三月に入って半ばを過ぎると、さすがに陽射しも随分と麗(うら)らかになった。風も甘く やわらかくなって来ており、萌え始めた梢から降る木洩れ陽の金色を指して、
『まるで蜂蜜色のシャワーみたいですね』
なんて。春めいて来た風情をそれは詩的に例えて下さった愛しい人は、黙々と走る自分の傍ら、それは楽しげにたかたかと、軽快なペースでしっかり追従してくる健脚で。進が毎朝欠かさないジョギングに、時折お付き合い下さるこの後輩さんは"小早川瀬那"といい、一つ年下の小柄な男の子。泥門デビルバッツの主務さんで、しかも…ここだけの話"アイシールド21"という二つ名を持つ、高校アメフト界に突然現れた期待の新星でもあって。所属チームが違う彼と彼であるがゆえ、聖域であるフィールドで逢う時は真っ向からぶつかり合って火花を散らす好敵手同士だが、それ以外の時は…何とも甘やかな感情を温め合う間柄。ほんの間近の鼻先で陽に温められたふわふかの髪が軽やかに弾むのを、時折ちらちらと見やりつつ駆けているせいか、清十郎さんの感覚の中でも…常のペースに比べると多少は遅いかなという自覚もあったが。そのせいだろうか、
「………?」
ふわりと。どこからか、甘い匂いがしたような。ジョギングコースになっている黒美嵯川沿いの土手には、川面を撫でて吹き寄せる、少しばかり冷たい風の匂いがするくらいの筈で。だが、今のはそれではなかったようだが。
"???"
何の匂いかな?と。心の中にて小首を傾げていると、
「…沈丁花の匂いですね、これ。」
すぐ傍らからそんな声がして。見やれば…稚いとけないお顔が、こちらを見上げてそれは嬉しそうに微笑っている。何も言いはしなかった、声さえ出さなかった進であるのに、彼の鼻先へも届いたらしき甘くて華やかな春の匂いのことを話題にし。ほら あれですよと土手の少し先へ向けて伸べられた、彼の撓やかな腕の先にあったのは、そこここで柵の代わりの茂みにされているのをよく見る常緑の低樹。小豆色の小さな蕾が幾つも重なっている、ご婦人用のコサージュのような可憐なお花で、これですよと示されると見覚えがある…ような。
「小早川は何でも知っているのだな。」
名前だけならどこかで聞いたことがあり、花だけならばそこここで見かけてもいたけれど。その二つをちゃんと合体させて把握している彼へ、とても博識なのだなと素直に感心してそんなことを言えば、
「あ、いえ、あの…。////////」
真っ赤になって、慌てて もじもじ。まるで思わぬことを大人から褒められた小さい子供のように含羞んで見せるのがまた、見ていて擽ったくなるほどに愛らしくて。その微笑ましさが可愛らしいなどと、もしもそんな感慨まで口にしたなら、
"…進さんだって。////////"
こんなことへ感心してくれるだなんて、十分可愛い人ですよと。心の中にて言い返されていたかもしれないが…それはさておき。
「梅とか沈丁花とかが咲いてる匂いって、春が来たなっていう匂いなんですよね。」
褒められた嬉しさをじんわりと胸の中へと取り込みながら、えとえとと付け足された可愛らしい感慨。言われてみれば確かに…花は小さいけれど、風に乗って遠くまで届く華やかに甘い香りは、待ち遠しい春の到来を告げるファンファーレのように、人々の感応へそれはそれは判りやすいまでの鮮やかさで訴えかけてくる。
"…小さいけれど、か。"
梅も沈丁花も、春一番のすぐ後の"寒の戻り"の中であっても、冷気に耐えて咲く花でもあるそうで。健気に、でも…決して壊れやすくはなく、頑張って咲く粘り強いところなど、
"誰かと そっくりだな。"
何とも言葉らしいものを発しないまま、ただじっと見やっているばかりのこちらを。小動物を思わせるちょこりとした仕草で、小首を傾げて見上げ返してくる小さなセナ。大きく張った眸は琥珀色に潤み、骨張らないままの優しい曲線に縁取られた柔らかな頬や小さな耳朶は、朝の冷気に少しだけ朱を散らして何とも愛らしく。細い肩に薄い胸という小さな小さな肢体を、大きめのウィンドブレーカーやトレーニングウェアの中に包んで。いかにも鍛えておりますという風情の屈強な伴走者のペースに合わせて、頑張って駆けている軽やかな足取りにも…どこか幼い気配の滲む彼であり。こうと言っては本人に悪いかも知れないが、どこもかしこも"可憐な"印象の強いセナくんだけれども。
