契坂市願町までは、芙爾の住んでいる団地からはバスで20〜30分ほどで着く。
芙爾の住む鈴掛団地前のバス停留所から願町の停留所までの料金は片道190円…貧乏学生にはちと厳しい。
芙爾がそう思っていると、茱萸がバス代は肩代わりすると云ってくれた。
痒い所まで手が届く…なかなかのお人好しである。
「それにしても変わった名前ですね?」
バスの中で芙爾は失礼だが気になっていた『茱萸』という名前について彼に尋ねた。
云った後で、物凄く礼儀知らずな発言だったと後悔する。
しかし、茱萸はたいして機嫌を崩さずにそれに答えた。
「両親が山茱萸という花が大好きで…それで、私の名前にそれを付けようとしたんですよ。でも、山茱萸じゃ不格好だからって、『茱萸』だけにしたんですよ」
「へぇ…」
まぁ、そういう親もいるだろう…と、芙爾は納得した。
すると、今度は茱萸が芙爾に問い掛けてくる。
「鹿嵐さんこそ、どうして『芙爾』なんて字を当ててるんですか?」
「そりゃ…」
ぶっちゃけ、芙爾自身にもその答えが分からない。
確かに『ふじ』という名前自体は新鮮でもないが、『芙爾』という字を当てるのは自分以外に見た事がない。
「まぁ…うちの親父は目立ちたがりやですから」
「はぁ…そういうものですか?」
茱萸は顔をしかめた。
納得出来ないのも無理はないが、そうとしか云いようがない。
そうこう話している内に、バスは願町内のバス停に到着した。
「ここから後、十分ほど歩きます」
降りると同時に、茱萸は歩き始めた。
芙爾も彼に続くが、平然な顔をして茱萸の歩行ペ−スは速く、芙爾にとっては少し速足にしないとそれについていけなかった。
随分と長く歩いたような錯覚を覚えながらも、芙爾達は川上亭に着いた。
茱萸にとっては十分の距離であっても、芙爾にとっては十五分くらいの距離であったように思われる。
それはともかく、到着した川上亭は古臭いちょっとした旧家であった。
しかし、その規模自体はそれほどでもない。
ただ、本人の性格を反映しているかのように屋根や塀は改装がなされており、その屋敷自体の風格は損なわれているような気もする。
だが、玄関先の松の木の刈り揃えられ方は流石としか云いようがなく、その石造りの塀に刻み込まれた年月も決して失われてはいない。
その全てが荘厳さ、幽玄さ、厳格さ…家主のそれを象徴しているかのようなたたずまいだ。
「おや?」
門に近付いたところで茱萸は不図、足を止めた。
よく見ると門の上に一匹の三毛猫が止まっている。
多少、三毛意外の毛並みも混ざっており、純粋な三毛猫ではなさそうである。
川上の飼い猫だろうか…芙爾はその猫をマジマジと見つめる。
「留伊じゃないか…昼寝かい?」
「ニギ…」
茱萸が尋ねると、三毛猫は奇異な鳴き声を上げて門を降りて立ち去る。
茱萸の声に機嫌を崩したのか、それとも芙爾の視線を気にしたのか?
