kai-080 山梨百名山一覧表へ 「山岳巡礼」のトップへ戻る
登頂年月日 1992/06/20 | 天候 曇り | 同行者 単独 | マイカー利用 | |
東京自宅(3.10)===静岡IC===別荘地分岐(6.30)−−−登山口(7.00)−−−大岩(7.30)−−−蓬峠(8.05)−−−山伏(9.10-25)−−−新窪乗越(10.10)−−−大谷嶺(10.35-45)−−−新窪乗越(11.05)−−−扇の要(11.35)−−−別荘分岐(12.25)===帰宅 | ||||
|
||||
山伏は安倍川上流の山である。 梅ケ島温泉手前の新田バス停で左折、集落先の茶畑の中の細い道を奥へ向かって自動車を走らせると、道が二又に分岐する。右は『大谷崩れ』 左は『山伏登山道』の標識があって、そのあたりはちょっとした別荘地になっていた。自宅からここまで3時間余、奥多摩あたりの山へ出かけるのと大差ない時間だった。 空き地に駐車して早速出発。 林道と並行する西日影沢は、昨秋の台風により押し出されたと見られる流石が累々と堆積、新たに道をつけなおした所もあった。マイカーが脇を追い越して行く。また1台。『乗りませんか』と声をかけられたが登山口までもういくらもないことが分かっていたので、礼を言って辞退。それから5分程で林道ゲート手前に山伏への登山口があった。 マイカーが4〜5台駐車していた。 支沢沿いを右手にとりつく。よく踏まれた歩きいい道である。作業用の簡易ケーブルが登山道沿いに伸びていた。何もない植林の中に解せないケーブルだったが、そのわけはすぐにわかった。沢の清流にワサビ田が現れた。石垣を積んだずいぶん手間のかかりそうなわさび田だ。信州穂高の平地栽培とは全く異なっていた。 沢を左岸、右岸とわたり返して、ほどなく『大岩』に着く。名前の通り大きな岩があり、ワサビ小屋が建っている。その先には『水場』の表示がある。ここまでは沢沿いだから水の心配はないが、ここが最後の水場と言う意味かもしれない。 水場の先でもう一度沢を横切ると、ようやく山腹をからむようになって、尾根らしい感じになってきた。それでも尾根通しには行かずに、尾根を向こう側に越えて、さらに登って行くと、ようやく本物の尾根に立った。『蓬峠』と板切れにかいてある。ここがガイドブック の稜線らしい。 いつか植林は途切れて、雑木の自然林に変っていた。気持ちいい樹相の尾根をひたすら汗を流す。急登が終わり、山頂の近づいたことを感じる。市営避難小屋への分岐表示があり、山伏まで20分とある。深い樹相が途切れて明るく開けると、そこはもう山頂の一角で笹原が広がり、立ち枯れたトウヒが白い肌を晒している。笹原の中を進むと山伏山頂だった。 笹に囲まれた広い山頂には、立派な山名標示板が二つも立っていた。損傷のないきれいな二等三角点に手を触れて確認する。だれもいない静かな山頂だった。天気がよければ南アルプスや笊ケ岳、大無間山など、なじみの山々を含む大展望が楽しめる筈だが、今日はそれも雲の中。それでも日本三百名山の一峰を踏んだ喜びはある。 山頂からは二本の道があった。いずれもよく踏まれた道だ。眺望がきかない上、道標もないので新窪乗越への道がどっちかちょっと迷う。三角点の刻字は真南を向いているので、それで方角をつかみ、地図で見当をつけて東北への道をとった。下り始めると新窪乗越への道標もあって、道を間違えていないことを知る。 2回ほど凸部を越えてから下った鞍部が新窪乗越だった。真っすぐ稜線を行けば大谷嶺から八紘嶺へ、南側急峻のがれを下って行くと、今朝出発した、別荘のある分岐点である。時間はまだ10時を少し回ったばかり、大谷嶺を往復して来ることにした。1時間あれば往復できそうだ。 大谷崩れの縁を急登して行くので注意が必要だ。大谷崩れは我が国三大崩れの一つというが、あとの二つは知らない。一つは富士山の大沢崩れだろうか。あぶなっかしいガレの縁は最初だけで、あとは原生林の中をトラバー ス気味に急登して行く。ツバメオモト、マイズルソウの白い花がひっそりと咲いている。その中にイワウチワをみつけた。 2〜30株、濃いピンクが印象的である。 二つのコブを越え、30分程で大谷嶺に到着した。八紘嶺から来たという登山者が一人休憩中だった。大谷嶺の標高はちょうど2000メートル、山伏より13メートル低いだけだ。足下に深々と崩壊、切れ落ちた崖は目がくらみそうだ。わずかに薄くなった雲の合間から、南西に見える薄墨色をしたひと塊りの山並みは、寸又峡の朝日岳、大無間山などの山々だろうか。 予定した山伏のほかに、もう一つ大谷嶺を稼いだことに満足して新窪乗越まで戻り、崩壊壁の中につけられたじくざぐのざれ道を駈けけ下った。 扇の要を過ぎて別荘地までは車道歩きとなる。ぽつぽつ雨が落ちて来た。真上で叩きつけるような雷鳴、雨脚が激しくなって、そのうち天が割れたような降りとなってしまった。 (1992年6月記) |
||||
|