『もう少しで抜けそうかもなんて、言いやがってよ。』
お初の顔合わせにして初対決となった公式戦の場にて、進の繰り出す必殺の剛腕“鬼神の槍スピア・タックル”に狙われて。だが、何度引き倒されても粘って粘って立ち上がり、しまいには抜き去ってしまった、頑張り屋さんで一途な子。彼らのキャプテンにして、計算高くて無茶の大好きなあの蛭魔でさえ、気魄に呑まれて引っ張り回されたと、後日に苦笑していたものだった。屈託なく微笑い、愛らしい上目遣いで甘えてくれる愛しい人は、同時に…ちょいとでも油断をするとあっさり置いて行かれかねないほど、前へ前へとその眸を向けて駆け続けている人でもあって。
"………。"
そんな彼と出会うまでを、どう過ごして来たのやら。そういえばアメフトの鍛練以外は思い出せないし、その鍛練にしたところで…既に習慣になってしまっているそれだから、無意識下でもこなせる代物。どの日を引っ張り出しても大差ない、無味乾燥した日々の蓄積しか持たない自分が、こんなに恵まれていても良いのかなと。時に、惚気と紙一重の不安さえ感じてしまう進でもあって。
"惚気など思いつきはしないが、ないがしろにしたら罰が当たるのは確かだな。"
………だからそれを"惚気"と言うのだよ、世間では。(笑)
「…あ。」
春の香りにふと立ち止まっていた駆け足を、いつの間にやら再び動かし始めていた二人。そんな彼らの鼻先を掠めるように、風に乗ってどこやらから飛んで来たのは、今度は…眸にも鮮やかな小さくて白い花片が一枚。震えるように ひららひららと泳いで来て、セナの緋色の口許へ ひたりと張りついた柔らかな花片であり。
「…梅かな?」
それにしては大きいかなと思いつつ、口許に手をやるセナくんと向き合った進さんが…不器用そうな大振りの手を伸ばして来て、しっとり柔らかな唇に張りついてしまった悪戯ものの花びらを摘まみ取る。柔らかな花びらの感触にか、それとも…ちょいちょいと剥がすようにして触れた、進さんの指先の少しほど乾いた温かい感触にか。その擽ったさへと頬が赤くなってしまったセナくんは、
「…いえ、桜だと思います。」
その指の先、取ったそのままに見下ろしている進さんへとそう告げた。いくら暖かいとはいえ桜が咲くのはもっと先だろうと言いたげに、怪訝そうなお顔をした進さんへ、
「山桜は咲くのが早いんです。」
どうかすると梅と同じくらいの頃合いに咲くんですよと。そんなことまで知っていたセナくんだったのは、幼なじみのまもりお姉さんのお家の庭にその山桜があって、毎年今頃咲くのを見て来たからで、
「でも、もう散り始めてるだなんて。」
どんな陽当たりのいい場所に咲いているのか、普段よりも早いには違いないですよねと。いつものクセで かくんと小首を傾げながら、ふにゃりと柔らかく微笑ったセナの仕草にこそ、春にも負けないくらい…甘くて暖かいものを感じた清十郎さんであったらしい。指先に止まった蝶々みたいな小さな花びら、指ごと口許へ近づけて。そのまま軽く吐息で吹いて宙へと飛ばしたその仕草、
"あ………。///////"
まるで花片へと口づけたように見えて、一瞬、気を取られてしまったセナくんの。柔らかな髪へとその手を伸ばすと。
「………え?」
大胆不敵にして大雑把な人なのは相変わらずで。いやいや、これも所謂"質実剛健"の現れだろうか。すいと身を屈めたそのままに、柔らかい猫っ毛を少しだけ掻き上げてあらわになった耳元への内緒話でも持ちかけるかのような態勢にて。
――― 先ほどの花びらよりも温かな感触が、
セナくんの桃色の口許へ、優しく降って来たのでありました。
おまけ 
麗らかによく晴れた春休みの昼下がり。珍しくも予定のないまま、自宅の居間にてPCを開いて、スカウティングで集めた資料の更新やら整理やらを手掛けていた金髪の悪魔さんは。
「………。」
