RSC19

19. 江戸庶民の思想・洋学と幕末の思想

 

1.町人の思想

 

1.孟子の「心を尽くして性を知るとき,則ち天を知る」という言葉を基本として・儒教・仏教・神道などを融合した庶民道徳である(1)を説いた(2 )は,自ら講席を設けて講話を行い,町人の自覚と社会的地位の向上に貢献した。

 

2.彼は身分制度を容認しながらも,それは基本的には(3 )の違いであって,各身分がそれぞれの職に尽くすことが,天下国家のためになると考えた。「商人の(4 )は士の(5 )に同じ」という彼の言葉は,このことを語るものである。

 

3.彼は,『(6 )』の中で平明な問答によって,人にはそれぞれの身分に応じた生活があり,足るを知って分に安んじる(7 )を教えたが・さらに商人には〈もの〉を活かす(8 )とくひと〉を活かす(9 )の大切さを説いた。

 

4.商人の町大坂では泊(恋愛)と針商売)に明け暮れる町人の姿を『好色一代男』や『世間胸算用』に描いた(10)や,『曽根崎心中』や『心中天網島』などの作品の中で(11 )の板挟みに苦悩する町人を描いた(12)などが出た。

 

5.(13)は町人出身の学者で,商人たちの出資によって建てられた懐徳堂に学び,儒教や仏教の教えを歴史的観点から批判的に論じた。

 

2.農民の思想

 

1.出羽の国の医師であった(14)は,儒教や道教や仏教を学ぶ中で,自然は万物を生み育てることが真実の姿であり,人間もその自然の営みに参画することが本来的な生き方であると考え,『(15 )』を著した。

 

2.彼は,人間は自然の生産的な営みに参画することによって生存しているのであるから,すべての人が自ら自然に働きかけ,そこから衣食住の糧を得なければならないとする(16 )という考えを説くにいたった。

 

3.しかし,現実は自ら耕さずいたずらに食べるだけの(17)の徒である土工商階級が農民に寄生しているのが今の世であり,彼はこうした差別に満ちた人為的な社会を(18)とよんで批判し,万人が自ら耕す平等な理想社会を(19 )とよんで,その建設を夢見たのである。

 

4.相模の国の農業指導家(20 )は,必死の勉学と勤労によって一家の再興をはかり、のち各藩や大名に迎えられて農村の復興に尽力し、名声を得ることになった。

 

5.彼は,農業は二つの道の調和によって成り立つと考えた。一つは万物を生み育てる自然の営みである(21)であり,いま一つはその自然の営みに従いながらも工夫と努力を重ねる(22 )である。

 

6.そして,自己の存在は自然の大きな力と自分を取り巻く多くの人々のお陰であり,そのすべての恩に感謝の心を持たねばならないとする(23 )を説いた。

 

7.感謝の心は,まずは自己の経済力に応じた生活を行うという(24)、そして勤勉と倹約を励行した後に生まれた財があれば,それを人々に分け与えるという(25 )として具体的にあらわれねばならないと考えた。

 

3.洋学と幕末の思想

1)蘭学と洋学

1.江戸時代の鎖国の下で,唯一日本との貿易を許されていた西欧のオランダの言葉を通して学ばれた学問を(26 )とよぶ。

 

2.オランダの医学書『ターヘル=アナトミア』の翻訳書である『(27 )』は,(28 )や(29 )たちの翻訳になるものであるが,前者がその間の苦労談を記した『(30 )』は,当時の学問水準を知るのに重要な文書となっている。

 

3.備中の出身で大坂や長崎で西洋医学を学んだ(31)は,大坂に蘭学塾(32 )を開き,福沢諭吉や大村益次郎など,明治の新生日本を担う多くの人材を育てることになった。

 

4.江戸時代末期に,それまでのオランダの学問に加えて英・仏・独などの学問が流入し,まとめて(33 )とよばれるようになった。

 

5.日本人が西洋の学問を受け入れようとする粗西洋の科学的精神を学ばず,日本の伝統的精神を守りながら,西洋の科学・技術だけを取り入れようとする〈(34 )〉という態度がみられるのが特徴である。

 

6.木下順庵に朱子学を学んだ(35 )は,徳川家宣の侍講となり正徳の治を断行する一方,イタリア人宣教師から得た知識をもとに記された『(36 )』などでは,西欧学問に対する深い関心を示している。

 

7.幕末に来日し,長崎に〈鳴滝塾〉を開いた(37 )に医学を始めとする洋学を学んだ(38 )は,西洋に関する研究グループ〈尚歯会〉を設立し,西洋科学の摂取に取り組もうとしたが,蛮社の獄によって投獄されることになった。

 

8.三河田原藩の家老であった(39 )は,政治家として産業・教育に尽力する一方,洋学を修めて来たるべき新しい時代に備えるとともに,その知識を活かして人々の生活の向上に努めたが,『戊戌夢物語』を書いて幕府の鎖国政策を非難したため,蛮社の獄に連座して獄死することになった。

 

2) 幕末の思想

1.信州松代の藩士であった(40 )は,初め朱子学を学ぶが,のち洋学を知って以来これの摂取に尽力した。そして,アヘン戦争で中国が英国に敗れたという情報に大きな衝撃を受けた。

 

2.彼は西洋の科学・技術を高く評価しつつも,東洋の伝統的精神を重んじ、その上に西洋の科学・技術を導入すべきであると考え,「(41)」と語っているが,これは18世紀以来の〈和魂洋才〉につながる思想でもあった。

 

3.長州の藩士であった(42 )は,佐久間象山に時代と学問に対する眼を開かされ,脱藩して時代と天下を見る眼を養った。彼が故郷萩に建てた私塾(43 )は,明治維新の逸材を多く輩出することとなった。

 

4.肥後の藩士で儒学者であった(44 )は,ペリー来航以来,撰夷論者から開国論者へと転換し,冷静な眼で時代を見据え,開国と公武合体を唱えて,幕末の動乱期に重要な働きを行った。

 

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