コーヒーブレイク2003

トラの尾 12/26     寒いと思ったら雪  12/19     ドリアン 12/8
ゆず 12/5    蜂谷柿 11/26     シャワーが使えない
のんびりした後は         肩  その後              穏やかで・・・
同窓会のお知らせ  10/30   三日月型の石灰?          健康診断       花嫁
茗荷
                 われもこう                散歩 9/27
秋晴                 敬老の日                お墓参り
思い出  その3          もぐら  その後            庭で花火観賞 8/2
一寸変えました          我が家の庭がたいへん        「ガウラ」って? 6/5
ホームページを開いて      この頃の母 6/17          悩みの種
出かけてきました 6/23     思い出 その1             思い出 その2 

トラの尾
  12月26日
 トラの尾につぼみがついて、どのくらいたったのかしら。
ついに、花が咲きました。優しい香りがします。花の付け根には
水滴?がついています。きらきらしていてとてもきれい。



寒いと思ったら雪
  12月19日
 この辺りでは1年のうちに雪が降るのは、2、3回しかありません。
今まで暖冬だとたかをくくっていましたら、突然の寒さ。
みぞれ交じりの雪が降ってきました。雪が降ったら、ゆずも凍えて
しまいます。あわてて、ゆず取りです。大きなリンゴ箱にいっぱいとれました。
 
冬至までに近所の方にもおすそ分けです。
でも、まだまだたくさんあります。
ゆずジャムに挑戦してみようかしら。それとも、ゆずの甘辛煮?
材料は豊富ですから、お風呂だけではつかいきれません。

ドリアン  
12月8日
 夜、次女がお土産を買ってきたといいます。
近頃のスーパーは24時まで開いています。仕事帰りには
便利なようです。

そのスーパーで売れ残りの?ドリアンを買ってきたのです。
テレビではその匂い?臭い?のすごさは聞いていますが、誰も
実際を知りません。次女もシンガポールで食べたいのに皆に
反対され、どうしても食べたかったようです。
夕食が終わり、いよいよ・・・

封を切ったとたん、
”やめよう〜!”  ”やめて〜”
一瞬のうちに、なんともいえない臭いが充満。
”外、外・・”
慌てて次女は袋を持ったまま、さむ〜い外へ。冷凍保存バッグに入れ
外に放置。

腐ったたまねぎの臭い、私にはそう思えました。
長女は卵の腐った臭い。夫は硫黄の臭い。どれも、家の中には
入れたくありません。

やはり、次女は今回も食べる事は出来そうもありません。


ゆず  
12月5日
 今年もゆずがたわわに、なっています。
家では使い切れません。皆さんにもらっていただきます。
なかには、楽しみに待っていただける方も、います。通りすがりの、
お顔しか知らないかたも、みえます。ゆずをとうしての、お知りあいです。


ゆずを酢の替わりに、今日は蕪の甘酢付けです。
冬至の頃、近所の方にまたおすそ分けします。


蜂谷柿
   
11月26日
 こんなに暖かいと、干し柿には良くないのですが、採ることに
しました。おおきな干し柿が食べたくて、父が次女と植えたものです。
18年近くなります。
夏の天候が良くなかったのか、数は極端に少ないけれど、大きな
渋柿がなりました。計るとどれも300gを超えます。


1ヶ月もすると、干し柿が出来上がります。
でも、この干し柿はカロリーもカリウムも高いのです。
母には、あまりすすめられません。が、母は大好物です。
今日も私がむく柿をじ〜っと、見ていました。一ヵ月後も憶えて
いるかしら?

