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20. 近代日本の思想

 

1.啓蒙思想

 

1.明治維新とともに流入した西洋思想を手がかりとしながら,封建的因習を批判しつつ近代的市民社会の建設を促した(1)運動は,のちに初代文部大臣となった(2 )を発起人として,明治六年に設立された(3 )が中心的役割をはたすことになった。

 

2.その代表的思想家としては,J.S.ミルの『自由の理』を翻訳した(4 )や哲学用語の翻訳で知られる(5  )などがいる。

 

3.中でも大分中津藩士で緒方公安の適塾に学んだ(6 )は,「門閥制度は親の敵でござる」と封建制度を批判し,その著『(7 )』の中で,「天は人の上に人を造らず」と語り,人間の平等を説く(8 )を唱えた。

 

4.彼は人間の区別は「学ぶと学ばざる」との差によると考えたが,その学問も詩歌や古文ではなく「人間普通日用に近き(9 )」ととらえ,中でも自然の原理の探求となる(10 )を重んじた。

 

5.そして,東洋にないのは実用的な学問と独立心であると考えた彼は,「(11)」と語り,近代国家の基礎は国権の充実と民権の確立にあると主張した。

 

6.藩閥政治に対し国会の開設や普準選挙の実施などを訴えた(12 )は,全国に広がったが,政府の激しい弾圧にあって衰退していった。

 

7.土佐出身の民権擁護の思想家(13 )による翻訳書『(14 )』は,自由民権運動に新しい理論を提供することとなった。

 

8.彼の著した『(15 )』は,民主主義者と帝国主義者と現実主義者との論談の形態をとりながら,当時の知識人の苦悩をよく表明している。

 

9.日本の現実をみつめた彼は,権利を二種類に分類し,国家が与えてくれた権利である(16 )を,人民が奪い取った権利である(17 )へと養い育てていくことを提唱した。

 

10.板垣退助の演説の影響を受け自由民権運動に目覚めた(18 )は,憲法制定のうねりの中で,抵抗権を含む〈私擬憲法案〉を作成した。

 

2.日本キリスト教と大正デモクラシー

1.高崎出身の(19 )は,札幌農学校でクラーク博士の影響を受けてキリスト教の洗礼を受けたが,彼の著『(20 )』には,受洗の動機やアメリカでの経験とともに,生涯を〈(21)〉すなわちイエスと日本にささげようとした彼の熱意が語られている。「武士道の台木にキリストの福音を接木する」という言葉は,そのあり方を示している。

 

2.彼の求道精神は終生かわらず,第一高等学校では神以外のものを拝しないという信念から『教育勅語』に対する(22 )を引き起こし,足尾鉱毒事件では財閥を攻撃し,日露戦争開戦に際しては〈万朝報(よろずちょうほう)〉紙上に(23)を展開した。

 

3.パウロとルターの影響を強く受けた彼は,聖書のみに信仰の基礎をおく立場から,(24 )を主張した。

 

4.内村鑑三とともに札幌農学校に学んだ(25 )は,日本精神とキリスト教精神を結びつけた「(26)」を著すとともに,「我,太平洋の架橋とならん」と決意し,のちに国際連盟事務次長を務めるなど,国際平和に貢献した。

 

5.1917年のロシア革命の成功などに影響を受けて,第一次世界大戦後,日本は(27 )といわれる憲政擁護・労働運動などの大衆運動の高揚期を迎えた。

 

6.社会主義運動では,日本共産党の創設に尽力した(28 )や,キリスト教社会主義者として,日露戦争に反対する非戦論を展開した(29 )がいる。

 

7.自由民権運動から社会主義に向かい,平民社を設立して〈(30 )〉を発行し,軍国主義に反対した(31)は,その著『(32 )』において帝国主義戦争を厳しく批判したが,(33 )という天皇暗殺計画事件に連座して処刑された。

 

8.民主主義を求める自由な空気は,政治学者(34 )をして〈(35 )〉という日本的民主主義を唱えさせ,憲法学者(36 )をして天皇は国家統治の執行機関であるとする〈(37 )〉を主張させることとなった。

 

3.文学と独創的思想家

 

1.英文学者であった(38 )は,日本の近代化と自我の問題を探求した作家でもあった。彼の作品『(39 )』は,エゴイズムに苦しむ主人公〈先生〉の葛藤を描いたものである。

 

2.自らの講演をまとめた『(40 )』の中で,彼は日本の開化は(41)であって外国に強制されたものだから,日本人は主体性がなく未だに自己を確立できないでいるのだと考えた。

 

3.『(42 )』の中で,自我の問題に対して他者の尊重を前提とした個人主義である(43 )を説いた彼も,晩年は小さな自己を捨てて大いなる自然に自己を委ねようとする(44 )の境地にいたった。

 

4.孤高の文豪(45)は,自我の確立に苦悩しながら,社会との妥協である諦念を自らの立場と考えるにいたった。

 

5.西洋哲学の認識論と東洋の(46 )を融合した(47 )の哲学は,その著『(48 )』においてまとめられている。

 

6.真の存在とは,たとえば美しい音楽に心を奪われている時のように,聞くものと聞かれるもの,あるいは見るものと見られるものが未だ別れない(49 )の段階にある直接的な経験すなわち(50 )にもとづくものだ,と彼は考えた。

 

7.西洋の個人は社会や他者と分離した抽象的な個人であると批判した(51)は,その著『(52 )』の中で,個人は社会の否定の上に成り立ち,社会は個人の否定の上に成り立ち,それ自身としては存在しないという弁証法的関係においてとらえるとともに,人間を何らかの関係性において存在する〈(53 )〉としてとらえた。

 

8.農務官僚として農村に関わる中で,日本文化の担い手は名もなく文字も持たない人々であることを実感した(54 )は,役人生活を捨て,その名もなき人々すなわち(55 )の間に存在する伝承や信仰や説話の中に日本文化の淵源を探ろうとした。これが日本(56 )の始まりである。

   

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