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山梨百名山 笊ケ岳(2629m)
登頂年月日 1991/11/24 天候 晴れ 同行者 4人 マイカー利用
●老平仮眠4時間(7.35)−−−吊橋(8.50)−−−広河原(9.40-55)−−−山の神(10.40-11.00)−−−休憩15分−−−休憩10分−−−桧横手山(13.45-14.05)−−−幕営地(14.10)
●幕営地(7.20)−−−布引山(9.00-15)−−−笊ケ岳(10.25-40)−−−布引山(11.50-55)−−−幕営地(13.00-30)−−−休憩10分−−−山の神(14.50)−−−広河原(15.15-30)−−−老平(16.50)

山岳会らしきものに始めて入ってみた。『Nクラブ』。その会員の中の男性4人で笊ケ岳へ登った。登山の世界に入ってから4年目、グループ登山の初体験であった。
このあとも300名山踏破までの約10年間、グループ登山をしたのは2、3回しかない。


登山口の老平到着は予定より2時間も遅れて、午前2時を回っていた。深夜の駐車場にテントを設営。真夜中の酒盛りがはじまる。私一人なら、明日の厳しい登行に備えて、一刻も早く就寝するところであるが、これがパーティ ーというものだろうか。早くも単独行との違いに戸惑う。3時半過ぎてようやく寝袋にもぐりこんだ。

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笊ケ岳   笊ケ岳山頂


第一日目
6時過ぎ、寝足りない目をこすりながら起床。山間の奥に聳えるのが布引山、山襞に雪がついている。地元の人が「3日ばかり前に始めて雪が来た」と教えてくれた。
リーダーはM氏、長丁場の登行を控えているにしては、緊張感もなくのんびりと朝食、準備に悠長な時間を費やして、出発したのは7時35分だった。
 
駐車場のすぐ先で林道は閉鎖されている。平坦な林道を30〜40分歩いて山道に入った。山道を少し上ると農家の作業小屋にしては立派な一軒家があった。
いっとき坂道となったが、あとは足下に奥沢谷の深い渓谷を見ながら、相変わらず緩やかな道である。散りはじめたモミジが色を残し、時期外れの紅葉を楽しみながら“のんびり”と歩く。こののんびり歩きは、早歩きが当たり前の私には、なんとももどかしい。テンポを合わせるのに苦労する。

「歴史ある山岳会だから、体力的にもきっとタフな連中が多いだろう。ついていくのも大変かも知れない」そんな不安とともに、重荷(20数キロ)には不慣れな不安もあった。しかしこの戸惑うようなスローテンポは最後まで変わらなかった。  

水流のある沢の徒渉で1回目の休憩。徒渉して10分ほど行くと吊橋を渡る。ゆらゆらと揺れる橋を一人づつ慎重に渡り、さらに奥沢谷に沿って遡上すると、ようやく谷底が足元に近づいて広い河原に出た。ここが広河原の徒渉地点で最後の水場である。2回目の休憩。  

休憩をが終って出発すると、ここまでの楽々ムードをみごとに覆す急登が待っていた。ジグザグを切って山腹を登る足元に、厚く落ち葉が散り敷いている。一歩ごとにかさこそと囁きかける落ち葉の軽やかな響きに、初冬の山を実感するのも味わい深い。きつい急登だが、私には楽すぎるゆっくりペースだ。しかし極端なスローペースはかえって疲労を助長するように思われる。ペースメーカーK氏の体力、脚力は私とは余りにも格差があり過ぎるようだ。パーティーのメンバーは、ある程度足が揃っていないといけない。

広河原から300メートル稼いだ山の神で休憩。K氏はすでに汗びっしょり、相当きついのだろう。
伐採木の搬出に使ったらしい、赤錆びたワイヤーや滑車の残骸が登山道沿いに残されている。笊ケ岳は登路も不明瞭で登りにくい山の一つと思っていたが、そんな心配はまったくない。ただ山中に水場はなく、登山口から標高差2000メートル余をひたすら登る体力が求められるという点で厳しい山の一つということだろう。

20日前に登った大無間山も同じような条件だったが、ルートがやや不明瞭、アップタウンと岩場、標高差等を考慮すれば、むしろ笊ケ岳より厳しいと言える。
私としては高度差2000メートルを登り切って布引山で幕営したかったが、このペースでは無理だ。
その後2回の休憩を入れて、午後2時桧横手山に到着。この周辺に幕営適地があるはず、物色しながら10分も進んだところに良い場所が見つかった。周辺はコメツガとダケカンバの原生林に囲まれ、いい雰囲気があった。いくらか雪も見られるがたいしたことはない。樹間から笊ケ岳がうかがえる。

早速テントを設営、枯れ木を集めて焚火をする。薄暗い原生林の中に揺れる炎が4人の頬を赤々と照らす。焚火をしているところを見つかったら、きっと厳しく叱られるだろう。私一人だったらこんな場所で決して焚火などしない。新米の私が制することもはばかられ、黙っていたが歴史ある山岳会の会員が、このような行動を取ることに疑問を感じた。