シャワーが使えない!
  11月18日
 築30年の家についていたシャワーがとうとう壊れてしまいました。
大事に、大事に使ってきましたが・・・
蛇口を取り替えるくらいで何とかなると思っていました。
ところが、管の径が違う、構造が違っている、とすんなり、つきません。
こうなったのが、14日の事。

いつもの大工さんにお願いして、18日の午後、母の入浴までに、
全てを、突貫工事です。タイルを切る音やら、人の出入りで落ち着き
ません。

おかげさまで、ヘルパーさんの見える頃には、タイル部分にビニールを
貼って、使えるようになりました。
”ここの、おばあちゃんをお風呂に入れるんだから、
はよ、やらんかい!”
大工さんの乱暴な言葉にも
”わかっとるぅわ〜!だから、急いでやっとるがぁ〜!”
気さくな、職人さんばかりです。

母は幸せです。温度調節がしっかり出来たシャワーで、御入浴・・・

のんびりした後は
  11月15日
 母をショートで預かって頂いて、甥の結婚式に京都まで行ってきました。はじめて、
のぞみにも乗りました。名古屋から37分、遠出のつもりだったのですが、気が付いたら、
早かった。

着物やら、引き出物を夫に持って帰ってもらい、手ぶら状態で長女とホテルへ・・・
(最初は夫と泊まるために必死でホテルを探したのですが、夫は用事が出来て日帰りに。
キャンセルはもったいないので、長女が一緒に泊まることになった。)

娘と二人で泊まるのも初めて。食べたいものを食べ、言いたいことを言い、気楽です。
長女には随分助けてもらっています。
二人の慰安旅行になりました。
おまけに、仕事の関係であまり母と関われない次女が、宿泊費をプレゼントしてくれました。
あ〜!なんて幸せ。
片付けも、母のこともなあ〜んにもなし。ただ眠るだけ。
こんなことって、何時以来?思い出せません。

おかげで、疲れることもなく、リフレッシュできました。
お土産も、荷物も長女が持ってくれましたから、肩の痛みも
すっかり忘れて・・・


のんびりした後は、かえって母を看るのが疲れるのでは、と思っていました。でもそんなことは
、ありませんでした。

母も、私も良い調子です。


肩 その後
   11月5日
 重さはなかなか取れないのですが、じっとしていれば痛くないし、
夜、痛くないのが、一番うれしい。でも、まだ寝返りが出来ないんです。
今日、整形外科に行ってきました。
”腫れの引きが少し残っているので、炎症がまだ、治まって
いないんでしょう。動かしていませんか?”
”・・・少し、日常のことは・・・”
”動かさないほうが早く直りますよ。”
それは解っているんだけど、細かく、説明するわけにもいかず。注射を
してもらいました。

注射を、待っている時、なにげなくカルテを見てしまいした。
(肩、動かしている。)
あまり、きれいな字ではありませんでしたが、そこだけ、日本語で
書いてありました。
少し・・・って言ったのに〜・・


穏やかで・・・  11月1日
 曇り空の予報が外れて、とてもよい天気です。
布団を干したいけれど、無理は厳禁と諦めました。
この空を見ていると、何にもしないのは、もったいない。そこで、娘に
母を庭に連れ出したいと持ち掛けました。一人では、ちょっと、負担が大き過ぎ。

早速、パラソルを広げ、日陰に母を連れ出しました。むっくも大喜びで走り回ります。
それを見て、母も笑っています。
”あの、紫の花もいいねえ”
”あれは、ミントだよ。”と言って、葉っぱを鼻に近づけると、
”この臭い、あんまり、好きじゃない”
”でも、いい匂いよ”
”そおぉ〜?”
この頃、会話が良く成り立ちます。調子がいいんでしょう。

娘に、ここで、お昼を食べないかといわれた母は
”それもいいわねぇ〜”
 ”何にする〜”
”あそこに行ってくればいいじゃない。”
 ”?どこ?”
”お寿司でもいいじゃない”
またまた出ました、お寿司。
”今日はのり巻きにしようね。サラダまき?で、いいよね。”
先制攻撃です。

サラダまきを、ぺろっと平らげると、眠くなったんでしょう。だんだん、
体が傾いてきます。ベッドに入るとすぐに眠って、しまいました。
午前中、2時間外にいたんですから・・・


同窓会のお知らせ  
10月30日
 母に小学校の同級生から、同窓会の案内状が送られてきました。
毎年、この時期になると、送られてきます。
これで最後になるかもしれないという主旨が書かれて、5年は経ちますが
まだ、続いています。
透析をはじめてからは、ずっと、欠席です。会が終わると同級生の方から
お電話を頂きます。毎年同じ方なのですが、毎年、私は同じ説明をしてい
ます。すると、毎年同じ答えが返ってきます。

