RSC26
26 学問と教育
1.体系化された教育は,一旦,青年期で終えられる。しかし,高齢化社会を迎えた現代では、高齢者が生きる喜びすなわち(1答)をみい出せるよう,学校を社会化し社会を教育化することによって,(2答 )の機会が与えられることが望まれている。
2.アテネの街頭に立って青年たちと問答を交しながら,自らの内面をみつめよと(3答 )を説いたソクラテスは,真実や真理は青年自身が自らのうちから思考によって発見するものであり,自分はそれを手助けしているにすぎないと考え,この間答法を(4答 )と名づけたが,その方法は現代教育に大きな影響を与えることになった。
3.プラトンはアテネ郊外に学園(5答 )を建て,教育と学問の場とし,その門額に「幾何学を学ばざる者入るべからず」と記したという。また,その弟子アリストテレスも,後年,アテネに(6答 )を建て学問・研究の場としたが,その講義が散歩をしながら行われたので,彼の学派は(7答 )とよばれた。
4.9世紀以来,教会付属の学校で研究された(8答 )とよばれる哲学は,主にキリスト教の教義や信仰についての組織的研究である(9答 )を発展させたが,信仰上の真理と学問上の真理とは両立するのかという議論の中で衰退していった。
5.ベーコンは,実験や観察に裏づけられた事実の集積の上に立つ(10答 )を学問の方法と考えたが,デカルトは明晰・判明な原理にもとづく推論によって個別の真理を導く(11答 )を学問の方法と考えた。
6.人間は具体的生活の中で生きており,さまざまな問題に出合う。それゆえ,教育の目的はミうした問題を解決する能力を開発することと考えた(12答)の大成者デューイは,〈為すことによって学ぶ〉というこの教育を,その著『(13答 )』の中で〈問題解決学習〉とよんでいる。
7.最澄の開いた比叡山(14答 )は,天台宗の総本山というだけではなく,平安から鎌倉にかけて最高の学問・研究の場であり,最澄の著した『(15答 )』は,そこに学ぶ学僧のための教育方針と規則をまとめたものである。
8.(16答 )によって開かれた日本臨済宗では,師は弟子に知的分別では解き得ない(17答 )という難問を与え,悟りにいたる手段とした。
9.(18答 )の推挙によって幕府に仕えた林羅山は,4代の将軍に仕え,江戸幕藩体制の思想的基盤を確立した。その後,林家は代々幕府の儒官として登用され,神田に(19答 )とよばれる公式の学問所が設けられた。
10.江戸時代には多くの学問の場が設けられたが,心学を説く(20答 )は自宅に講席を設けて庶民の道徳を説いたが,大坂の商人たちは町民のために(21答 )を建てた。
11.「がくもんをして道をしらむとならば,まず(22答 )をきよくのぞきさるべし」とは本居宣長の言葉である。彼によれば,道は学問によって知るものではなく,生まれながらの(23答 )によってこそみい出されるものなのである。
12.福沢諭吉にとって,学問とは「世上に実のなき文学」ではなく,「人間普通日用に近き(24答 )」であり,中でも自然の原理に重きをおく(25答 )であった。