我が信念
−我はかくの如く、如来を信ず−
私は常々信念とか如来とか云うことを口にして居ますが、其私の信念とは如何なるものであるか、私の信ずる如来とは如何なるものであるか、 今少しく之を開陳しようと思います。 私の信念とは、申す迄もなく、私が如来を信ずる心の有様を申すのであるが、其に就いて、信ずると云うことと如来ということと、二つの事柄があります。 この二つの事柄は、丸で別々のことの様にもありますが、私にありてはそうではなくして、二つの事柄が全く一つのことであります。 私の信念とはどんなことであるか、如来を信ずることである。私の云ふ所の如来とはどんなものであるか、私の信ずる所の本体である。 分けて云へば、能信と所信との別があるとでも申しましょうか、即ち、私の能信は信念でありて、私の所信は如来である、と申して置きましょう。 或は之を、信ずる機と信ぜらるる法との区別である、と申してもよろしい。然し、能所だの機法だのと云う様な名目を担ぎ出すと、 却て分ることが分らなくなる恐れがあるから、そんなことは一切省いて置きます。 私が信ずるとはどんなことか、なぜそんなことをするのであるか、それにはどんな効能があるか、と云う様な色々の点があります。 先ず其効能を第一に申せば、此信ずると云うことには、私の煩悶苦悩が払い去らるる効能がある。或は之を救済的効能と申しましょうか。 兎に角、私が種々の刺戟やら事情やらの為に煩悶苦悩する場合に、此信念が心に現われ来る時は、私は忽ちにして安楽と平穏とを得る様になる。 其模様はどうかと云へば、私の信念が現はれ来る時は、其信念が心一ぱいになりて、他の妄想妄念の立ち場を失はしめることである。 如何なる刺戟や事情が侵して来ても、信念が現在して居る時には、其刺戟や事情がちっとも煩悶苦悩を惹起することを得ないのである。 私の如き感じ易きもの、特に病気にて感情が過敏になりて居るものは、此の信念と云うものがなかったならば、非常なる煩悶苦悩を免れぬことと思はれる。 健康な人にても苦悩の多き人には、是非此信念が必要であると思う。私が宗教的にありがたいと申すことが有るが、 其は信念の為に此の如く現実に煩悶苦悩が払い去らるるのよろこびを申すのである。 第二。なぜそんな如来を信ずると云う様なことをするのか、と云うに就いては、前に陳ぶるが如き効能があるから、 と云うてもよろしいが、なほ其より外の訳合があるのである。効能があるからと云うのは、既に信じたる後の話である。 まだ信ぜざる前には、効能があるかなきかは、分らぬことである。勿論、人の効能があると云う言葉を聞いて、信ぜられぬ訳でもないが、 人の言葉を聞いただけでは、さうでもあろう位のことが多い。真に効能があるか無いかと云うことは、自分に実験したる上の話である。 私が如来を信ずるのは、其効能によりて信ずるのみではない、其外に大なる根拠があることである。それはどうかと云うに、私が如来を信ずるのは、 私の智慧の究極であるのである。人生の事に真面目でなかりし間は、措いて云はず、少しく真面目になり来りてからは、 どうも人生の意義に就いて研究せずには居られないことになり、其研究が遂に人生の意義は不可解であると云う所に到達して、 茲に如来を信ずると云ふことを惹起したのであります。信念を得るには、強ち此の如き研究を要するわけでないからして、 私が此の如き順序を経たのは、偶然のことではないか、と云う様な疑もありそうであるが、私の信念は、そうでなく、 此順序を経るのが必要であったのであります。私の信念には、私が一切のことに就いて私の自力の無功なることを信ずる、と云う点があります。 此自力の無功なることを信ずるのは、私の智慧や思案の有り丈を尽して、其頭の挙げようのない様になる、と云うことが必要である。 此が甚だ骨の折れた仕事でありました。其窮極の達せらるる前にも随分、宗教的信念はこんなものである、と云う様な決着は時々出来ましたが、 其が後から後から打ち壊されてしまうたことが、幾度もありました。論理や研究で宗教を建立しようと思うている間は、此の難を免れませぬ。 何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものではない、我には何にも分らないとなった所で、 一切の事を挙げて悉く之を如来に信頼する、と云うことになったのが、私の信念の大要点であります。 第三。私の信念はどんなものであるかと申せば、如来を信ずることである。其如来は、私の信ずることの出来る又信ぜざるを得ざる所の本体である。 私の信ずることの出来る如来と云うのは、私の自力は、何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、 其無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である。私は、何が善だやら何が悪だやら、何が真理だやら何が非真理だやら、 何が幸福だやら何が不幸だやら、何も知り分る能力のない私、随って、善だの悪だの、真理だの非真理だの、幸福だの不幸だの、 ということのある世界には、左へも右へも、前へも後へも、どちらえも身動き一寸もすることを得ぬ私、此私をして、虚心平気に、 此世界に生死することを得しむる能力の根本本体が、即ち私の信ずる如来である。私は此如来を信ぜずしては、生きても居られず、 死んで往くことも出来ぬ。