女学校の同窓会も、以前は毎年ありました。お友達が亡くなったりすると、
電話連絡が入って、出かけておりましたが、何処かでとだえてしまった
ようです。風の便りで、お友達が亡くなったことを聞くこともありますが、
私は母に知らせてはいません。


三日月型の石灰?
 10月27日
 2,3日前から肩が重かった。確かに・・・
それが、いっきに、肩の痛みに変身。脇をしっかり固定していれば
何とか痛みも遠くなるのですが、手先まで、じんじんした痛みが続
きます。夜、これでは眠れないだろうと思い、痛み止めを飲む、頭痛薬。
少し、楽になりました。でも、寝返りを打つたびに、目が覚めます。
それでも、母のことを何とか家族で介護できる体制ができていたので、

ゆっくり寝ることができました。

私がどんなに痛くても、透析を休むわけにはいきません。

”石灰沈着性滑液包炎”と診断されました。レントゲンで見ると、肩の骨の
上に三日月型の石灰がはっきり写っていました。こんなところに、石灰が
たまるなんて・・・金でも貯まるんならいいのに、石灰じゃあねえ・・です。

いつも、送迎をしてくれる、介護サービスがお迎えをしてくれることになり
ました。ケアマネさんの手配です。入浴介助も一緒にお願いすることに
なりました。
母を送ってきてくれた介護サービスのかた、ケアマネさん、そして、レンタル
会社のかたが集まって、入浴のこと、移乗のことを考えてくれました。

母が私の手から少しずつ離れていきます。でも、とても自然です。

健康診断の報告、コレステロールが高めでしたが異常はありませんでした。
介護者の健康は何ものにも替えがたい、誰でもですが・・・何かあるたびに
おもいます。

健康診断  
10月17日
 1年に一回の健康診断。イヤだなぁと思いつつ、出かける。
公的な検診ですが、いつもお世話になっている内科医院でできます。
母もお世話になったところです。
”お母さんどう?”といつも聞いてくれます。

”糖尿病の検査、しっかりやっておこうねぇ。”
やおら、計算機を出して、計算すると
お〜肥満だよぉ〜。”
”はい、自覚してますぅ〜。
”好きなことして、好きなものだけ食べて、ぽっくりいきゃあいいけど、
なかなかそうは、いかんでね。ぽっくりいくには、健康で長生きしなきゃねぇ。
それには、摂生しなきゃいかん。”
今の私には重ーい言葉です。

この先生、私と同じ年齢なんですが、いつも、自分に言い聞かせるように
、お話します。特に、体重のことになると、
”太りすぎはいかんよぉ〜”
何年言われているかしら・・・
よーく考えたら、この先生、初めて診ていただいた時から同じスタイル。

自己管理に、自信あり!、なんだ。




花嫁  
10月12日
 姪の結婚式に家族でおよばれしてきました。夕方からの結婚式でしたから、
夫はタキシード、久々に家族そろってドレスアップです。

お祝い事に親戚が集まるのはいいですね。にぎやかに、あっという間に
時間は過ぎていきます。でも、何より良かったのは花嫁になった姪の表情が
今まで見たことないくらいに輝いて美しかったことです。
幸せのおすそ分けをいただいて、帰って来ました。

51階での披露宴、夜景がとても綺麗でした。母のこともすっかり
忘れ、携帯を確認するのさえも忘れていました。

おばあちゃん、ゴメンです。


茗荷  
10月7日
 茗荷は7月頃1回収穫をしています。秋にも収穫が出来るとは思い
ませんでした。ゆずの下で葉を茂らせていました。

それがどうでしょう。
たくさんの花?が咲いています。とっても嬉しい気分です。2度、おいしい
気分です。。

早速、酢漬けにしました。湯どうしした茗荷を甘酢入れると、ほのかにピンク
色になっていきます。やさしい色です。柔らかくて、美味。癖になる味です。
”茗荷を食べ過ぎると物忘れをする”と亡くなった父が話していた事を、
思い出しました。定かではありませんが・・・

