昨日の一件の後、姉にいびられて芙爾は少し凹んでいた。
それでも、翌日、芙爾は休みもせずにトボトボと学校へと出掛けた。
死にそうな思いをしたので死にそうに疲れていたが、家に一人でいるのは怖かったのだ。
「何考えてんだよ?」
中休みにボ−っと考えていると、永輝が話し掛けてきた。
昨日起こった事を到底、打ち明ける気にはなれない。
適当にあしらって、窓の外を眺める。
四限目までの授業でこんなに憂鬱になった事はない。
「とりあえず、飯喰いに行くか?」
「ああ…そうしたいかな」
一応、何となく気を使ってくれているらしい相棒に相槌を打ってから、芙爾はパンを片手に屋上に向かった。
本来なら、福石門高校では屋上での飲食は禁止されている。
しかし、芙爾達にとって校則は破られる為だけに存在意義を見出されている。
特に、屋上で福石市の町並みを食べる安物節約ランチには彼等のよく分からないこだわりがある。
いつも見回りに来る教師達に見付からないように聞き耳を立てて食事をする為、落ち着きも何もないのだが、何故だがこの学び舎なる組織への背徳行為は、渇いた、そして常に刺激に対して身体を悶えさせる彼等には、この上ない快楽、快感なのだ。
校内に混沌をもたらす事を責務とし、それでいて退学処分はされないように狡猾にコソコソと蠢く自称・校内テロリストたる彼等には、こういった日常の行為も大切な混沌要素として含まれているのだ。
「林間学校の時は、ガスマスクをして女湯に強行突入したが上手くいかなかった…」
不意に、弁当を啄ばんでいた重文が話し始めた。
毎度、屋上で食事を摂るメンバ−は違うが、大体、芙爾と永輝と重文、そして、何気に裕一郎がいつもいる。
「何故、失敗したか…色々と考えたが、やっぱり先公が待ち伏せしてたからだと思う」
「っうか、ありゃ作戦ミスっしょ?」
横槍を入れた芙爾を重文はいつものように『うっせぇ、馬鹿』と遮った。
重文が云っているのは、去年の夏の林間学校における女湯突入計画の事である。
滅茶苦茶な作戦だったのを、芙爾は苦々しく覚えている。
何が悲しくて15にもなってガスマスクを被って女湯に突っ込むという変態行為をしなければならないのかと悲しくなったものである。
しかも、そんな無謀な作戦の果てに案の定、待ち伏せしていた教員の飛島の前に野望は潰え、おまけに運悪く捕まったのは芙爾だけであった。
芙爾は散々絞られ、変態の烙印を押されたが、過去の経験上、仲間の事は一言も漏らさなかったので、結果としてその結束は益々固くなった。
仲間を売るという行為がどれほど恐ろしい事か、卑屈な芙爾は思い知っているのである。
ちなみに、ガスマスクは重文の趣味であり、女湯を覗くのは学校の定例行事ではセオリ−だと提唱したのも彼である。
この参謀役は決して手を汚さない…誰よりも賢く、要領が良い。
勉強する必要のない頭脳を有した天才肌だ…限りなく変人及び変態に近いが。
「今度は成功するように隠しカメラを仕掛けようと思ってんだ…」
重文はスク−ル鞄から小型カメラを出した。
今度というのは五月後半にある研修旅行の事であろう。
そういえば近かったな…と、芙爾は思い出した。
つい最近、桜が散ったような気分で芙爾はいたのである。
時間はいつだって早足で芙爾を追い抜いていき、更には突き放して置いていく。
「こいつを仕掛けて後でウハウハだ…」
「(去年、それをやれよ…)」
菓子パンを頬張りながら、芙爾は重文を恨めしげに思った。
きっと、去年もわざとあんな馬鹿な暴挙をしたに違いない。
そんな芙爾の心中を知ってか知らずか、重文はすっかり自己泥酔の倒錯の世界に入り込んでおり、他人の言葉など聞くに値しないといった傲慢な態度で説明をしている。
その横では、裕一郎が弁当の中に入っているマカロニを箸の間に通すのに躍起になっていた。
矢張り挙動不審…しかも、どこから見ても真剣な赴きでそれをこなしている。
天然はここが怖い…明らかに別世界を自己の直径数メ−トルに形成している。
だが、天然は天然で変な奴と思われただけで終わるから寧ろ幸いかもしれない(実際はそうでない事が多いかもしれないが、裕一郎の場合はそうである)。
芙爾のように何かと滑稽にわざとらしく振る舞い、誰からも尊敬をされず、顔に付けた仮面によって自分自身を見失ったりするには、凄く不幸で愚かな事のように思える。
芙爾は誰にでも馬鹿にされているが、そうする事で自分も社会の歯車として機能している…つまり、他人のストレスを排除する為の必要悪として自分が存在していると思い込んでいるのでタチが悪い。
実際、そういう考えは芙爾の劣等感が生んだ被害者妄想に過ぎないのだ。
しかし、何事も思い込めば真実となってしまう。
芙爾はその考えの下に高校生活を築いてきたのだ。
故に、芙爾は寧ろそれを誇りに思ってさえいる…逃避に他ならないが。
だがそれは、芙爾が自分の鬱に打ち勝ったという自身の証だし、目立ちたがり屋と鬱病の両面性により彼が抱えるジレンマを取り除いてさえくれる。
その考え自体が必要悪なのだ。
「設置箇所はだな…」
「胸と尻の両方とも重要だぜ?一箇所じゃ駄目だ」
ボ−っと芙爾が考え事をしている間、重文と永輝はしっかりと打ち合わせをしていた。
その横で、相変わらずの裕一郎は、両方ともマカロニが装着された箸で、更にマカロニを食べている。
頼むから、誰かツッコンで欲しいと芙爾は思った。
しかし、そう思いながらも芙爾はこの天然男が羨ましくもある。
どうすれば、あそこまであるがままの自分でいられるのだろうか?
