれば、表の生け垣の傍らでも同じ跡が見られるかも知れぬ。そんな不埒なことを年甲斐もなく思っただなんて。口には出せぬと自制が働き、その代わりのように苦笑が洩れてしようがなくて。そうこうするうち、自分で小さな猪口へと甘い酒を垂らし始めた連れ合いへ、あまり過ごしてくれるなと、じゃらしがてらに囁く傍ら。無音の夜陰へ、雪が降り積む………。





  〜Fine〜  08.1.27.


  *あああ、何か変な代物になっちゃったかも。
   勘兵衛様が好きで好きで堪らない久蔵さんというの、
   うんと意識してみましたら、
   好きが嵩じて何だか妙なお人になってしまったかも。(ううう…。)

   あらためまして、
   いかっち様、サイト開設1周年おめでとうございます。
   惚れ惚れするよな勘兵衛さまと可愛いキュウを、
   これからも描いてくださいませね?
   このようなへたれた代物になってしまいましたが、
   よろしかったならご笑納くださいませ。

                                 いかっち様へ、 Morlin.参る



  *追記。
   こんな珍妙な代物へ、
   素晴らしいカットをつけていただきましたvv (うひゃあ!!)
   あああ、やはり色っぽいです、お二方vvv
   ありがとうございます〜〜〜〜っvv


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