年を重ねるごとに、茗荷が好きになります。これは、危険信号?
なんでしょうか。

われもこう  
10月1日
 あんなに元気だったわれもこうが、冬枯れのように葉が枯れていく。
無理があったのかなあ。山野草を自宅で育てるのは難しいのかもしれない。
ちょっと、しょんぼり・・・でも、それにしてもおかしい。

茎をそっと持ち上げて見ました。ごっそりぬけてしまいました。???
鉢をひっくり返すと、いました、いました。カナブンの幼虫です。根の隙間にも
入り込んでいます。1ぴき、2ひき、3びき、・・・十数匹の幼虫に根はしっかり
食べられてしまいました。

これで、今年の花は絶望です。
でも、ようく見ると次の芽が出かけています。
来年のこの芽に希望をつなごう、です。


散歩  
9月27日
 我が家の前は、散歩コースになっています。以前は毎日のように出かけ
ていましたが、最近母と散歩に行っていません。雨が降ったり、暑かったり。
でも、今を逃すと・・・慌てて、洗濯物を干し、散歩へ・・・むっくと娘も一緒です。

風は涼しいのに、日に当たるとちょっと、暑い。
カヌーの練習を見ながら、母も何やらおしゃべり。
むっくは暑くなって、ちゃっかり車椅子の母の膝の上です。落としてはいけない
と思ったのか、母にぎゅっと抱きしめられむっくは窮屈そうです。でも、
そこは犬、上手にすり抜けて、座る場所を確保。

なかなか、良い光景でした。


秋晴れ  
9月22日
 


すがすがしい秋の空、久しぶりです
庭で草を取りながら、ふと空を見るとなんと・・・まっ青。吸い込まれそうなんです。
しばらく見とれてしまいました。
思わずデジカメで撮影。映っているのは青だけ。他はなーんもなし。
時々、なんでもないものに感動しちゃうのは、年齢のせい??


敬老の日  
9月15日

地区のご招待は、今年も欠席です。
午後、役員さんが記念品を持ってきてくれました。
わが町からは5000円の現金と和三盆のお菓子、地区からはカートの
付いた買い物カゴを頂きました。因みに、昨年は5000円と飴、フリースの
ベスト、マフラーでした。母は歩けませんから、買い物カゴは使えませんが・・

近くのスーパーに同じ買い物カゴが集まったら、一寸愉快ですね。
大きく名前を書くことをおすすめしたいです。

お墓参り  
9月11日

久しぶりに母とお墓参りに行ってきました。
一人では連れて行けません、娘の休みと透析に合わせてのお出かけです。
車椅子でいけますが、彼岸になると、墓地も混雑します。混み合うのを避けて、おまいりです。

我が家のお墓は、高速で1時間半位行った所にあります。母のお尻が
いたくならないか心配でした。それと、この暑さ。これから夏が始まるのでは
ないかと思うほど暑いのです。そこで、黒い大きな雨傘を差して日よけです。
それまでしてお参りなんてしなくても、と思われそうですが・・・

娘と大急ぎでお墓のお掃除、母は傘を一人で差して待っています。
”おばあちゃんお線香あげたから、なむなむして・・”
車椅子から、母はそっと手を合わせました。本当に、そーっとです。
私は母が父のことを覚えているだろうかと思いましたが、聞かないことに
しました。

帰り、私の妹の家により、そこで昼食と休憩です。お布団を出してもらい、
横になって休憩したのがよかったのでしょう。ほどほどの疲れで帰ってこれ
ました。もちろん、夜は高いびきです。


思い出 その3

 

長女が6歳の時に描いたもの。偶然、見つけたものです。
父が亡くなって、16年。17回忌を5月に営みました。
父は亡くなるまでに、2回入院をしています。1回目はその1に書いた時、
2回目はそれから13年ぐらいたったころでしょうか。
 
気持ちが悪くなり、食事がとれなくなりました。ご飯の炊ける臭い、子供の
食べているウインナの臭い、みんな吐き気のの対象になりました。そして、
足にはむくみがでてきました。