どちらにしろ、芙爾はその三毛猫の後姿を見た時、その飼い主が川上だという確信を持った。
三毛猫の尻尾は…二つに分かれていた。
「嫌われたかな…?」
茱萸はそう呟いて、何事もなかったかのようにチャイムを押した。
矢張り、川上の使いという事は茱萸もサマナ−なのだろうか?…と、芙爾は今更ながら疑問を持った。
『誰だ?』
チャイム越しに川上の重たい声が聞こえた。
こんな声を聞いたら、宅配に来た兄ちゃんは逃げるだろう…と、芙爾は思った。
『どなたですか?』ではなく『誰だ?』と云うのは、川上らしく脅迫の香りがする。
すぐに返事をせざるを得ない状況に追い込む強制力を秘めている。
『神柳です。鹿嵐さんをお連れしました』
茱萸は動じずに、スラッと用件を述べた…それが、茱萸と川上の付き合いの長さを物語る。
慣れているのだ…対川上免疫が生成されるほどに。
『今開ける』
抑揚のない川上の返事が響いた。
暫くすると、重々しそうなドアがあっさりと開いた。
そして、ついに川上がその姿を現す…芙爾はそれだけで頭痛を覚えてしまった。
相変わらずの黒塗り衣装、見る度に死神を連想せずにはいられない。
「逃げずに来たか…」
川上は開口一番、そう呟いた。
芙爾としては、そこまで信用されてないとは心外である。
「先生、矢張り業魔殿へ?」
「そうだ。でないと、始まらん…」
芙爾の横で、二人は何やら打ち合わせを始めた。
何やら聞き慣れない言葉がいくつも出てくる。
「では、留守中は私が預かりますので」
「ああ…任せたぞ」
その会話の後で、川上は歩き始めた。
唖然とする芙爾を尻目に、その距離はどんどん離れていく。
芙爾は突然の事態に対応が出来なかった。
「何をしている?」
「は?」
「早く来い…」
そうこう云っている内にも、川上は芙爾との距離を広げていく。
芙爾は焦りながらそれを追いかける。
「せ、先生!何処行くんッスか!?」
「綾衣港だ。歩くぞ…」
川上は淡々と云いながらも歩行は止めない。
芙爾に説明する気はないらしい。
川上亭に残るらしい茱萸と挨拶を交わしてから、決死の思いで芙爾は川上を追いかけた。
川上亭より歩いて三十分ほどだったろうか?
体力にはある程度自信のある芙爾であったが、その息は既にあがっていた。
茱萸以上に川上の歩行速度は速かった。
芙爾が小走りにならなければならなかったほどである。
歩いて三十分というよりも走って三十分と云った方が適切かもしれない。
「着いたか…」
気付いたかのように漂ってきた潮風を背に受けた川上の視線は、ただ埠頭にのみ向けられている。
綾衣町綾衣港は、色褪せたム−ドを潮風と共に展開する古臭い港町である。
訪れるのはカモメと漁船…だけと思いきや、人目に付き難い所為か密かなデ−トスポットとなっていたりもする。
ただ、この港でのデ−トは危険を伴う…こんないい条件の場所をその道の連中が使わない手はない。
夜の綾衣港は、契坂市内のちっぽけな繁華街、歓楽街よりも危険だという説さえあるほどだ。
「寂びれているな…何故、こんな所に?いや、その方が都合が良いのか?」
川上はブツブツと独り言を云いながら歩いている。
少し歩くと、芙爾の視界の中に奇妙な建造物が入ってきた。
「何ッスか…あれ?」
「ホテル業魔殿…闇の担い手だ」
川上はいつものように口を覆いながら、意味深な言葉を吐いた。
それは年期を感じさせる大型船であった。
遊園地のアトラクションにでもありそうな凄いフォルムの船だ。
しかもでかい…そんな物が港ギリギリに停泊しているので、綾衣港を巻き込んで時代を逆行する風景を作り出している。
「何ですか、これ?」
「一応、オ−ナ−はホテルをやっているらしいな。最近は結構な観光スポットになっている…何故かは分からないがな」
「へぇ…泊まる人がいるんッスか?」
「普通の人間かは分からんがな」
芙爾達は速足でその船『業魔殿』へと近付いていく。
近付けば近付くほど、その船の凄さを実感する。
時代の記憶を感じる…錆び具合とかが。
「何してる船なのー?」
突如、場違いに明るい声が聞こえた。
さきまでポケットの中で寝てでもいたのか、沈黙を守っていたフェイが自らそれを破った。
「何だ…連れてきてたのか」
「ねーねー、何してるか教えてよ〜」
「まぁ、好都合か」
川上は少し間を置いてから、相手を凍てつかせる笑みを浮かべて云う。
「悪魔合体をする船だ…分かるだろう?」
「!?」
フェイは顔を引っ込めた。
学校の時もそうだったが、フェイは『合体』という言葉に恐怖心を持っているようである。
「あんまり怖がらせるのもかわいそうッスよ?」
「どうせ、合体の材料にしかならん分際だ…気にするな」
川上は冷酷にそう云い放った。
その顔と口調に、芙爾とフェイは二人して心が凍る。
どうやれば人間、ここまで露骨な殺気が放てるのだろうか…目だけ人を殺すとは、よく云ったものである。
「さて行くか…」
桟橋を渡り、川上が業魔殿の入り口の扉に手を掛けた。
ズズズ…と、鈍い音と共に扉が一人で開いた。
そして、真の他界、人ならざる者達の領域へ、芙爾は足を踏み入れた。