学校を出た時、芙爾達以外にも校内に残っていた生存者はいたらしく変に疑われるような事はなかった。
樹下先生が自分を心配してくれていたのが、芙爾にとっては何よりも嬉しかった。
それで、最上や永輝との一件で傷付いた心が少し癒えた。
焼け石に水とはよく云った言葉ではあるが。
学校付近は慌しく警察関係者の出入りがあったが、溢れ出る生徒の流れを止めるには至らず、何人かは騒ぎのどさくさに紛れて学校を後にしていた。
芙爾もそんな彼等に紛れて学校を後にして家への帰路を辿った。
家にやっとの思いで辿り着いてから、芙爾は振り返りたくもない一日を振り返った。
重文の喰われる瞬間が目蓋から離れてくれない。
漂流するように辿り着いた教室の惨劇が頭から抜けてくれない。
そんなネガティヴな事ばかりの一日を振り返った所為で、再び忘れかけていた恐怖が甦る。
それを必死で振り払おうと、芙爾はMDのボリュ−ムを上げた。
その時、電話がかかってきた。
一瞬戸惑ってから、芙爾は受話器を取った。
川上ではなく、夏実からであった。
『カナ…無事だったんだ』
夏実は何故か芙爾を『カナ』と呼ぶ。
鹿嵐だから『カナ』なのだろう。
絶妙な安堵感を与えてくれるその声を、芙爾は好きである。
「一応無事ッスけど…何ッスか?」
『そうそう…連絡網なんだけどさ。学校はやっぱ当分、休校だってね』
受話器越しの夏実も何か戸惑っているようである。
無理もない…たった一日で、多くの人間はその許容範囲を超える体験をしてしまった。
皆、それぞれの今日一日を振り返り…悩んでいるのだろう。
『あ、あとさー』
「へい?他に何か?」
『裕一郎は命に別状はないってさ…良かったよ』
「は?」
芙爾は過去最高を更新するほどの間抜けな声を上げた。
会話の筋道を見失ったくらいである。
夏実の声は芙爾の応対を訝しがったが、その後に、自分が裕一郎を屋上で発見するまでの経緯をちゃんと説明してくれた。
芙爾の心に複雑な想いがこみ上げてくる。
「そッスか…裕一郎の奴、無事だったんッスか…」
『アンタ達、一緒じゃなかったから心配したんだよ?』
「あ…重文は…」
そう云いかけて、芙爾は言葉を濁した。
云いたくなかった。
裕一郎を見捨てたという事実も…重文が死んだという事実も…永輝との諍いも。
『どうしたんカナ?』
「いや…何でもねぇッス。今日はもう疲れたんで、寝ていいッスか?」
適当に誤魔化して、芙爾は会話を切った。
夏実も、彼を追及しようとはしなかった。
軽くお互いに挨拶を交わして、電話を切った。
刹那、間髪入れずに二回目の電話が鳴る。
「はい、鹿嵐ですが?」
『鹿嵐か?私だ…』
受話器から、ほんのり天国気分でいた芙爾を地獄に叩き落とす声が聞こえた。
川上の声である。
少し安心した後に、それがただの幻だったと分からせる声、現実を告げるかの如し声である。
『明日、私の家に来い…午後一時にだ』
「家って…俺、先生の家なんて知らないんッスけど」
『契坂市願町6−98だ』
「いや、サラッと言われても…」
川上は有無を云わさぬ口調で続けた。
芙爾は言葉を詰まらせる。
この男の話し方にはついていけない。
それでも、このままではどうしようもないので、芙爾は川上に云った。
「あの…俺、方向音痴なんで…」
『そんなに私の家に来るのが面倒か?』
川上は一瞬で芙爾の本音を読んだ。
本当に人を落ち着かせてくれない。
『まあいい…使いの者をやる。そうすれば、いくらお前がグ−タラでも来ざるを得まい』
「つ、使いの者…!?」
アンタ、何者だ?…と、芙爾は川上を小一時間ほど問い詰めたくなった。
しかし、まず間違いなく曲者であり化け物であり只者じゃない事だけは悟っているので、失言は避ける。
それよりも、使いの者という漠然な言葉だけでは、色々な想像が浮かんでしまう。
その全てがネガティヴな発想だった。
「あの…」
『何だ?』
「その、使いの者ってのは…人間ですよね?」
芙爾はとりあえず、まず一番最初に確認したかった事を川上に問う。
川上に眉がつり上がった…ような感じを、受話器越しの芙爾は想像した。
妄想だとは思うが、妙に確信めいたモノを感じてしまう。
『…何を想像した?』
凍えそうな声が受話器から流れてくる。
機嫌を損なったようである…芙爾は恐怖した。