主治医の先生の指示で入院となりましたが、ほぼ1ヶ月の間、食べることも
飲むことも出来ませんでした。点滴だけが頼りでした。
口から入るものなら何でも食べてもいいよ。と言われ、カロリーの高いものばかり病室に運びました。
あんなに好きだったアイスクリームもプリンも食べることが出来ず、体は痩せる一方です。

”何か食べたいものなあい、何でも買って来るよ。”
それまで、吐きたくても吐くものもなく、生唾ばかり出していた父が、
”うぐいす餅でも食べたいなあ”と、言ったのです。
 お餅では多分食べられないだろう。そう思いながら、病院のすぐそばの
和菓子屋さんで買い求めました。

その時の父の表現によると、うぐいすもちを一口食べた時、のどの奥が
”コクン!”と音がして、食べれたのだそうです。私たち家族は半信半疑
でしたが、それからの父は目覚しい回復でした。

食べることが出来れば、早速、食事制限です。アイスクリームを思う存分、
食べておけばよかった。と、後で随分聞かされました。
何も食べずにいたことで、視力が弱まり、髪の毛も本当にうすくなりました。
栄養状態が回復すると、髪の毛は回復し、訪れる人に自慢していましたが、
視力はなかなか回復しませんでした。

わがままの父はこの入院が、よほど懲りたのか、父は今度こういう風に
なっても入院はしたくない。入れてくれるな。と、いつも言うようになりました。

ベッドが硬い。からはじまって、布団がおもい。まくらが悪い。味噌汁が
ぬるい。ご飯がかたい。生活全てがいやで、その度に私たちは、軽い布団を
探し、枕を探し、わがままな父につきあっておりました。

今度は、入院はできないだろう。家族みんながおもいました。

それから6年後、夜中にトイレに起き、”低血糖かもしれない”と母を起こし
ました。母が作ってくれた砂糖湯を飲み、そのままあの世へ旅立ってしまい
ました。嫌いだった入院もすることなく、父らしい最期でした。70歳でした

もぐら その後
 
なかなか出て行ってくれません。確かに、音のするほうにはいきませんが
庭の隅のほうで、相変わらず、モコモコやってます。まだ、餌もあるのかなあ
うーん、どうしようです。困った、困ったです。どなたか、お知恵を貸してください。


 庭で花火観賞 8月2日

 我が家の直ぐ前で、花火が上がります。地域のお祭りにしては盛大で、
7時半から1時間15分、花火が上がりました。毎年、母も楽しみにしてい
ます。お腹にまで響く花火の音は、母にはいい刺激です。近頃、めっきり、
ことばが少なくなりましたが、それでも
”ほらあ〜”と目を輝かせていました。
夜の涼しい風に吹かれながら、良いひと時を、過ごしました。

 一寸 変えました
パソコンを触り始めて、ちょうど、1年になります。解らないことだらけで
いつも夫に教えてもらっています。

いつも不思議に思っていました。
日記などを付けるとき、日付けが新しいものが上にきて、古いものが
下に。上に書き足すことなんて、おかしいと思い、下へ下へと、書いて
いったのですが・・・言っていることが解りますか?
 
今ごろになって、私が間違っていたのが良く解りました。
ですから、上に書き足していくことにしました。月日がずれますが、ご容赦
願います。これで、めんどうな手間が省けます。

声を出して、笑ってやってください。
   
 我が家の庭がたいへん

 突然おきることっていろいろあるものです。うずらの小屋のまわりを
モコモコ、バラの木の横をモコモコ、花壇の周りを一回り。かいずかいぶきの
垣根を一直線に・・モコモコ モコモコ 見事!と言うほか、ありません。
もぐらも見たことないけれど、トンネルだって久しぶり。小学生以来かな。

あくる日、トンネルは八手の木の周りにも現れ、竜のひげを押し上げ砂利が
引かれた玄関まで伸びていました。
 ようく見ると、みみずのいそうな場所にトンネルを作っています。餌を求めて
我が家に来たのでしょうが、ちょっと迷惑です。
そこで園芸店に相談してみました。
”捕まえると、あと困るから、逃げていってもらいましょう。”
なるほど、そのとうりです。

そこで”もぐガード”というものを購入。1900円也。3分間毎に音が鳴ります。
その器具を地中に埋めます。耳の奥にまで響く音は、埋められたとたん、
消えてしまいました。これで6ヶ月の間、我が家の庭を守ってくれるはず!?
です。


 6月5日
「ガウラ」って?


