芙爾が市販でありながらも200円という悲劇的に半端な高値を付けているチョコレ−トを買って帰宅すると、葉子とフェイは相も変わらずに会話を弾ませていた。
両親は飲み会と残業で、まだ帰っていない。
帰ってきた芙爾に、葉子は案の定、

「紅茶淹れてね〜」

と、実弟に容赦なく我が儘を云った。
仕方なく買ってきたチョコレ−トをテ−ブルに置いて、芙爾は台所に向かい、最近の葉子のトレンドであるカモミ−ルティ−を淹れてやる。
どうせ紅茶の味なんて分かりもしないんだから贅沢言うなよな…と、芙爾は愚痴った。

「やーやーご苦労、弟君。まぁ、君も飲みたまえ」

どことなく高圧的に葉子は芙爾に紅茶を勧めた。
芙爾にはとても逆らえない。
芙爾はこの姉が好きだが、一方ではこの姉・葉子は彼の劣等感の象徴である。
小さい時から、勉強、スポ−ツ、芸術、容姿、その他諸々において、芙爾は葉子に勝った試しがない。
芙爾が私立の中学を受験して玉砕した時には、葉子は県立でトップの高校に合格していた。
芙爾が私立の高校を合格して家計を圧迫したのに対し、葉子は国立の大学を合格して逆に家計を助けている。
芙爾が高校の二年となった現在でも情勢は変わらず、彼は身長ですら葉子に勝てないという悲惨な状況を形成してしまっている。
しかも、大敗しているのならばまだ諦めが付く。
しかし、いつだって芙爾と葉子の差はほんの僅差である。
競馬に例えて云うならば、着差以上の実力差というものがある。
余裕で勝った馬と必死で走った馬との差が僅かであるという事だ。
つまり、買った馬は自分で敢えて力をセ−ブし、最低限の着差にて勝っているのである。
接戦には見えるが、実際の実力の差は画然としている。
必死で走っている馬が哀れだ…芙爾はそんな馬と自分を重ねる事がある。
そして、葉子と実力馬を重ねる事も…そう疑う度に心が虚しくなる。
その度に、激しい嫉妬の情に苛まれるのである。

「…何かあったの?」
「え…?」

突然、葉子に振られて芙爾は毎度の間抜け面になった。
頭の中には卑屈な思想が入り込んでいたので、顔が赤くなる。
しかも、今日の出来事まで再びぶり返してしまった。

「本当に何があったの…?」
「…」
「悪魔が出たの〜」

フェイが能天気な声を上げた。
テメェも悪魔だろうが!!…と、芙爾はツッコミたかった。

「ふ〜ん…悪魔ねぇ」

葉子はたいして驚かずに、その事実を耳に入れた。
どうすればこの姉鬼殿下を驚かす事が出来るのか、今度試してみようと芙爾は思った。

「ビバ郎…」
「その呼び方やめれ…」

世界広しといえど、実の弟をあだ名で呼ぶ姉は早々いないような気がする。
しかも、あだ名が強烈に意味不明だ。
あだ名というのは、意味が分からなければ分からないほど傑作だという。
それにしても、『芙爾』なのに『ビバ郎』とはどういう流れだろうか?
芙爾は不満気な顔をしたが、葉子の顔付きは真剣そのものだ。

「君には色々な災難が降り注ぐかもしれない…」
「いきなりネガティヴな話題ッスか?」
「まぁ、聞きなさい」

横槍を入れたい芙爾を、葉子は制した。

「どんな事があっても、三っつだけ守って欲しい事があるんだ…」
「は?」

紅茶を一口だけ飲んでから、葉子は話し始めた。
芙爾は虚を突かれたかのように言葉を詰まらせる。

「まず、何があっても両親の所為にしてはいけないよ…」
「う…」

芙爾はギクッと音が出てしまいそうなリアクションを取ってしまった。
図星である…彼はいつも、ついそうしてしまっている。

「次に、生まれた事を後悔する必要なんてないよ…」
「…」

芙爾は言葉を失った。
いつだって、その根本的な事を嘆いてしまう。

「最後に、いい加減、足下ばかり気にする癖は止めようね…これだけ」

またしても図星である。
つい、下ばかり見て無責任な安堵感に浸っている。
その三っつの事柄は、全て芙爾が気にしているところだ。

「あ、それにまだ言いたい事があったよ」
「何だよ?」
「何も否定せず、何も肯定しない…ってのは、君の信念だし、それが君なりの優しさでもあるからあまり口出しはしないけど、時には相手を褒めてやる事や批判してやる事も愛情になるよ…」
「何が言いたい?」

