線路のある風景

【小田急多摩線 黒川駅近辺からの眺望】 撮影:あおいしんご


「チェックメイト・キング2,こちらホワイトロック…」
友人のOが、“COMBAT!”のマーチ(注1)を口笛で吹き始めた。
きっと居合わせた誰もが、横殴りの雨に濡れ、トラックの荷台に揺られている
今の気分にぴったりだと思ったに違いない。何しろ、ほんの数秒後には
その口笛は四重奏になっていたのだから――

別に、ノルマンディの橋頭堡からフランス解放のため進撃中、という訳でもなかった。
ヒッチハイクを試みた男子高校生4人組が運良く(本当に幸運だった)、拾えたのが
どこかの工務店の2t トラックだっただけの話だ。
こんな形で家路を目指すのは皆初めてだったが、気分だけは妙に高揚していた。


その年は、きっと台風の当たり年だったに違いない。憶えている限りでも
体育祭の延期、マラソン大会の中止と、学校行事は打撃を受けまくっていた。
朝から雲行きの怪しかったある日、1時限目が何の説明もなく自習となり、
「台風直撃だって言うからな、休校じぇねェの‥?」
「きっと、そのための職員会議とかやってんだろ?」
そんな会話が、クラス中に充満していた。案の定というか、担任教諭がやって来て、
「本日は休校となりました。速やかに下校して下さい。」
歓声と、“だったら最初からそうしろよ!”と不満の声が同時に上がった。
とにかく、今日は休みなのだ。

学校側の目論見では、台風で交通機関に影響が出る前に生徒は帰れる筈だった。
だが、気象庁の予想以上の速度と暴風雨のため、我々が駅にたどり着く頃には、
電車は上下線ともとっくに運休になってしまっていた。
電車通学の生徒全員が、台風より何故か教師どもに対して怒りを感じていた。
              「どうする…?」
「どうするったって、何とか帰る方法を考えにゃ…」
運転再開を待つ、という手も無いではなかったが、私のグループ(悪ガキ4人組)は、
“ヒッチハイクで、行ける所まで行ってみよう!”と、無謀な結論を出した。
その結果が、冒頭のトラックの荷台だったのだ。(注2)


サンダース軍曹ごっこにも飽きると、私達4人はいつもの如く他愛ないお喋りに終始した。
“YAMAHAのRZ(注3)は250と350、どっちが良いかな?” “それは、やっぱ‥”
 “劇場版『機動戦士ガンダム』、観てきたよ。” “何だお前、抜け駆けかよ?”
“Billy Joel の新譜(注4)ってどうよ?” “今度貸してやるよ。”
お馴染みのだらだらトークは、私の何気ない、しかし不用意な一言で凍り付いた。
「明日、進路相談だよな‥?将来の事って、考えてるか…?」
友人O もF もT も、一様に黙り込んでしまった。振った私自身も二の句が無かった。
荷台に吹き込む雨風の音だけが、相変わらず賑やかだった。

「悪ィな、兄ちゃん達…此処で降りてくんねェか?」
人の良さそうな工務店の親父さんが、申し訳なさそうに言った。自分はこれから
高速に入って都心まで向かうこと、ラジオの台風情報によれば、台風は遠ざかりつつ
あり、各列車は運転再開の準備をしていること等を教えてくれた。
私達4人に、選択の余地は無かった。駅で言えば4つ分進んだだけでも御の字なのだ。
駅前で私達を降ろしたトラックが行ってしまうと、友人F が言った。
「俺ん家、此処から近いからな…。歩いて帰るわ。」
別に、羨ましいとも思わなかった。“あっそ、じゃあな。”それだけの事だ。

友人F はその後、家業の酒屋を継いだ。元々、勉強嫌いなタイプだったのだ。
今では二児の子宝に恵まれた若旦那であり、年季の入った酒屋の建物は、
小綺麗なコンビニに生まれ変わったらしい…


「いっそのこと、線路を歩くか…?」
学生で溢れかえった駅ならば、思いもつかなかったに違いない。だが、F を欠いた
私達3人以外誰もいないような閑散としたホームで、いつ来るとも知れない電車を
待つよりかは、素晴らしく建設的な意見に思えたのだ。少なくとも、その時点では―
かくして友人OとT と私は、残り4つ分の路線区間を、てくてくと歩き始めた。

歩き始めてすぐ判ったことは、“線路とは、電車が走るためにある。”という事だった。
何を当たり前のことを、と思われる方は、実際に線路の上を歩いてみるといい。
枕木の感覚も、敷石の大きさも、まるでわざと人が歩き難いように作ってあるかの如く
感じられて仕方なかったのだ。(注5)
ようやく1駅分を過ぎる頃には、3人ともめっきりと口数が少なくなっていた。
「俺さぁ‥次の駅で××線の乗り換えを待つよ…。」
友人T がそう言った。彼の通学路から言えば、最も無難な選択だった。

