Irish Coffee〜sweet and bitter〜

【東京都:新宿センタービル53階から眺める中央公園一帯】 撮影:あおいしんご 


【アイリッシュ・コーヒー】:アイルランド、ダブリン空港生まれの飲み物。
                煮立ったコーヒー、アイリッシュウィスキー(注1)、 
              赤粗目糖、クリーム、シナモン等から成る。

アイリッシュ・コーヒーが好きだった。
正確に言えば、高層ビルの最上階にあるカフェで飲む、アイリッシュ・コーヒーが好きだった。
もっと正確に言えば、地上200mの展望を楽しみながら、彼女と差し向かいで飲む
アイリッシュ・コーヒーが好きだったのだ。
――もう、随分と昔の話になる――


【国立病(くにたちびょう)】:全寮制の研修所で芽生える恋愛感情のこと。   
             施設のあった場所にちなんでこう呼ばれた。

もちろん、こんな名称は極々限られたコミュニティ(注2)、と言うか職種にしか通用しない。
実際の所、「通常では成立しないであろう意外なカップル」 の意味のほうが大きかった。
何にせよ、ビジネスマナー云々より他所属の同期生とコミュニケーションが取れることの
ほうが大事だったし、まだまだ学生気分の抜けきっていない男女の集まりであるため、
連帯感以上の感情が生まれても、何の不思議も無いような空間だった。(注3)
かくして、周囲に散々冷やかされながら、私とR子は付き合い始めたのだった。

「山口百恵の家とプールバー、どっちに行きたい…?」

ここで、私とR子のどちらかが“山口百恵の家”(注4)を選んでいたら、その後の運命は
多少変わったものになっていただろう‥。研修が休みとなる土曜の午後は、取り敢えず
何となく意気投合したグループ同士で国立の街を散策するのがお定まりになっていたのだ。
山口百恵組とプールバー組、ほぼ2等分に人数は分かれたが、2人とも他人の家の
覗き見より、カクテルでも飲みながらナインボールに興じるほうを選んだのだった。

R子のキュー捌きは私より上手だったが、ブレイクショットの力強さ(注5)は私に分があった。
「Rちゃん、上手いじゃん…?」
「K君のほうこそ…。どこで練習したの?」
周りの連中の「お?新カップル誕生か!?」 等の野次も、まるで耳に入らなかった。
と言うのも、同期生の中でいちばん大人びた容姿と物腰を持つ彼女に、私は秘かに
狙いをつけていたのである。
ゲームの方は僅差でR子の勝ちだった。当然、私はリベンジマッチを要求した。
―つまり、グループ交際ではなく…2人きりでって意味だけど‥―
彼女は快諾してくれた。それが始まりだった。


「私ね‥本当はスチュワーデスになりたかったの…」

何度目かのデートの際、そう打ち明けられた。英語はすこぶる堪能だったし、容姿は
誰が見ても“美人”と評するだろうR子が、なぜ自分の夢を叶えられなかったのか私には
不思議だった。(当時の)私達の商売は、旅客やら航空やらにはまるで縁が無かったのだ。
「いつまでも夢を追いかけて、お父さんやお母さんに迷惑掛けたくないし…」
聡明なだけでなく、堅実な女性だった。R子といる時は、私は聞き役の方が多かった。
「悪いね‥。気の利いたことの言えるヤツじゃ無くってさ…」
「こういうのってね‥聞いて貰えるだけで嬉しいんだよ…」
仕事の事‥家族の事‥これからの事‥彼女は思いのほか饒舌だった。
相槌をうちながら共に笑い、怒り、時には悲しんだ。そんな積み重ねが、二人の距離を
どんどん縮めていったのだと思う。

「まるで、飛行機の窓みたいだね‥?」

“緑の公園を散歩するのが好きだ。”というR子に気に入って貰えるか確信はなかったが、
ある日、彼女を新宿都庁近くにある高層ビルの展望カフェに誘ってみた。
眺めは最高だったし、“晴れた日は、アメリカまで見渡せるんだぜ。” なんて冗談が
冗談に聞こえないくらい延々と続くパノラマに、R子は魅了されていた。
この店で、景色と同じ位気に入っている飲み物を、私はオーダーした。
「アイリッシュ・コーヒー‥?」
「試してみる…?美味しいよ。」
耐熱グラスの中で、クリームの白、コーヒーの黒、ウィスキーの琥珀がゆらゆらと
揺れていた。正式なやり方は角砂糖にウィスキーを染み込ませて火を着けるとか、
ステアせずに三層の味を楽しむとか、そんなどうでも良いようなウンチク話(注6)も、
彼女にはたいそう新鮮だったらしい。この日以降、待ち合せによくこの店を使ったが、
R子が注文するのは決まってアイリッシュ・コーヒーとなった。
「私‥K君の奥さんになったらね…」
「子供は男の子と女の子、1人ずつがいいな…」
そんな会話に、アイリッシュ・ウィスキーの甘い香りはよく似合っていた‥似合い過ぎていた。


