艶姿 疾風怒涛  (お侍 習作136)

       〜 お侍extra  千紫万紅 柳緑花紅より
 


        




 一応は渓谷跡ではあるけれど、荒野のど真ん中という、到底 順を追って発展したとは思えぬほど唐突な位置にある街だ。何とか発端をと探すなら、この乾いた土地に降って涌いた奇跡、思わぬ清水が涌いて出て、そこへ集落が出来たのが始まりと、そんな御伽が語られそうなところだが。実は実は、こんなところへ撃沈した弩級戦艦があっての爆心地の成れの果て。極秘の軍需工場があったらしいという説もあるが、今となっては真相は追えない闇の中。その折に ついでにえぐったらしい地下水脈があふれ出たのでと、流れ者やら落ち武者やら、行き場のない者らが集まるよになり。交易の途中で立ち寄った商人らが居着きもしと、そんなこんなで集落の体裁を取り始めたのが、十年以上も昔に終わった大戦の、末期あたりのお話だそうで。

  ―― そんな集落に居着いた者らの中、
      めきめきと頭角を現してった男がいた。

 縁故もなしの裸一貫、たった一人の一代で商いを始め。機転を利かせの、大勝負もしのと、様々に無謀もしたろう、賭けという挑戦もしたろうその末に。身代殖やして名前を上げて、この町さえも余燼で太らせ、気がつきゃ一番の顔役になっていた大商人。自身が差配を名乗りつつ、同時に設けたのはその傘下に組み主を何人か。商いを体系組織化することで、掟や物流などなどを統率しつつ、それと同時に自分一人だけを蹴倒せばいいって訳じゃあないという、頑健な屋台骨、一大ヒエラルキーを築いての保身も万全と、何から何まで周到に構えた男が栄えさせたその町は、虹雅渓といい。あちこちのアキンドらを統括していた“都”の天主にも認められたほどの交易の街は、色々と突発的な波乱を乗り越えながら、今もなお、ずんと栄え続けての、今や枢軸たる街の一つとして、遠来へもその勇名を轟かしているのだそうな。

 “まあ、街に住む身には、
  なかなか外からの評ってものは判りにくいものですが。”

 それでも今じゃあ、大戦後いきなり廃れたものが再び復活した“電信”が、遠い空の下での話もすぐさま伝えてくれるので。閉鎖的とも言えるほど、独占されてた情報は格段に減った。何にも知らないままだったから、一般市民が扇動しやすかった、支配しやすかったのだろう、誰か様らの思惑も絶えての久しく。今は…いろんな意味での過渡期の最中。目に見えての潮流が人々を混乱させるほど暴れているワケじゃあないけれど、何かが少しずつ変わってってはいるのは確かでもあり。統制の名の下に大きな組織や権力が立つか、はたまたそんな派遣を巡っての諍いが 再び撒き起きるのか。そんな先のことなぞ まだまだ判らない、混沌とした端境期でございまし。活気と精気あふるる荒野の桃源郷の、表のお顔への陽が陰り始める頃合いともなれば。宿を探す旅人たちをも招くよに、今度は下層からの甘い微熱が、天ツ風に乗り、躍り来る。

 「さて、今宵も幕が開くよ。」

 顔見世が始まる、さあさ急いでと。あちこちの妓楼で華やかな気配が さわさわ・ざわざわ立っているのが、町の辻々にまで匂い立ち。こちらは音曲自慢の芸妓衆の姐さんたちが、黒紋付きに愛用の三味線抱え。里の中央、大門通りへと居並び始める。このところは暮れ時も遅くなったが、それでもすっかりと暮色の滲んだ町並みを、軒に沿って居並ぶ灯籠やぼんぼりの明かりが柔らかく照らし。顔役の店の番頭さん、古参古顔の男衆が合図を出せば。灯籠に沿って居並んだ、お囃し衆の手になる調べ。夜の部が始まるのを知らせる“すががき”という三味線が一斉にかき鳴らされて。そして今度はそれを合図にし、妓楼の店先、張り見世格子の向こうには、紅に濡れた口許たわませ嫣然と微笑う、脂粉の香りもなまめかしい、いづれ麗しの太夫や新造。銀のかんざし、金の笄
(こうがい)、黄昏色の灯火に燦然と揺らめかせ、真っ赤な緋毛氈の敷かれたお座敷へ、自慢の美姫らが着飾って居並び。さて今宵もまた、地の底にうずくまる不夜城“癒しの里”が目を覚ます。

