コロンボ警部の大好物

【Chili con Carne with Crackers】 調理および撮影:あおいしんご


“この料理はね、クラッカーをかけて食うんですよ。”
小池朝雄の声で喋るピーター・フォーク(注1)の掌で、四角い物体がくしゃっと潰れた。
料理のトッピングに砕いたクラッカーを使うこと自体も新鮮だったが、まだ10才のガキには
その、如何にも食べ慣れてますと言った風情でコロンボ警部(注2)が口に運ぶ、
煮詰めたブラウンソースのような食べ物が何なのか、気になって仕方なかった。
「ねぇ‥あれって、お母さんにも作れる?」
10才のガキ、つまり当時の私は、もうTVの前の偽装誘拐殺人事件(注3)など上の空で
いままで聞いた事もない料理の味を夢想し始めていた…。

かのビル=ゲイツがチリ・パーティーを催すご時世なのだ。“Chili con Carne”
チリコンカン、あるいはチリコンカルネと称されるこの料理がメキシコに端を発する
アメリカの大衆料理であり(注4)、牛挽肉と赤インゲン豆をトマトとチリパウダーで
煮込んだものである事など周知の事実であろう。 しかし、’70年代、まだ珍しかった
“デニーズ”のメニューにそれが在った事は、充分驚きと賞賛に値する事だったのだ。(注5)
“コロンボ警部の大好物”と謳われたそれを食べた私の感想は一言「美味しい!」だけ
だったが、母の見方は少し違っていた。
「これなら、家でも作れるわね…」  以来、チリコンカルネは私の大好物になった。


まだ、日本の食文化と家庭の団欒がセブン=イレブンとマクドナルド、それにカップヌードルの
絨毯爆撃を受ける前の話だ。家庭の台所にインスタント食品を持ち込むことを
“主婦の堕落”と呼んで堅く戒めていた母は、いま思い出せる限りでも殆どあらゆる
種類の食べ物を手作りしていた様に思う。自家製のバターロール、クッキー、アイス
クリーム程度は言うに及ばず、クリスマスには美味しい詰め物のたっぷり入った
ロースト・チキンを焼いてくれたし、正月には爼板3枚を横に並べても
まだはみ出るような巨大な鰤(ぶり)を、立派なお造りに捌いてくれた。
―つまるところ、お袋の味に関しては、私は恵まれていたのである。―

石油ショックが始まるほんの少し前、おそらくその辺りが父と母と子供達(つまり、私だ)に
とって、一番幸せな時期だったろう。父は、“定時に帰って、明るい家庭”
実践していたし、日曜は必ず家にいて、子供達の相手をしてくれた。
どうと言うこともない、普通の公団住宅に暮らしていたが、病弱の弟の看病に
明け暮れたそれ以前の生活に比べれば夢のような日々である。
当時の私の最大の楽しみは、日曜の朝食だった。ブロンディ=エイジ(注6)の父や母に
しては、何故かポップアップ・トースターだけが見当たらなかったが、熱々の
バウルー・サンドウィッチや甘くてこってりとしたオートミール、サイフォンでゆっくりと
煎れたコーヒー。 ぶっちゃけ、“豊かなるアメリカの一家団欒”ごっこ だったのかも
知れないが、幸福な気分はヘリウム・ガスでぱんぱんに膨らんだ風船みたいに
満ち充ちていたし、手で触れるとキュッキュッと音まで聞こえてきそうだった。


やがて、父の転勤と単身赴任、それに私の反抗期とお定まりの受験戦争までが
一挙に押し寄せてきて、風船はみるみる萎んでいった。しかし、それでもなお
母は台所をセブン=イレブンとマクドナルド、それにカップヌードルに明け渡したりは
しなかったし、ひねくれた息子に手を焼きながらも、せっせと美味しい手料理を作り続けて
いた。 世間知らずの小僧(つまり、私だ)には、それがどんなに有り難く、かけがえのない
日々だったか、少しも判っちゃいなかったのである。