床のフローリングに直に座ったそのままで、時折自分が凭れているソファーの上を細い肩越しに見やっては、そこにいる存在へと擽ったげに苦笑して見せる。まるで取って置きの宝物がそこに間違いなくあるのを確かめるように。しかも…愛でるように優しい眸をして見せる彼であり。特に遠慮はせぬままに、キーボードをカタカタと軽快に叩いている彼の、薄い背中の向こうには。大きなビーズクッションのソファーを敷布団代わりにして、くうくうと心地よさげに寝入っている人物がある。亜麻色をした柔らかな前髪の一房を立ち上げて、その髪にしても肌にしても指先にしても、今時のおしゃれな男の子たち以上に手入れのいい、それは綺麗な拵えをしていながら…それはそれは無防備に。子供のような屈託のなさで何の警戒もせぬまま寝入っている青年であり、
"…ったく、何をしに来たのやら。"
わざわざ先触れの電話を入れてやって来た彼なのに。お土産のテイクアウトの中華やらサンドイッチやらを一緒に昼食として平らげてすぐ、コテンと横になったそのまま…あっと言う間に寝入ってしまった桜庭くんであり。
「………。」
よほど疲れているのだなと。無心に寝入る横顔を見やる蛭魔の手が、キーボードの上で思わずのこと止まってしまっている。つい見とれたのは、やさしい造作のそのお顔。甘えた口利きで巧妙にカモフラージュされているが、その陰で日に日に精悍さを増してゆく面差しだと知っている。こんな風に感情を乗せない無心な顔をするとすぐに判る。彫の深い端正な容貌は、甘く微笑っている時とどこか他所へと注意を逸らして横を向いている時とではかなり印象が違って来ており、
"そのうち、皆が気づくんだろうな。"
人気絶頂に上り詰めつつある芸能人であり、日本中、全国というレベルにて知名度の高い彼だから。そんな彼をこんな風に間近で独占出来る身であることよりも、自分の傍らにいない時の彼が…自分を独りにしている間の彼が、不特定多数のファンたちへ満遍なく笑いかけていることの方が、何だか…寂しいことだなと感じてしまい、居たたまれなくなるような。
「………。」
チッと。何をらしくもないことを思っているやらだと。気を取り直してノートPCの液晶画面と向かい合えば、
「…う、ん〜〜。」
背後でそんな唸り声が上がって、クッションの中の砂状の細かいビーズがきしぎしとかすかに軋む音。ん〜んと大きく伸びをした誰かさんが。ようやっと眸を覚ましたらしい。開口一番に、
「…ありゃ?」
妙な声を上げたもんだから、
「どした。」
さして感情も乗せぬまま、ついでに手元も止めぬまま、背中で応対をしてやれば、
「ボク、寝ちゃったんだ。」
まだ寝ぼけているのか、そうだよだからどうしたと突っ込みたくなる言いようをし、
「え〜〜〜、1時間も?」
サイドボードの上に置かれた時計を見やって、素っ頓狂なお声を上げるもんだから。ああそうだよ、他所に来てわざわざぐうぐう寝入りやがってよと、いつもの調子でムッとしたままに憎まれを言ってやろうかとも思ったが。それだと何だか…構ってくれなくて詰まんなかったんだからなと言ってるようなもんかも知れないと思い直して、
「お前、疲れてたんじゃないのか?」
………それこそ柄にない言葉をかけている妖一さんであり。(苦笑)
「ん〜、ちょっとはね。でもサ、せっかく妖一んチに来てるのに。」
こんな貴重な時間をただ寝て過ごしただなんてと、結構な憤慨ぶり。何で起こしてくれなかったのと、せっかくそっとしておいてあげた妖一さんにまで ぷぷいと膨れて見せる始末であり、
「1時間もあったら、あんなこともこんなことも出来たのに〜〜!」
「何なんだ、その"あんなこともこんなことも"ってのはよっ。」
「訊きたい?」
「………いや、いい。」
――― いやぁ、春ですねぇvv
〜Fine〜 04.3.21.
*相変わらずなお話で申し訳ありませんです。
皆様に可愛がっていただいて、このサイトも50、000hitを達成し、
何とも感慨深い思いがしております。
そこでと、ない知恵絞って書いてみましたこのSS、
DLFといたしますので、よろしかったならお持ち下さいませです。
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