  ―― ひとときの永遠
(とわ)か、永劫の刹那か

 男と女の秘密の出逢いをこそりと紡ぐ、蜜夜が始まる運びと相なる次第…ではあるが。その始まりが、街を整備する労働者たちや流れ者やら相手の色街だったせいだろう、遊郭一辺倒な町だと思われがちだがさにあらん。置き屋や遊郭以外にも、小さな弓射て遊ぶ射的場や、他愛ない博打が楽しめる賭博場、土産物にという果物や花、菓子を揃えていたり、はたまた粋な小物や雑貨を扱う大小の店屋や、座敷の支度を万端整えてくれる茶屋。そしてそして、夜な夜な名のある商人らが、その大身代の栄えを喧伝するよな宴を張る、料理ともてなしが自慢のお座敷料亭なんぞも揃っており。

  ―― そう、女とねんごろになることだけの里じゃあない。

 名士や粋人が構える宴へ添えられるのは、花は花でも、芸事やお喋りで客を楽しませる一流どころの芸妓たち。ところどころに思わせ振りな艶も見せつつ、だが、野暮な露骨はいただけず、余裕の技量を見せるがモテる。豪気なだけじゃあない、そんな小粋なお遊びを嗜みもする、至って質のいいご贔屓が多いことから。そこでの饗応を受けることが誉れとさえ言われている、里でも一、二を争う店構えの料亭に、蛍屋という大店がある。五つほどの階層を構えており、装飾や看板はどちらかといや地味で、原色あふれるこの里にあっては落ち着いた雰囲気の印象ではある。それでも座敷は連日満席、予約がなかなか取れない人気の店で。料理にも手は抜かず、離れや座敷の佇まいにも繊細に気を配り。店の人間にも躾けが行き届いていて、怠けずのきびきびと、骨身を惜しまず立ち回る様は見ていて気持ちがいいと、こちらも評判。どれもこれもに上手の集うは、ひとえに女将の人徳のなせる技。

  ―― いづれの天女様か弁天様か、

 昔は伝説の花魁だった、その名を雪乃という聡明な美人で。若くして大分限に身請けされ、店を任されたものの、相手の主人が病で早逝。その後、女の細い双肩で、気丈にも頑張ったその結果が今の繁盛。男女のしがらみや商いでの栄枯盛衰、真っ当な奇麗事ばかりじゃあない世の常くらいは、こんなところに身を置いていて重々知ってもいるだろに。曲がったことが大嫌いな気丈夫で。故の苦労も多かったろに へこたれない、根っからの誠実な人柄と、それへ裏打ちされた優しさ厳しさに、年季の切れた女たちが自然と集まり、彼女の元で手仕事や教養を身につけちゃあ一人前になってゆき。中には居残り助けてくれる娘や若い衆らも後を絶たずで。薄っぺらな女将じゃあないからこその、人望集ったその中に、