「私と、お付き合いしてくれませんか…?」

およそ心身共に健全な成年男子なら、この一言に対し、溢れ出るドーパミンを
抑えることなど出来ないであろう。 それがたとえ、既に深い仲となった恋人が
いる男であったとしても‥だ。
相手は1年後輩のS美。どこか甘ったれた子犬を思わせる、人懐っこい娘だった。
その明るいキャラクターで、R子とは違った意味で皆の人気者だったし、私も職場内では
妹が出来た様な気分で可愛がりもした。しかし、それはあくまで“妹”に対する愛情であり、
彼女がそれ以上の感情を私に抱いているなどとは、思いもよらなかった。
神掛けて誓うが、二股をかける気など毛頭無かったし(第一、私はそんなに器用じゃない)
考えていた事は“どうすればこの娘の気持ちを傷付けずに、上手に断る事ができるか?”
その一点だけだった。
「気持ちは嬉しいんだけどさ‥少し考えさせてくれよ…」
― 情けないことに、そう言って結論を先送りするのが精一杯だった。―


    【Masquerade】:マスカレード、仮面舞踏会(本音を隠すもの)の意。
             L・ラッセルが歌う同名曲(注7)はつとに有名。

「R子、怒ってるらしいぜ‥?」 
電話にもポケベルの呼び出し(注8)にも応じようとしない彼女にやきもきしていると、
同僚の一人がご親切にも教えてくれた。いわゆる“社内恋愛”であるのだから、
他人の噂に上ることは覚悟済みだったが、どう考えてもこれは愉快な状況ではない。
恥を忍んで他の女子社員に頼み、R子に連絡を取って貰った。
「どうしても今夜逢いたいので、いつもの場所で待っている。」
メッセンジャーを務めてくれた女子社員が返事を運んできてくれた。答えは“YES”

アイリッシュ・コーヒーの待つ、いつもの展望カフェに現れたR子は、いままで見たことが
無いような硬い表情だった。何から説明したものか、誰から何を聞かされたものか
てんで判らなかったが、私は事の顛末を説明した。つまり、誤解であると。
「S美ちゃんがね‥K先輩に告白して、返事を待ってるんだって…。」
女子社員同士の横の繋がりにまるで疎かった自分を呪いたい気分だったが、とにかく
やましい事は何も無いのだ。S美には明日ハッキリ断わる。それでいいだろう…?
「どうして、その場で断らなかったの‥?少しはその気があったって事でしょう…?」
「それは違う!あの娘を傷付けたくなかっただけだ。」
「私が傷付くとは、考えなかったの…?」
「………………。」
怒りと無力感のない混ぜになったものに支配され、私は何も言えなくなった。
テーブルの上のアイリッシュ・コーヒーは、口をつけられる事さえ無かった……

結局、R子とはそれっきりになり、だからといってS美とも付き合うことはなかった。
何と言うか、恋愛に関する諸々のすべてが、ひどく億劫になってきたのだ。
転勤の話に飛びつき、私は逃げる様に都内から去ってしまった。

暫くしてから、R子が1年後輩で年下の男と付き合いはじめた事を風の便りに聞いた。
なんでも、(私と違い)爽やかなスポーツマンタイプの好青年で、同期の出世頭と
期待されている奴との事だった。 ほんとうに彼女は、聡明なだけでなく、
堅実な女性だったのだ。

煎れたてのアイリッシュ・コーヒーは火のように熱く、薔薇のように薫り、恋のように甘い。
しかし、時を経て冷め果てたそれは、只の濁った、甘ったるい液体に過ぎない……。

以来、私はアイリッシュ・コーヒーを飲んだ事は無いし(注9)、これからも無いだろう…
時はいつだって容赦なく、すべての熱を奪い去ってゆく…
――これはなにも、コーヒーだけに限った話ではない…――


                         ※文中の名称は、一部仮名となっています。


(注1) KILBEGGANにせよ、BUSHMILESにせよ、生のまま飲むウィスキーとしては私の好みではない。
     私は専らバーボン、それもEARLY TIMESを愛飲している。ちなみにこの酒、故・松田優作もこよなく
     愛していたそうである。

(注2) ズバリと言うと中央郵……止めておこう。殺人の時効は15年だが、この件に時効はないだろうし、
     苦い思いをする者は私だけではあるまい‥。

(注3) 名誉とモラルのため言っておくと、男女は当然別棟で居住していたし、舎監は24時間目を光らせていた。
     しかし、先輩諸氏の知恵と工夫は秘密裏に申し送り(笑)されており、抜け道があった事も事実である。

(注4) 当時も今も、何故か“三浦友和の家”とは呼ばれない。見学ツアーよろしく出かけた同僚たちによると、
     “グレイの壁に囲まれた要塞みたいな建物で、表札すら確認できなかった。”そうである。

(注5) 映画“The Color of Money”(邦題:ハスラー2)の原作本にある通り、ブレイクショットを破城鎚の
     ように力強く打てば、さほど難しいゲームではない。R子はクッションボールの処理が抜群だった。

(注6) 今は無き歌舞伎町のダイニングバー『Sya Pelsia』のウェイター氏が教えてくれた。角砂糖に
     火を付けるやり方はアイルランド風なのか、この店のオリジナルだったのかは、今でも判らない…

(注7) “やり直したいのに、仮面舞踏会の出口が見つからない…”そんな内容の哀しいラヴ・ソング。
     正確には『This Masquerade(’72)』。

(注8) 携帯電話が普及する前の話。あの頃は、“文字が送れるポケベル”の存在すら珍しかった…。

(注9) そんな訳で、トップ絵(写真)に写っているのもアイリッシュ・コーヒーではなく只のカプチーノである。
     久々に訪れたのだが、写真だけ撮ってそそくさと帰ってしまった。さぞかし、変な客だと思われた事だろう…


トップへ
トップへ
戻る
戻る