透析 

透析をする前に私は、母と一緒に透析の勉強をした。食事も糖尿病の知識は、ある程度持ち合わせていたのに、これに腎臓病が加わると、ちょっとやっかいっだった。それでも、糖尿病のカロリー計算を元に、今まで使わなかった、油を使うことで、なんとかスタートができた。
「がんばって、やってちょうだい。」
他人事の母の言葉に、腹もたてた。主人や娘が帰ってくるなり、母の悪口を言いまくっていた。今思えば、聞かされていた人たちは、うんざりしていたにちがいない。
「へー、そうなんだ。ふーん。」
と聞いていてくれたことに、いまは感謝している。ただそのときは、感謝の余裕もなかった。

透析をしていると、いろいろなアクシデントに、遭遇する。母が原因の時もあるし、全く、原因の判らない時もある。




シャントが詰まった

 正確には母の血管とグラフトのつなぎ目が、細く細く、なってしまうらしい。母の血管はほかの人よりも細く、なかなか採血できないほどなのだ。そのために、グラフトを入れなおす羽目に。結局、3回も手術をし、グラフトは脇の下までのびた。
この3回の手術は、それぞれ病院が違う。これは私たちが、望んだのではなく、そうなってしまったのだ。だから、その都度検査を受けるわけで・・・結果として、それぞれ の病院の対応のしかたを、見せていただくことになった。

 糖尿病の検査入院以来の入院は母にとって、苦痛そのものっだった。入院期間を、できるだけ短くしても、母の頭の中は、混乱していた。私が付き添っているときは、病室で、その他はナースステーションで、ということが、つづいた。点滴を取ろうとする、カテーテルをはずそうとする。付き添っていても、目が離せなかった。しかし、おもしろい光景に、でくわすこともある。不謹慎かもしれないが・・・
 ある病院で、肺活量の検査をした。吸ったり、吐いたりする量が、そのままコンピューターに表されるのだ。母には、すったり、吐いたりする動作その物がわからず、検査技師を随分てこずらせた。
「吸ってー、吸ってー、はいてー、はいてー。」
耳は遠くないのに、声がだんだん大きくなり、いつのまにか私まで一緒になって、息を吸っていた。しかし、コンピューターのグラフは、中心にかたまって、あまり役にたちそうもなかった。何度繰り返しても同じで、技師と私だけが、やけにつかれていた。そんな時でも、涼しい顔をしているはあちゃんでした。

穿刺針をぬく
 透析後の血圧低下や、体のだるさ、私にはわからないところで、母は大変な思いをしていたようだ。自分のつらさを表さない昔人間なのか、自分の言葉で表せずにいたのだろう。ある日、とうとう自分で、透析中の針を抜いてしまった。迎えに行った私は、息を呑んだ。血だらけになった母と周りに飛び散った血液を、看護士が拭いていた。
「申し訳ありませんが、次回から拘束させて、もらいます。」
私は何もいえなかった。

骨折
 10月 母に自分で着替えをするように言いながら、私は洗濯物を干していた。数分して、部屋に戻ると、母は畳の上に、ころがっていた。
「どうしたの?」
「大丈夫だよ。」
しかし、言葉とは裏腹に、立つこともできなかった。救急車で病院に搬送してもらう。
「こんなになって、皆に笑われちゃうわね。」
母の言葉は久しぶりに、饒舌だった。結果は大たい骨頸部骨折、年寄りの典型的な骨折だという。ここしばらく血管も詰まらず、それなりに安定した生活をしていた。骨折と聞いたとたん、体の力が抜けた。畳の上で、何もないところで骨折なんて・・・
一人で食事ができないので 看護士任せにもできず、昼食と夕食を食べさせるために、病院に通うことにする。8回目の入院だ。
痛いとかつらいとか、言ったことのない母が、何度も痛いと言う。その痛みの中でも、透析は続けられるのである。見ているほうが、つらかった。
 
人工骨頭を入れるほうが、歩けるようになるらしい。が、いろいろなリスクを考え、ボルトで固定をすることにした。ボルトを入れた次の日から、リハビリが始まった。ただ、はあちゃんにはその気がなく、介護をする私の練習となった。

要介護5
 全く動こうとしない人の重みを、初めて知って、言いようのない不安に、おそわれた。これはなんともならない。私がつぶれる。真剣にそう思った。
お風呂の中に はいれなくなった9月に、介護認定を受け、週1回、デイサービスに行くことになっていた。1度出かけたところで、今度の骨折である。デイサービスに加え、透析の送迎を週2回 おねがいをする。
 わずか、一段の段差しかない玄関も、スロープをつけた。玄関から、母の部屋、食堂まで車椅子を入れるために、家具の移動もした。車椅子が通れる幅を確保したが、洗面台は横付けしかできなかった。
(顔を洗い、口をゆすがせたいと思っていたが、なかなかできず、お口くちゅくちゅの液体も随分のんでしまった。)
ベッドも借りて、4週間後に退院。