私のハンドルネーム「ガウラ」は花の名前なんです。
いかめしい名前に、似合わずやさしい花です。別名・白蝶草といいます。
あまり目立たないのに、他の花と一緒になるとその可憐さが、際立つのです。
葉は枯れますが、冬の寒さに耐え、夏の暑さにも耐え、初夏から秋まで、
花を咲かせます。とても丈夫で、私のお気に入りです。

ホームページを開いて 
 母のことを、ホームページにするのには、少々ためらいもありました。
でも、誰にも話さなかった自分の気持ちを、文章にすると、不思議と穏やかな気持ちに
なれたような気がします。気持ちのよい風にふれたような・・・ちょっと、気取りすぎかな。
鬱憤晴らしとか、ストレス解消とか言ってはみるものの、一番よかったのは、私自身が
母と自分を第三者として、ホームページで見ることができたことだと思います。

こんなに、多くの方に読んでいただけるとは、思っていませんでした。
ありがとうございます。暇に任せて、更新していきたいと、おもっています。

               
このごろの母  6月17日
 骨折の退院から、7ヶ月が経ちます。相変わらず立てません。
正確には立とうとしないのですが、でも、体の調子が良い時(私の判断で)は
、少しだけ足に力を入れます。私の掛け声「立つよー。」にあわせ、
立とうとするようになりました。少しの間でも立っていられれば、ズボンをはかせたり
するのに、楽なのに・・・つい、欲を出してしまいます。

 姪の結婚式の日、デイサービスに出かけてもらいました。4時半頃帰宅。
私たちが帰ってきた9時近くまでは、娘たちが面倒を見てくれました。結局、二日続けて
デイサービスのお世話に。体力の心配をしましたが、心地よい疲れだったのか、夜は、
いびきをかいて寝ていました。ほっと一安心です。

あくる日は、また透析ですから、母は多忙です。一日ぐらい、休みたいと、思うときが
あるだろう、と私はおもっています。


悩みの種
 もともと便秘気味の母ですが、透析を始めてからは、尚いっそう便秘に悩まされています
一日の水分量、500ccでは、朝一杯、冷水を飲む。ともいかず、薬に頼っています。
 骨折をするまでは、さつまいものサラダを作ったり、ヨーグルトを食べたりと、
食事でなんとかコントロールしていたのですが。運動らしい運動をしていた訳ではないのに
、立つということだけでも、腸は刺激をうけていたようです。
「ウンチでたぁ?」は、我が家の挨拶代わりです。
                     
出かけてきました  6月23日
 高校の同窓会に、出かけてきました。
母位の方から、私より若い方まで、100名位の集まりです。美しく年を重ねておられる
先輩方に、刺激を受けてきました。

ただ、私と同学年の方たちは、親の介護の話です。介護をし終えた人、20何年も前に
見送った人、まだまだ、お元気な両親がいらっしゃる方。そして、私と同じように、
今介護中の人と、どこかで介護に関わっている人ばかりです。それはそうですよね。
少なくとも2人の親はいるのですから。 

でも、思いました。今介護している私は幸せだと。20年も前に介護された方は
十分な介護製品のない中で、がんばってこられてきたのですから。いろいろな
工夫をされても限りがあります。彼女の話を聞きながら、思わず頭が下がりました。

前日、どこか気持ちの中に、疲れがあったのかな。ドタキャンしたくなるような、
気持ちだったのですが、出かけてよかったです。
元NHKアナウンサーの小六さんの講演も聞けました。幹事さんに感謝です。

思い出 その1

母が糖尿病になる前に、父が糖尿病になっていました。私が10才の時のことです。
今から43年もまえのことです。贅沢病とか言われておりましたが、確かに、
昭和30年代にカロリー制限をしなくてはいけなかったのですから、そういわれても
仕方がなかったかもしれません。