  ―― 毛色の変わった存在が一人いて。

 困っている人を見捨てられずに拾ってしまう、そんな彼女の性癖から、ついつい拾ったその人物は、選りにも選って…何年も前に終わった戦の途中からを、生命維持装置の中でずっと眠っていたという変わり種。目覚めた当人からして、世の中がすっかりと変わってしまっていることへ呆然としてしまい。とんだ浦島太郎で、しかも物騒な“お侍”でもある青年将校。こりゃあ騒ぎの種にしかならないんじゃあと、周囲は相当危ぶんだのだけれども。何かしら思い詰めていたもの、雪乃が根気よく宥めたり賺したりして解きほぐし。どうやら…大切なお人の生死が判らぬことが、支えでもあり苦しみでもあるらしいのを見抜いてからも、特に急かしはしないまま、懐ろ広く見守っておれば。踏ん切りがついたか、それとも胸へ秘すことにしたものか、何とかお顔を上げてくれ。意外と器用な性分発揮して、玄人でもなかなか難しい幇間
(たいこもち)の役どころを引き受けると、野暮な成金長者の座敷へ上がっても、そりゃあ見事に座を盛り上げの、他のお客へも気持ちのいい夜を過ごしてもらう手管を様々にご披露し。見目の麗しさも手伝ってのことか、

  ―― 蛍屋といや 七郎次っていい男がいたねぇと、

 玄人衆へもご贔屓筋へも、あっと言う間にその名を広めてしまったのが、もうかれこれ何年前の話だろうか。そんな彼が、気がつきゃ雪乃の伴侶となっており。双親のどちらにも似て可愛いらしい、宝珠のような娘御までもうけていたもんだから。予測はあったが何もいかにもな美男美女がくっつかなくともと、その時だけは、世間の男衆たちが泣いた嘆いた喚いたったらありゃしない。丁度、差配の綾麿様のご養子が天主だか何だかに昇進しなさり、けれども非業の死を遂げた前後じゃあなかったか。結構大騒動だったらしいそっちの一件へは、季節の風が変わると同時にあっさり関心無くした連中も、こっちの事態にはいつまでもどこまでも大騒ぎ。よしか、女将をくれぐれも幸せにするんだよ。それと、決してとっとと逝んでもいけない。でないと、後釜狙ってとんでもねぇ奴が現れかねねぇ。例えばこの俺みてぇにだ…なんてな、似たような脅し、いやいや、祝辞をたんといただいて。それらが落ち着いてゆくにつれ、座敷の看板だった…剽軽で憎めない、案外と物知りで頼もしくもあった幇間の七郎次はもういないんだねぇなんて。惜しむ声まで出たのが、なかなかに可笑しい余談だったりもしたほどで。

  ―― こういう商売の男主人なんてのはね、
      女将が床の間においてしみじみ眺めるだけのもの。

 まま、それは口説かれたり おだてられたりするときの冗談口だとしても。酒の上での騒ぎがちょっと大きくなったくらいで、いちいちむくつけき野郎が睨みを利かしに出て来ちゃあ、せっかくの興も冷めての艶消しもいいとこだ。余程のこと性分
(たち)の悪い嫌がらせへは、他のお客の迷惑にもなるからと、下働きの男衆なぞが出て来てつまみ出すこともあるけれど。多少の悶着くらいなら、女将の技量で収められなきゃあいけない。亭主持ちでもそうとは思えぬ艶冶な美人。そんな女将を目当てに来る狼たちにすりゃ、

  ―― なぁんだ、男の威光あっての気丈な女将か…じゃあ、
      百年の恋だって冷めちまうから。

 だもんで。野暮な素浪人がご法度破って刀をすっぱ抜いたとかいうような、女の細腕じゃあどうしても無理な場合だけ、腕に自慢な主人が出て来て、えいやっと畳むんでさ…などと。自分も含めてという言い回しで、世間一般の旦那衆のありようとやら、語っていた七郎次ではあったけれど。