私は此如来を信ぜずしては居られない。此如来は、私が信ぜざるを得ざる所の如来である。 私の信念は大略此の如きものである。第一の点より云えば、如来は私に対する無限の慈悲である。第二の点より云えば、 如来は私に対する無限の智慧である。第三の点より云えば、如来は私に対する無限の能力である。斯くして私の信念は、 無限の慈悲と無限の智慧と無限の能力との実在を信ずるのである。無限の慈悲なる故に、信念確定の其時より、 如来は私をして直ちに平穏と安楽とを得しめたまう。私の信ずる如来は、来世を待たず現世に於て既に大なる幸福を私に与えたまう。 私は、他の事により多少の幸福を得られないことはない。けれども、如何なる幸福も此信念の幸福に勝るものはない。故に、信念の幸福は、 私の現世に於ける最大幸福である。此は、私が毎夜に実験しつつある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はまだ実験しないことであるから、 此処に陳ぶることは出来ぬ。 次に、如来は無限の智慧であるが故に、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめ給う。従来の慣習によりて、私は、知らず識らず、 研究だの考究だのと、色々無用の議論に陥り易い。時には、有限粗雑の思弁によりて、無限大悲の実在を論定せんと企つることすら起る。 然れども、信念の確立せる幸には、たとえ暫く此の如き迷妄に陥ることあるも、亦容易く其無謀なることを反省して、 此の如き論議を抛擲することを得ることである。「知らざるを知らずとせよ、是れ知れるなり」とは実に人智の絶頂である。 然るに、我等は容易に此に安住することが出来ぬ。私の如きは、実にわこがましき意見を抱いたことがありました。然るに、信念の幸恵により、 今は「愚痴の法然房」とか、「愚禿の親鸞」とか云う御言葉を、ありがたく喜ぶことが出来、又自分も真に無智を以て甘んずることが出来ることである。 私も以前には、有限である不完全であると云いながら、其有限不完全なる人智を以て、完全なる標準や無限なる実在を研究せんとする 迷妄を脱却し難いことであった。私も、以前には、真理の標準や善悪の標準が分らなくなっては、天地も崩れ社会も治まらぬ様に思うたることであるが、 今は、真理の標準や善悪の標準が人智で定まる筈がないと決着して居ります。 扨又、如来は無限の能力であるが故に、信念によりて大なる能力を私に賦与し給う。我等は通常、自分の思案や分別によりて進退応対を決行すること であるが、少し複雑なことになると、思案や分別が容易に定まらぬ様になる。それが為に、段々研究とか考究とか云うことをするようになる。 而して前に云うが如き標準とか実在とか云うような事を求むる様になりて見ると、行為の決着が次第に六ケ敷なり、何をどうすべきであるやら、 殆ど困却の外はない様なことになる。言葉を慎まねばならぬ、法律を犯してはならぬ、道徳を壊りてはならぬ、 礼儀に違うてはならぬ、作法を乱してはならぬ。自己に対する義務、他人に対する義務、家庭に於ける義務、社会に於ける義務、 親に対する義務、君に対する義務、夫に対する義務、妻に対する義務、兄弟に対する義務、朋友に対する義務、善人に対する義務、悪人に対する義務、 長者に対する義務、幼者に対する義務等、所謂人倫道徳の教えより出づる所の義務にても、之を実行することは決して容易のことでない。 もし真面目に之を遂行せんとせば、終に「不可能」の嘆に帰するより外なきことである。私は此「不可能」に衝気当りて、非常なる苦みを致しました。 若し、此の如き「不可能」のことの為にどこ迄も苦まねばならぬならば、私はとっくに自殺も遂げたでありましょう。 然るに、私は宗教によりて此苦みを脱し、今は自殺の必要を感じませぬ。即ち、私は無限大悲の如来を信ずることによりて、 今日の安楽と平穏を得て居ることであります。 無限大悲の如来は、如何にして私に此平安を得しめたまうか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さることによりて、 私を救済したまうことである。如何なる罪悪も、如来の前には豪も障りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。 何事でも、私は只自分の気の向かう所心の欲する所に順従うて、之を行うて、差支はない。其行が過失であろうと、罪悪であろうと、 少しも懸念することはいらない。如来は、私の一切の行為に就いて責任を負うて下さることである。私は、只此如来を信ずるのみにて、 常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は一切の場合に遍満してある。如来の能力は十方に亙りて、 自由自在、無障無礙に活動し給う。私は、此如来の威神力に寄託して、大安楽と大平穏とを得ることである。 私は、私の死生の大事を此如来に寄託して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり、富貴天にあり」と云うことがある。 私の信ずる如来は、此天と命との根本本体である。
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