不思議なことに、親元を離れ、独自の生活を営むようになってからも、私は母の
手料理の味を、あまり恋しいとは思わなかった。些事における煩わしさはあったが、
セブン=イレブンとマクドナルド、それにカップヌードルがもたらすチープな食文化にころりと
騙され、堕落という名の快楽に溺れていたのだ。“どうせ家に戻れば…”といった甘えが
私の中にあった事も否めない。石田太郎の声で喋る、白髪の増えたピーター・フォーク(注7)が
相変わらずチリコンカルネを食べ続けていたのと同じ位、私にとって母の手料理は
“人生の定番メニュー”でしか無かったのだ。

それから15年は文字通りあっと言う間だった。そして、実家の建て替えのため、
一時的に宿無しとなった両親と弟と、半年ばかり一緒に暮らすこととなった。
懐かしい顔が揃っているのに、どこかくつろげない同窓会の様な生活とでも言えば
よいのだろうか?いい歳をした独身男(つまり、私だ)が、子供時代に還れる筈も無いし、
父も母も、ずいぶんと居心地の悪い思いをしたに違いない。(注8) 当然のように
台所に立ってくれた母に、私は何の気無しにチリコンカルネを所望した。
きっかり15年振りだった。

母が供してくれた湯気の立つチリコンカルネは、確かに記憶に在るままの色と匂いだった。
だが、口に運ぶとそれは、まるで塩気の足りない、昔大好きだったものとは程遠い
薄ぼけた味になり果ててしまっていた。 申し訳なさそうに、母が言った。
「血圧が下がらなくて、減塩食を続けているから、味が判らなくなっちゃったのよ…」
コロンボ警部でなくても、ケチャップと塩が欲しくなるようなチリを肴に、私はかなりの量の
酒を飲んだ。そうでもしないと、押し寄せる後悔で涙が出そうだったのだ。


お袋の作った味噌汁が一番だ、と広言して憚らない人種(注9)は存在する。私はそれを
精神的に乳離れしていない証拠だとして秘かに軽蔑しているが、そんな私でさえ、
本当に大切なものを、自分が如何に粗末に扱ってきたかを思い知らされると、
どうにかして喪った時を償えないものか、などと考えてしまう…

コロンボ警部は今でもあの店で、黙々とチリコンカルネを食べ続けているのだろうか…?


                      この稿を起こすにあたり、料理本のレシピ通り
                     チリコンカルネを作ってみました。
                    母さん‥あの味はどうやって出すんですか…?


(注1) 我が国におけるコロンボ・ブームの大半は、この東映の名バイプレイヤーの声の演技に依る所が大きい。
     後番組『警部マクロード』では日活のガンマン宍戸錠氏を起用する等、この時期の吹替版のキャスティングは
     冴えに冴えていた。

(注2) 実は警部補(ルテナント)だという事は誰でも知っている。だが、「コロンボ警部」と言う響きの良さを優先した
     翻訳スタッフの英断は間違っていない。『宇宙大作戦(スター・トレック)』の「カーク船長」然りである。

(注3) この時観ていたのは『死者の身代金(RANSOM FOR A DEAD MAN)』。犯人役のリー・グラントの吹き替えは
     後に“ゴルフ国会すっぽかし事件”で有名になる山東昭子女史。

(注4) 直訳すると“牛肉の赤唐辛子煮”。「若い頃、進駐軍のコックにこの料理を教わった。」と言う話をよく聞くので
     ラーメンやカレーの様に、(アメリカにとって)外来の国民食と考えるべきだろう。

(注5) 昔の話で、今は無い。そう言えば、昔はナントカ丼だのナントカ御膳だのといった、何屋だか判らないような
     メニューも無かった…。

(注6) サザエさん以前、主要紙に掲載されていたアメリカの4コマ漫画。顎が外れそうなサンドウィッチや、巨大な
     電気冷蔵庫…。戦争に負けた事より、“底抜けに豊かなアメリカ”を見せつけられた事こそ、戦後日本の
     最大のトラウマなのだ。

(注7) 小池節を見事に演じてらっしゃるが、この方の声を聞くと「あ、カリオストロ伯爵♪」と、つい思ってしまう…。

(注8) 父や母がこれを読むとは思えないが、やはり書かずにはいられない。
     「数々の失礼な態度、心よりお詫びいたします。すみませんでした。」

(注9) もし貴方に料理を作って呉れる彼女がいたとしたら、これは絶対禁句である。マザコンの烙印を押され
     まず確実に嫌われる。(いやマジで!)


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