芙爾は突っ掛かった。
葉子は面白がるように続ける。

「このままじゃ、君の愛情は自己中心的な満足にしかならない…それじゃ、悲しいと思わない?」

決定的な一言を、葉子は口走った。
芙爾は身体全体でその不機嫌さを表現してみせる。
それでも、葉子は動じない。
寧ろ、マジマジと芙爾の顔を覗き込む。

「分かった?」
「痛いほどな…」

芙爾は憎々しげな含み笑いを浮かべた。
その内側で燻っている感情を隠し通せはしないが。
あからさまに機嫌が悪そうな態度で、彼は居間を出ようとする。

「ちょっと…何処行く気?」
「風呂だよ…」

そう云い残して、芙爾は居間を後にした。
葉子は溜息混じりにその後姿を見送る。

「ま、若いうちは精一杯考えて悩むもんだよ」

まるで何かを悟っているかのように呟いてから、葉子は佃煮の瓶の上で足を上下させているフェイに視線を送った。

「なぁに?」

フェイは目を丸くして、葉子を見返した。
食べる口が小さいので、未だにフェイはイチゴを抱えている。
葉子は笑みを浮かべながらフェイに云った。

「自分が偽善者なのか偽悪者なのかも判断出来ていない不肖の弟だけど…宜しくね」
「フ〜ン…ねぇ“フショウ”ってなぁに?怪我してるの〜?」

フェイはイチゴをかじりながら葉子に問い返した。
その時の仕草があまりにかわいいので、葉子は和やかな気持ちで失笑する。

「まぁ、とにかく私の弟は少し性格に問題がありますが、そこんところは大目に見て下さい…って、コト」
「ウン、アタシそういうの気にしないから大丈夫♪」
「そう…それなら、私も安心かな?」

そう云うと、葉子は冷蔵庫に向かい中から瓶ビ−ルを一本取り出し、蓋を空けてグラスに注いだ。
フェイは茶色い瓶から流し込まれた黄色い液体を興味津々に見つめる。

「そーれなぁ〜に?」
「お子様はダ〜メ」

不敵な笑みを浮かべながら、葉子はグラスを覗こうとしたフェイを防いだ。
『え〜』…と、フェイは不満気に葉子を見上げるが、そのガ−ドの堅さを前に不本意ながらも、ビ−ルの味見を諦めたようである。
それを確認してから、もう成人の葉子はビ−ルを喉下に流し込んだ。
大人の苦味が、五臓六腑を駆け巡る。

「ん〜…効くぅ。あ、そうだ…」

ポンと手を叩いて、思い出したというレクチャ−をしてから、葉子はフェイに注意をする。

「うちの親父様&御袋殿の前では隠れてて欲しいんだ」
「えー!何でぇ〜お話ししーたーい〜!!」

足をバタつかせて抗議するフェイの顔を、葉子はジッと覗いた。
両者の間には、小人と巨人ほど違いがある。

「うちの両親はとっても繊細な方々なんだよ…分かった?」
「う〜…はーい」

フェイの返事はいかにもな空返事である。
葉子は少し不安になったが、特に追及もせずに話題をそらそうとした。
そこへ、風呂上りの芙爾が入ってくる。
芙爾は早風呂である…5〜10分ほどで風呂など済ます。

「あ、このアル中姉鬼!?何、ビ−ル一人で独占してんだよ!?」
「あ…コラ!何する気よ芙爾!?アンタ、また未成年じゃない!!」
「構うかーッ!!」

芙爾はグラスに半分ほど注がれていたビ−ルを一気に飲み干した。
すると、面白いほどに顔が真っ赤になる。

「あらら…ホント、君ってタコね」
「うるへぇ…!」

既に舌すら回らない分際でありながら、芙爾はよろけながらも更なるビ−ルを喉下に流し込んだ。
その一杯が早くも致命傷となった。
アルコ−ルへの耐性がなさすぎる。

「俺はな…人をあれこれ言う奴が…大嫌いだッ!!」

それだけ叫んでから、酔いつぶれた芙爾は不快眠りに就いた。
そんな愚弟を呆れた顔で見下ろしながら、葉子は彼を子供部屋のベットにまで引き摺っていった。
二段ベットの下に寝かせた芙爾に、彼女は囁く。

「適当に頑張りなさいね、弟君…」

こうして、芙爾の長い一日が終わりを告げた。