 ただ、医学の情報も確かなものではなく、お米はだめだけれど、麦なら良い。
お酒はだめだけれど、ウイスキーなら良い。など、今では考えられないようなことでした。
父は麦ごはんを不味そうにに食べ、果物なら良いからと、みかんやリンゴをケース毎買い
、空腹を満たしていました。これが、明らかにいけないとわかるまでに8年の月日が
経っていました。

 父の糖尿病が悪化しているのが解ったのは、足に出来た大きなマメからでした。
本人も知らないうちに、見たこともないような大きな水疱が、足のかかとに
出来たのです。その水泡が出来た時に病院に行ったのか、自分で潰してから
行ったのか解らないのですが、私が見たのは、なぜか膝のあたりまで腫れ上がった
父の足でした。
母は医師にかかっても、どんどん腫れていく足を心配したのでしょう。
病院で薬剤師をしていた親戚に相談をしたようです。歩くことも出来なくて、病院の救急車で
入院となってしまいました。糖尿病が原因であることはいうまでもありません。それからが、
本格的な糖尿病とのおつきあいです。

 母はその時に、カロリー計算を教えてもらい、我が家の食生活に変化がおきました。
鳥のささみなら2本、豚肉なら薄切り2枚、とうふは半丁、卵は一個。これが80カロリー、
一単位の目安になっています。資料を見たのか、覚えはないのにいつのまにか
私の頭の中に、きざみ込まれています。
私が初めて付き添いを経験したのも、この時です。その経験が、今の土台になっているのだと
思っています。

 父はその時から、足の先が自力で上がらず、膝も曲がりにくくなってしまいました。
でも、足を切断しなければならないかもしれない状態でしたので、切らなくてすんでことに
安堵していました。それからは、杖ならぬステッキをつくようになりました。
(その後、リハビリで足は上がるようになりました。)

 4ヶ月の入院後から、自宅でインシュリン注射をするようになりました。
ガラスの注射器、今では考えられないような太い針、これを毎朝、鍋で煮沸消毒するのです。
ガラスに水分が残らないように、細心の注意を払い。
母は一人では不安だったのでしょう。全て私に、教えました。母がいない時は
私がするのですが、煮沸の時間が長く、その場に就いておれずに、何度も鍋を
焦がしたことがあります。
「他人の腕だ。痛くはないんだから、ブスッと刺しなさい。」
高校3年生の娘に、注射をさせた父は、度胸があった、と今でも思います。

思い出
 その2

そのころのインシュリンには、確か豚インシュリン(記憶はたしかではないのですが)と
書かれてあったような気がします。とても不思議な気持ちになった気がします。豚?って。

 それからの、インシュリン、注射器、糖尿病を取り巻く環境は、目覚しい進歩です。
鍋で針を焦がすこともなくなりました。使い捨ての針が出来、その針も短く、細くなりました。
注射器も、もちろん、使い捨てです。単位そのままが目盛りになり、注射も楽になりました。
でも、まだその時点では、自宅で血糖値を計るものがなく、低血糖をよくおこしていました。
その都度、父は楽しみのように、おまんじゅうを食べておりました。

そのころ、父がよく言っていました。「お尻のほっぺのあたりに、全く痛くないところがあるんだ。
注射の嫌いな子供たちにはそこへすればいい。医者も考えんかなあ。」と。
未だそんな話は聞かないから、誰も考えていないのかも。
 
その入院から、父はお酒もやめ、多すぎると思った食事は、一口でも残す。
といった徹底ぶりの、食生活でした。これぐらい、と私たちが思っても、
「その一口が、多いんだ。」と言って、食べませんでした。「子供たちが、成人する前に
死ぬわけにはいかん。そのためになら、がまんできる。」

とても意志が強く、私達には、わがままにさえ思えました。
でも、この意思の強さは、成人病予防には大変重要、であるとこのごろは
思います。
”もったいない、もう一口。”と言って食べてしまう私は、常に、カロリーオーバーです。