初冬の落日は早い。薄暗くなったと思ったら、闇はすぐに訪れた。
(私以外の3人はヘビースモーカー揃いで、自動車の中、テントの中、密閉された狭い空間で、代わるがわるふかすタバコの煙に辟易させられ、ただ忍の一字だった)
夜半本格的な雨がテントを打ち始めた。寝入って3〜4時間した12時ころ、肩のあたりが冷んやりとして目を覚ます。シュラフの下は水が浸かっている。みんなを起こして始末をし、半濡れの寝袋に入って何とか朝まで睡眠をとった。それにしてもこんなボロテントを持って来たリーダーの感覚も解せないところだった。

第二日目

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布引崩れを行く  布引山付近からの展望


浸水騒動があったりして、起床は予定より1時間ほど遅れた。  
雨は幸い明け方には上がっていた。テントから出て見ると青空も広がっている。笊ケ岳の山頂付近は雪を被り、昨日より白っぽくなっている。
7時15分に出発、女性3人パーティー が登ってきた。我々より高度差500メートルほど下で幕営して、今朝6時に出て来たということだった。休憩に入った彼女達を後にして、黒木樹林の急登にとりついた。
今日もK氏を先頭に、極端に遅いペースで登って行く。不要なものはテントに残し、身軽になった足はどんどん前に出たがるのに、とにかく遅い。K氏が足を一歩前に出すのを待って、私も足を出すという歩き方で、リズムに乗れなくて困る。布引山へのコメツガの樹林は、全く手垢のつかない幽遂な雰囲気を漂わせ、これが南アルプス最奥部だという思いを抱かせる。徐々に雪の量が増えて来たが歩行に支障はない。遅いペースに内心苛立ちながらも、コースがやや北に向きを変えるあたりから傾斜が緩んで、木の間越しに冠雪の山が望見できるようになる。南ア主稜南部の上河内岳から聖岳などだった。

視界が開けて布引崩れの縁に出ると、新雪をまとった白い世界に変った。
南ア南部の山稜が幕を落とした舞台のように目の前に展開した。
大がれの縁をたどって行くと、布引山山頂が黒木樹林の中にあった。幕営地から高距600メートルを1時間40分、一本調子の急登にしては余りにも時間が掛かり過ぎている。山頂は小広い切り開きとなっていて、三角点標がある。山頂の北側に格好のテント場があって、昨夜ここで幕営したパーティーが、はやばやと笊ケ岳を往復して下山して行くところだった。我々が到着してすぐに、今朝ほどの女性パーティー が登って来た。彼女達は私達より500メートル以上も余分に高度を登って来ているのに、なかなか健脚揃いのようだ。いや、我々がいかにスローペースかということだろう。

さてここから鞍部まで約200メートルの下降のあと、また200メートルを登り返すと笊ケ岳だ。私の足なら往復1時間余もあれば十分だろうが、このパーティーの足では2時間以上を覚悟する必要がある。ペースメーカーK氏の足取りは、教会で花嫁を導く父親のように、一歩々々間を置くあの歩き方だから時間がかるのも無理はない。
たなびく雲の上に富士山が浮かぶ。昨日より雪が下まで下りていた。
鞍部へ下り切る直前で目の前に双耳の笊ケ岳が兀然として姿を現した。大笊、小笊が均等な姿で明るく輝いていた。
最後200メートル、ばてばてのK氏のペースに追従してようやく山頂に立った。思えば笊ケ岳に思いを馳せたのは、4年前の夏、雨上がりの千枚小屋前で夕暮れの中にかすかに浮かぶ双耳の峰を目にした時からだった。
山頂の積雪は10センチ。 期待通りの大パノラマに思わず歓声を上げた。馴染みの南ア3000メートル峰が雪を戴き、峻烈として紺碧の天を画し聳立している。鳳凰三山、白峰三山jから上河内岳、光岳、大無間山と南ア深南部の山々が重なり合って群れていた。とりわけ悪沢、赤石、聖岳の迫力は、ここならではの第一級品だった。遠く大菩薩、小金沢連峰から奥秩父の山並が群青のシルエットをなして連なる。初冬の笊ケ岳2629メートルの山頂に立って、その景観を目を凝らして見入った。

登りの時間をあまりにも使いすぎている。もっと展望を楽しんでいたい気持ちを振り切って下山にかかった。下山もまたペースは上がらなかった。  
テントを撤収し下山の準備が終わって長い下りにかかる。夕闇迫る5時までの残り時間は3時間半、それまでに何とか林道までは出たい。ここからは申し出て私がトップにさせてもらう。しかし後を引き離すような早さで歩く訳にはいかない。後ろとの間隔を気にしながら、後ろを引っ張るようにしてペース を作る。それまでのペースより少しは早くなって、下りに下り続け、途中短い休憩を一本挟んだのみで広河原まで下り切った。3時15分だった。 急げは足元の明るいうちに何とか駐車場まで帰れそうだ。
河原でもう一度休憩、水をがぶ飲みし、顔を洗い、口をゆすいですっきりする。

夕闇が迫り、老平集落に着いたときにはすでに民家の窓には夜の灯が入っていた。
パ一ティーによる山行が、単独行とは全く異質なものであることを認識した。やはり私は単独行者であるようだ。
(1991年11月記)


その後ときを経ずしてこの山岳会を退会して、また一人だけになった




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