友人T はその後、当時ブームだったアニメの制作者になりたいが為、代アニ(注6)に
通い始めた。彼が望み通りの者になったかどうか、私は知らない。
ペンネームを用いているのなら、ぜひ教えて欲しいものだ…


残り3駅分、いちばん仲の良かった友人O と一緒だったので、私は大丈夫だった。
トラックの上では立ち消えになった将来の話も、2人きりなら心おきなく語り合えた。
             「大学に進んだ方が、就職は有利かな…?」
             「でも、あと4年間も親のスネ囓りってものなぁ…」
             「大学に行って、何か勉強したい事ってあるのか‥?」
             「それが無いと、時間の無駄になるだけか…」
足の裏でゴロゴロする敷石の感覚と、堂々巡りになる会話のせいだろうか、この線路が
なにか永遠にゴールの無い無限軌道のように思えてきた。
我に返ったのは、微かに聞こえてきた警笛のお陰だった。
「何か聞こえないか…?」
「電車、動き出したのかな‥?」
何にせよ、もう線路を踏ん付けて歩くわけにはいかない。慌てて敷地の外に出た。
10分後、やって来たのは線路点検用のマッチ箱みたいな点検車両、しかも
たった1両の電車だけだった。のろのろと、それは通り過ぎた。
「バカにしやがって‥」 2人とも、また線路の上を歩き始めた。


風邪は止み、雨は上がり、雲間に虹さえ見え始めた。もう、駅も間近だった。
「俺‥やっぱり高校出たら就職するよ…」
私達4人組の中では一番成績の良かった友人Oの言葉に、私は少なからず動揺した。
恥ずかしい話だが、“Oが進学するなら私も‥”ぐらいに考えていたのだ。
「はやく自分で稼いで、自分の車を買って、はやく独立したいからな…」
その気持ちはよく分かったが、義務教育プラスアルファで人生に必要な知恵を
すべて手に入れたことになるのか、私には自信がもてなかった。
そんなものは、働きながら身につければいい。そう言って、Oは笑った。
私は、彼の如才なさが、心底うらやましくなった。

友人Oは、当時の電電公社(現在のNTT)に就職した。半年後には、自分の車を
持っていた。現在では人事関係の、そこそこ重要なポストに就いているらしい…

結局、私達4人組の中で大学に進学したのは私1人だけだった。(注7)
その選択が正しかったのかどうかは、まだ私自身にも分からない…


望むなら急行列車でも、各駅停車でも選べるだろう…別の路線に乗り換えることも。
だが、人生と言う名のレールを途中下車することだけは許されないのだ。
――少なくとも、自分にとっての終着駅を見つけるまでは――


                      映画『STAND BY ME ('86 米)』が作られる
                       5年以上前の話です。蛇足ながら‥


(注1) 我が国に於ける初出はTBS系列の海外ドラマ枠(’62)。私の世代はフジTVの再放送で知ったクチである。
     そう言えば、ハリウッドがブルース・ウィリス主演でリメイクするなんて話もあったが、どうなったのだろうか…?

(注2) 学校側のお達しでは、「遊技場や飲食店に立ち寄らず、真っ直ぐ帰ること。」となっていたが、元々が辺鄙な
     場所に建っていた高校なので、電車が動いていない限り、立ち寄りたくても立ち寄りようが無かった。
     後で聞いた話では、電車が運転を再開したのは、たっぷり5時間は経ってからの事だったらしい。

(注3) 80年代の最新マシン、ヤマハRZは皆の憧れだった。(当時としては)ロケットみたいな加速感と、低回転域
     ではスクーター並みのトルク感の無さが、今となっては懐かしい…。

(注4) ここで話題にしているのは、アルバム『Innocent Man』。収録曲の殆どがシングル・カットされるヒット作。
     しかし、『The Stranger』以前からのファンだった私は、彼の変貌ぶりに少々違和感も感じていた。

(注5) 枕木(最近はコンクリート製)は意外に高さがあって、上手く歩幅を合わせないと敷石に足を取られる。
     ずいぶん後になって、臨時に請け負った保線の仕事でJR線を歩いたが、やはり同じだった。

(注6) 『代々木アニメーション学院』の略。友人Tと私は、運動部とアニメーション研究会を掛け持ちしていた。
     講師はシンエイ動画にコネのある美術教師で、ドラえもんの原画を教材に、中割りの描き方等を教わった。

(注7) 進学校ではなかったので、大学に進んだのはクラスの3分の1にも満たなかった。就職先として意外なほど
     自衛隊に人気があったのは、やはり 『COMBAT!』の影響であろう。災害救助やイラク派兵等のニュース
     映像を目にする度、今でもつい、知った顔がいないか探してしまう…。



トップへ
トップへ
戻る
戻る