  ―― いやいや、どうして。
      幇間時代の彼をば惜しむ、太夫や新造も数多いるのはどうしてか。

 愛想がよくて愛嬌があって。打てば響くの例えそのまま、古い謂れにまつわるような小難しい話へも、生娘がお顔を赤らめるよな軟らかい話へも、即妙な受け答えの出来る剽軽で明るいところがウケていた彼だったが。何かのおりにただ独り、黙って月など見上げている姿の、何とも麗しくも存在感のあったことか。玲瓏透徹、実際の年齢が判らぬくらいに瑞々しい美形で、手入れのいい金絲が色白な肌に映え、宝石のような青い瞳は、この下層からはなかなか望めぬ、よく晴れた空のように透き通って美しく。甘い癖のある、通りのいい声は、低められるとぞくぞくするよな色香も凄みも合わせ持ち。伸びやかな肢体も均整が取れていて見栄えがしたし、六尺はあろう長身を、そうと思わせぬ身ごなしの優美なこと。ただ柔らかなだけじゃあない、機敏で切れある所作ごとを、そりゃあ自然にこなせていればこその端正さであり。しかもしかも、それだけじゃあない。単なる幇間だったころは、女物の羽織に裾すぼまりのたっつけ袴。そりゃあ軽快ないで立ちで、お座敷での芸事には届かぬまでも、にぎやかしのおどけの舞いなぞも披露しの、そりゃあチャキチャキ動いては座を沸かせた名人だったが。腰の据わらぬ軽佻浮薄なんかじゃあなくの、突いても倒れぬ強靭さ。乱暴なことで有名な取り巻き連れた客の無体へ、たった一人で接待し続け、いちゃもんついでに振り下ろされた刃の切っ先、義手の左で難無く受け止めて見せると、

 『鋼の腕でも技がありゃあ落とせるんだ。…あんた大したこたぁねぇな。』

 静かに低めたお声で言って。懐ろの匕首の一閃のみで、そやつがひけらかした何とかいう銘刀、真っ二つに斬り折った凄腕の主でもあって。そのまますかさず“おイタはダメよ”と、チロリ見据えた視線の鋭さに背条を凍らせ。やんちゃな若旦那がすごすごと、嫌がらせの手を引いた逸話も山ほどあって。ただの拾われ者から居候、追い回しにも等しい幇間を経て、今や蛍屋の男主人へと格が上がった身へと向け、

  ―― 美人女将を射落とした、男の身での玉の輿

 表立ってはそんな言いようをされてもいるが、彼ほど文句のつけようがない後添いもおるまいと。狼連の大半は、重々納得してもおり。よく出来た女将がいつまでも寂しげな独り身なのを、それぞれにこそり案じていた店の者らにしてみても。最初こそ嵐を呼ばぬかとの憂慮もなくはなかったものの、腕っ節も確かで人柄も申し分のない人物と判った七郎次が、彼自身の待ち人と再会果たしたその後もそのまま此処へと居着いて、女将と連れ添うてくれたこと、どれほどに喜んで歓迎したことか。目端が利いて、場の空気を読み取るのも得手ならば、ちょっとした不安の一つや二つ、先行き待っての懐ろへ、ひとまず預かる度量もあって。正義正道よく知る実直さも持ちながら、こういう里にはギリギリ必要な、迎合とかいう苦汁も飲める。気さくだけれど頼もしく、周到さも柔軟さも持ち合わせ、知れば知るほど奥深い彼へは、家人の皆、古顔・新米 選ばずの誰もが こぞって恭順・傾倒したものだった。

  ―― そんなこんなで。

 実は彼らにこそ、大きに関わりのあった“天主謀殺騒動”もすっかり忘れ去られて幾とせか。大陸のへそのよな位置と流通物資の豊かさから、今や どこへ行くにも通らにゃならない街とまでなった虹雅渓は、相も変わらず人の行き来や物流に潤い。その余燼を抱えたお大尽の訪のいで、こちらもまた大潤いの大繁盛、忙しさに日を送るのが癒しの里。例に洩れずで、ここ蛍屋も、今宵の宴の支度にと、女将を筆頭に家人の皆様が上を下への大忙しだ。