 立つことも、歩くことも出来ない。手を引いたり、抱えたりしていた時に比べると、確かに体力はいる。でも、あちこち動き回って、眼が離せない時に比べると、母には悪いが少し、ほっとしている。
 介護保険を使って、私は母を介護している。本当に有難いと思う。両親の育て方がうまかった?のか、私は親の面倒をみるのが、当たり前だと思って育ってきた。ややもすると自分自身を犠牲にしてしまうこともある。今流に言えば、「いっぱい、いっぱい」に、なったとき、手を貸してくれる人がいる、という安心を介護保険からもらっている。

出血
透析から帰り、止血ベルトをはずし、ベッドで休ませる。窓の外は、雨模様。テレビをつけて、私は母の部屋を出る。夕食前、母を起こしにいく。ベッドに入ってから、2時間が経っていた。

部屋に入った時、母はあくびをしていた。
「まだ、眠いの?」声をかけながら、布団をめくった
あっ!目の前におきていることに、一瞬かたまってしまった。母の肩から腕にかけて、パジャマはおろか布団まで、血で真っ赤になっていた。慌ててパジャマのそでをめくると、止血テープから出血しているのがわかった。テープの上から、指でおさえる。
ところが、そのまま私は動けなくなってしまった。家には母と2人だけである。いつもはズボンのポケットに入っている携帯電話もない。どうしよう。時間にしたら10分位か。突然、主人が帰ってきた。地獄に仏である。
医院に電話をして指示を仰ぐ。

まず、止血ベルトで出血を止め、、血圧を測る。200を超えていた。電話に出た看護師は、血圧の低下を心配していた。そのまま、様子を見てほしいと、医師に連絡をとるということであった。頻繁に母があくびをしていた。出血がある程度止まったら、血でぬれたパジャマが気になり着替えさせる。
母の「大丈夫だよ。」は当てにならないことは十分解っているのに、その言葉に後押しされ、パジャマを替える。替え終えたとたん、母はもどしはじめた
もう一度、医院に電話をする。医師からの指示で病院に救急搬送することになる。

結局、輸血は必要なし。血圧が下がったら帰宅ということになった。私は、出血の量が解らないといけないと思い、血のついたパジャマを持ち、マットに染みた血液の量がどのくらいなのかと、しばらく考えていた。しかし、それは全く必要なかった。血液検査で出血量は解るらしい。とんだ、素人考えであった。

夜10時半、無事帰宅。おなかのすいたことも忘れていた。母はレトルトのおかゆ(地震がきたときのために保管、こんなときに役立つとは)を食べ就寝。朝までぐっすり眠っていた。

7月9日 また、針を抜く
いつも透析を終えて帰ってくるのは、午後3時頃。ところが、なかなか帰ってこない。
20分ほど遅れて帰ってくる。送り迎えをしてくれるヘルパーさんは、若い男性で母から見たら
孫のような方。よく面倒を見てくれ、頭が下がります。

車に乗っている母を、一目見て”あらっ?”です。パジャマが違うのです。
お兄さんいわく。”透析中に針を抜いてしまったらしくて・・・。僕が行ったときには、血だらけでした。”
と、報告をしてくれました。
”じゃあ、びっくりされたでしょう?”
”あっ、はい、少し・・・”
その言葉から、彼がそうとう、びっくりしたのが解りました。無理もありません。並みの量ではありま
せん。私も初めて見た時は、声がでなかったのですから。

連絡ノート(看護士さんからの連絡、私から見た母の様子等、何でも書かせてもらっています。)によると
透析をしていない手を、拘束していたのですが、一本の針を抜いてしまいました。ヘマトリックを調べ
ましたが38%で、OKでした。念のため、抗生物質の点滴を入れました。透析時間は2時間50分ですが
大丈夫です。

早速、そのノートにお礼の言葉を書きました。
それから、母は両手を拘束されてしまいました。しかたがありません。こういうときの母は、おかしな位
しっかり?しています。この日も

”針、抜いちゃあ、だめだよ。すごーい血がでたでしょ。”と言う私に
”私が抜いたんじゃないよ。あの人だよ。あの人・・・”

ヘルパーさん、思わず後ずさりです。びっくりさせてごめんなさい、です。

母は、これで3回目です。振り返ると、母の体調が良い時に抜いてしまうような気がします。看護士さんも
油断していました。と言っていましたが、いろいろな意味で、落ち着いていました。
透析がいやだなあ、抜いてしまいたいなあと、自分で考えたのではないかと、思い巡らせます。