『悪魔でも来ると思ったか?何だったら、送ってやってもいいぞ?』
「か、勘弁して下さい…」
芙爾は受話器の向こう側の相手に平謝りをした。
川上を敵に回す事ほど、今の芙爾には怖い事はない。
『…まあいい、分かったな?拒否権はお前にはない…』
「…分かってるッス」
芙爾は唾を飲み込んだ。
決意の表れのような意味合いがある。
『お前にしては善い返事だ…では、明日、また会うとしよう』
「はい…」
『…今日は災難だったな。早く忘れろ…』
初めて川上が芙爾を案じる言葉を声に出したかと思うと、突然、電話が切れた。
今のが川上からの労いの言葉だったのか、励ましの言葉だったのか同情の言葉だったのかは、芙爾には知りようがなかった。
芙爾は受話器を置いてから、ポケットに入れっぱなしだった携帯電話の画面を覗く。
着信あるいはメ−ルの類はなかった。
「(寂しい…)」
実は、芙爾は一時間ほど前に、永輝にメ−ルを打っていた。
その返事が一向に来ないのである。
女子高校生の間には五分以内にメ−ルの返信をしなければならないという、暗黙の“五分ル−ル”があるらしい。
それで、彼女達は友情を確認するのだ。
返信が来ないという事は、即ち絶交を意味する。
「(都馬…)」
永輝と芙爾は、一番の親友という訳では決してなかった。
グ−タラな芙爾としては、自分から誰かにメ−ルを送ったという事は殆ど記憶にない。
永輝だって、そんな連中の一人だ。
でも、永輝は高校に入学した彼に、誰よりも最初に声をかけてくれた…友である。
絶交なんてしたいハズがない。
「(弱いな俺は…)」
いかにもかったるそうに頭を掻きながら、芙爾は台所に向かった。
夜の八時…小腹が空いていた。
何だかんだ云って、人間は結局、腹を空かせる生き物なのだ。
その時、玄関の鍵が外れる音がした。
人の気配もしてくる。
この時間帯に帰ってくるのは姉の葉子しかいない。
然して気にも留めず、芙爾は冷蔵庫の中の牛乳に手をかけた。
芙爾はそれを飲もうとしたが、不図、気付いた。
「(フェイがいない…!)」
嫌な予感がして、芙爾は居間へと向かった。
手遅れだった。
「苺が好きなの?」
「ウン!」
居間で繰り広げられている光景を見て、芙爾は目眩を覚えた。
帰って来たばかりの葉子は、フェイといつの間にか和んで、会話を弾ませていた。
フェイはテ−ブルの上に乗っているイチゴのショ−トケ−キの上のイチゴだけを取って、自身もテ−ブルの上に置かれた佃煮の瓶詰めに座って、それをかじっている。
一方で、極甘党の葉子は、シンボルたるイチゴをもがれたショ−トケ−キにフォ−クを刺していた。
「ケ−キは嫌いなの?」
「あんま、好きじゃないよー。でも、上に乗ってるイチゴは大好き♪」
「へ〜…変わってるね」
葉子は何も気にならないのだろうか?…立ち尽くした芙爾は、そう思った。
神経が太い姉とは思っていたが、ここまでごんぶとの極みとは思ってはいなかったのである。
「あ、芙爾!アンタ、何ボーッとしてるのよ?」
「いや、姉貴…少しは驚かないの?」
「何云ってんのよ?別に、アンタにロリコンの気があっても今更、驚かないわよ?」
論点が既に違った。
芙爾は松尾 芭蕉の古池よりもシミジミとさせる溜息を吐いた。
この姉貴殿下には困ったものだ…と。
「だからさ〜…そいつ見て何も思わないの?」
芙爾はフェイを指差して云う…が、葉子はキョトンとした表情をして、
「かわいいと思う」
とだけ云った。
「食べたいちゃいくらい…」
しかも、付け加えなくてもいい危ない台詞をわざわざ付け加える。
芙爾は頭痛までも覚え始めていた。
フェイはそんな二人を気にせずに、一人でイチゴを食べて御満悦のようである。
「それはともかく、芙爾。ちょっと、買い物行ってきてくれない?」
「何がともかくなのか、オリャーさっぱりですが?」
「訳分からんわ。チョコレ−ト買ってこい」
訳が分からないのはテメェの方だ…と、芙爾はハ−トに深く刻みながらも外出の準備を始めた。
鹿嵐家の姉弟間におけるミリタリ−バランスは、いついかなる時でも圧倒的に姉・葉子の方に傾いている。
渋々、一抹の不安を抱えながらも、芙爾は近くのコンビニまで買出しに出掛けた。
きっと、買出しの後は、肩揉み(あるいは足揉み)、そして、お茶酌みが待っているのだろう。
芙爾の溜息は人知れず、夜の闇へと溶けていった。