いつも眠そうな眼とだらしない服装、人畜無害で温厚な曲者。
芙爾はそんな裕一郎に憧れている。
「お?オレの顔、何か付いてる?」
「いや…何でもないわ」
芙爾がジッとその仕草を見つめていたので、裕一郎は変な顔をして芙爾に問い掛けたが、芙爾はそれをサラッと流した。
その横で、未だに熱論を交わしている二人がいる。
幸せな日常だと芙爾は感じた。
その時、異変は起こった。
「…?」
妙な寒気を覚えて、四人は殆ど同時に空を見上げた。
空の色は紫とも緑ともとれない…強いて云うならば、それはこの世の色ならぬ色になっていた。
どんな天気だろうと、どんな気候だろうと、地球上においてこんな空色はない。
少なくとも、日本では間違いなく有り得ない。
「ちょっと待て…」
「何だよ待てって…」
「頭を整理してぇんス…」
芙爾は頭を乱雑に掻きながら、空を眺めた。
そして、更に奇妙な事に気が付く。
「空が切れてる…」
「は?」
「ほら…あっちから外は青いままじゃん」
芙爾の言葉に、他の三人は一斉に柵の外から世界を見回した。
そして、彼等は知った。
空と同様の色をした壁が校舎を取り囲み、学校そのものを外界から切り取っていた。
閉じ込められたという事を、彼等には知る術もない。
ただ動揺し、唖然として外を眺めるしか彼等には出来なかった。
しかし、そんな移ろうだけの静かな時間は、彼等には用意されていなかった。
「!?」
貧乏くじを引いたのは、運が良さそうで実は悪かった裕一郎であった。
「え…?」
「裕ちゃん!?」
空から舞い降りた異形が裕一郎の肩口に切りかかった…鮮やかな血が飛び散る。
鳥の身体をしているが、人間の顔と乳房を持つ異形だ。
確かハ−ピ−とかいう化け物がそんな姿をしていると、芙爾の記憶にはある。
だが、そんな風に冷静に整理する余裕はあるハズもなかった。
しかも、異形は一匹ではなく何匹も彼等の頭上を飛び回っている。
『不味そうな人間…まあ、食べられればいいんですどね』
「な…!」
そう云ってから、異形達は芙爾達にも飛び掛ってきた。
芙爾達は我先にと逃げ出す。
強い敵と遭遇した時、人間の自己防衛本能は純粋に逃走にのみ働く。
しかし、傷を負った裕一郎は逃げ遅れてしまった。
「裕ちゃん!?」
異形達は意外にも堅実に、狙いを哀れな裕一郎に定めた。
その隙に、永輝と重文は逃げ出す。
「お、おい!!」
「構うな!死にたくなかったら走れ!!」
一瞬、立ち止まった芙爾を永輝の太い腕が引っ張った。
芙爾はそれでも立ち止まる。
親友を見捨てていいのか!?…芙爾の良心が彼の心に訴えかける。
だが、人はそんなに強い生き物ではない。
五十歩百歩…そんな邪悪な妥協の言葉が脳裏を横切った。
「クソッ!」
芙爾は唇を噛締めて走り出した。
裕一郎は奮戦している…そんな彼に背を向けるのは明白な裏切り行為である。
自責の念が芙爾を攻め立てる。
だが、生への執着がそれを却下する。
人を助けられるのは余裕のある奴だけさ…と、誰かが云ったような気さえした。
ならば、マザ−・テレサはどうだったのか!?
「!?」
校舎への階段に辿り着いた時、新たなる絶望が彼等を襲った。
階段は例の不気味な色の壁で塞がれている。
そう、あるハズのない壁が三人の前に立ち塞がっていた。
「嘘だろ…」
「!あっちだ!!」
永輝が叫んだ。
彼の指先には、矢張りあるハズのない場所に階段が存在していた。
「どーいう事ッスか!?」
「構うか!行くぞッ!!」
有無を云わずに、永輝が階段を駆け降りた。
重文と芙爾もそれに続く。
『ギャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!』
その時、耳を劈くような絶叫、そう断末魔が聞こえた…屋上から。
「…」
言葉を失いながらも三人は階段を下った。
罪深き三人は裕一郎を見殺しにした。
その後ろめたさを抱えながらも、三人は以前は校舎の六階であった場所に辿り着いた。