 「それぞれの座敷の体裁は判っているね?」
 「お越しのお客様への刷り合わせのほうは?」
 「みやこどりの間のヤブ様は、確かソバ粉が食べられぬ。」
 「そうそう、それと絵師の皆様の集まりに、西の大使様が同席なさるが、
  教えの禁忌で魚を食うてはならぬのだとか。」
 「え? 肉がダメなんじゃないのかい?」
 「俺もそう思って確かめたが、魚がダメなんだと。
  西は西でも魚はいなくて、神聖とされてる土地らしい。」

 そんなお声が飛び交う厨房に、

 「長月の間の掛け軸は、雪囲いの牡丹にしてちょうだい。
  そうそう、そっちの白い牡丹。
  それから違い棚の焼き物は、一輪挿しのタンバを。」

 それぞれのお部屋の調度を整える、女将の采配の声も聞こえて来ており。

 “今でこれじゃあ、間近い桜の花祭りは、もっとてんてこ舞いになるだろうね。”

 そうなる前の段取り、書庫や倉庫の整理や食材の手配を、ツタさんや留さんと早めに打っておかなきゃだなあと。裏方の も一つ裏、食材やら調度やらを取引する先との交渉役の旦那様。自宅にあたる母屋の居間にて、そんな先の算段をぼんやりと立てておいでなところへ、

 「ととさま、ととさま。」

 軽やかで微妙に舌足らずなお声が、まろぶようにして駆け込んで来た。おやつの時間のはずが、姿が見えなくなってたこの家の娘御。そう遠くはない外の方からお声はしていたので、何かに誘われ、途中で立ってってのどうやらお庭にいるらしいと。そうと断じて待っていた、まだまだうら若い父上の姿を見つけ。そちらも大急ぎで戻って来たらしいのだけれど。

 「カンナ、おやつを放っぽってどうしたね。」

 当家のお抱えも同然の、数名ほどいる板前さんたちのうち。甘味を得意とする名人が、忙しい中、主人夫婦の宝物にして唯一の幼い家人のためにと、特別に作っての取りおいてくれた生菓子が、卓の上の皿に半分ほど残されており。お嬢ちゃんの拳ほど、白霞を透かした緋色なのも柔らかそうな、梅の形をきれいに整えられてある練り饅頭。いつもは平らげるのがどうしたと。小粋な紬のお膝を慕っての、間近にまでをやって来た小さな姫へ、大事なことだと先に訊く。すると、

 「〜〜〜。」

 途中で中座したからか、それとも食べものを残したからか。お行儀が悪いと叱られているのは判るらしくて。ふくふくとした頬から稚
(いとけな)い笑みを引っ込めると、自分の足元、青々とした畳を見下ろし。立ちん坊のまま もじもじし出す小さな娘御。母上ゆずりのつややかな黒髪が、さらりさらさら、頬へとこぼれるほどにうつむいてしまったものの、

 「あれあれお前さん、そんなに叱らないでやって下さいな。」

 そんな二人のいる居間の、お廊下を向いてた襖が開いていたものだから。通りがかった雪乃にも、彼らのやり取りは筒抜けで。苦笑混じりにそんな助け舟を出してやる母のお言葉に、パッとお顔を上げたお嬢ちゃま。戸口に膝つき、指先揃えて襖を閉めて、それからいつもの定位置へとつく母を待ち、すぐの傍らへと座り込む。小さな身をなお縮めての、頼もしい楯が出来たぞと言わんばかりの擦り寄りようと隠れようが、何とも言えず愛らしかったので。夫婦そろってついつい苦笑し、さてそれから。

 「おやつを途中で投げ出したのは、確かによくないお行儀ですが、
  ちょっとそのお菓子、お前さんも一口食べてやってくれませんか?」

 大人の目にも いつもながらそりゃあ見事な造作に色合いの逸品で。だからこそ、この扱われようはどうかと感じた七郎次でもあったのだが。
「これをかい?」
 わざわざ意味のない遠回しを言うような雪乃じゃあない。それに、カンナだって 顔見知りの板前さんが作ってくれたおやつを、そうそう無下にはしないはず。そうと思い出したお若い父上、う〜んと表情引き締めると、濃色の卓の上へ白い腕の陰を映しつつ、言われたままに手を延べてみる。しっとり重みのある生菓子には、幼いながらも作法に則り、黒文字の楊枝で切り分けて食べた跡が残ってて。それを直に摘まみ上げたそのまんま、残った部分の半分ほどへ、直接 口をつけた七郎次だったのだが。

 「………………お?」

 じぃっとこちらを見つめる、二人の眼差しへうんうんと頷いて。そっか成程とようやく合点がいった模様。というのが、

 「何だろね、何でだろ。」

 微妙なところで何かが足りてない。深みでもなく甘さでもなく、これという言葉が浮かばぬが。でもでも、常のあの、慣れてさえいる安心の風味と、ほんのかすかな差異があって。さほどに濃い味の甘味ではないからこそ、その微かな違いは結構な違和感となってしまい、
「和菓子や特別な風味づけに使う“和三盆”というお砂糖も、それから特別な浜から仕入れてるお塩も。今、うちの厨房では底を尽きかけているんです。」
「そうかそれで。」
「カンナにしてみりゃあ“何か変”なままでは食べられなくなったんですよ。」
 口が肥えるのも困ったことだねぇ、と。自分の傍ら、ぎゅうっと身を寄せる小さな娘御を覗き込むよに見やった母御。そんな二人へ苦笑を向けて、残りの半かけをひょいっと自分の口へと放り込み、きっちり食べてしまったお父上、

 「事情も聴かぬうちに叱ろうとしたのは済まなかったな。」

 しかも、こんな微妙なことが理由では、大人相手に何と言ったらいいのだろうかと、随分困ってしまった彼女だったに違いない。怖ず怖ずと顔を上げ、目許たわめて微笑ってくれた父上へ、ホッとしたよに やっとのこと笑い返してくれたお嬢ちゃんだったが、

 「…にしても。どうした事態だ、そりゃあまた。」

 多少は敏感というだけで、カンナは元より七郎次にしても“玄人はだし“とまでは行かない舌であり。そんな二人が気づいたということは、随分と大変な事態なのではないのかと。言わずもがななこと、視線を振ることで伝えれば、

 「ええ。板さんたちもね、
  何とか努力して工夫を凝らしてくれているのだけど。」

 丁寧な所作にてお茶を淹れ、茶卓に載せてのどうぞと勧めてから。ふうと悩ましげに息をつきつつ、細い肩を落として見せた雪乃が言うには。ここ何日か、市場への荷の入りが随分と品薄になりつつあるのだそうで。この街は言わずと知れた荒野の真ん中。遠来の食材が豊かだからこそ、ここの自慢のお料理も堂々と供せるというのが当たり前な順番ごと。それだけに、判っちゃあいるけどどうにもならぬと。

 「ウチはまだ、在庫が何とかありはするからマシな方で。
  おせんべえの菱屋さんでも、
  小麦粉や、綿の実から取った油が心細くなってるとか。」

 癒しの里名物の、ニッキの風味が後を引く煎餅が評判の焼き菓子屋。そんな大店までがそれというのは、成程 尋常ではない事態に違いなく。

 「警邏隊の兵庫さんにも、それなりの報告は届いているはずなんでしょうけれど。」
 「う〜ん……。」

 端正な白面を物想いの感慨に沈ませて、何をか考え込む七郎次だったのへ。あら、もしかして余計なことを突ついてしまったのかしらと、細く整えた眉を下げ、こちらさんは別な意味からの困ったようなお顔を作った雪乃であり。どうしたのと見上げてくる一人娘の、そこが殊に夫そのままの青い瞳を見下ろすと、何でもないのよと優しい仕草でかぶりを振った。




NEXT **

戻る