幕間8 〜雨宿り
 

 コンクリやアスファルトで地面に蓋をし、その上へ無愛想なビルが林立しているビジネス街や繁華街は。空を見上げてもその縁をカクカクと、背の高い建物の屋上で切り取られていて、直視で臨める青い空の面積は随分と狭い。とはいえ…いやいや、だからこそ。よく出来たもので、建物同士の軒や縁をうまく渡って行けば、雨の日でも傘なしで、地下街にももぐることなく、隅から隅までを踏破出来てしまうのだそうで。冗談抜きに、各地の繁華街に於けるそんなルートを編集した地図さえあるのだと聞いたことがある。これもまた、今時の知恵ってやつでしょうかね。






   さぁーーー…っと。


 静かではあるが間断なく降り続く細やかな雨の雨脚の音が、辺り一帯の空間を埋め尽くすように、ずっとずっと聞こえ続けている。気温が低いせいもあって、湿って仄かに涼やかな雨の気配を、辺りのそこここに満遍なく満たした外気は、雑踏の人いきれの中よりはいっそ心地いいかも知れなくて。

   "……………。"

 こぬか雨の単調なその音や気配は、例えば のべつまくなしに会話が弾んでいるような最中であれば、あっさりとB.G.M.より向こうへ追いやられてしまいそうな、ささやかな種のものなのだが。そればかりを聞いていると、妙に風情があるというか、何かしらの物思いに耽りたくなるような気がして来るから、何とも不思議な存在感で。時折"とたん・たん"と、缶だか箱だか何か堅いものに当たって、大きめの音を上げる雨垂れを聞きながら、でも。

   "………。"

 そんな雨音に、でもネ、気を取られてなんていられなかった。ビルとビルの間の細い非常階段の踊り場の下。形の崩れたダンボールの箱とか、プラスチックの…何て言うんだろ、底に細かい仕切りがある搬送用のケース、バッカンっていうのかな? とかが、ごちゃって積まれた裏口のコンクリの犬走り。雨が降ってても人出の多い、にぎやかな繁華街の真ん中なのに。誰の目線も届かない、ぽこって空いてた死角みたいなところ。偶然通りかかっただけのそんな場所に、もうどのくらいなのかな、ボクと進さんとが、ずっとずっと居たりする。

  "………。"

 そんなに広い場所じゃない。だから二人。知らず、身を寄せあっている。進さんの大きな大きな手が。髪を撫でてはゆっくりと、うなじへ、肩へ、背中へとすべり降りる。温かで頼もしい、大好きな手。もう一方の手は、ここに掻い込まれたその時から、背中のかいがら骨のところに軽く添えられてて、ずっとそのまま。押さえつけられてる訳じゃないけど、何故だかそのまま動けなくて。生麻のジャケットの中、凭れ掛かって頬を寄せてるシャツからは、しっかりした胸板の質感と温みと、やっぱり大好きな匂いがして。やんちゃな仔猫を"ほら大人しくしていないか"って、雨に濡れちゃうぞって、そっと懐ろに抱えて宥めてる大人のように。進さんはさっきから黙ったまま、ただずっと、ボクの髪や肩を撫でてばかりいる。

  "えと…。"

 いつもみたいに待ち合わせて歩いてたQ街の繁華街。シティビルの展示場で印象派の展覧会が開かれていて、お母さんから招待券をもらってたんで観に来てて。図版とか写真では分からない、ビロウドのリボンやシルクのドレス、瑞々しい花びらなんかの柔らかそうな触感。綺羅らかな金の装飾品や重厚な銀色に光る甲冑の奥深い輝きなどが、絵の具の重ね方、絵筆の運びひとつでこんなにも表せるものなんだなって、とっても綺麗でリアルで凄くって。でも、
『なんで、カタツムリやハエをたからせたままの花束を描いたのだろうな。』
 進さんが気づいた一言が、ボクにもそういえばずっと不思議だったんだけれど。そしたら、近くにいた人が、
『それはですね、色々なもののそれぞれの存在感や質感を、この画面に一度にたくさん集めて描きたかったからなんだと思いますよ?』
 花弁の柔らかさとカタツムリのねっとり感、つややかな陶器の花瓶の堅い冷たさと、それが載っかった敷布のざっくりとした織り目。何でも描き分けられる技術を1つの画面に凝縮してあるのだと、わざわざそうと説明してくれた人。
『後でまた、お店にも来て下さいね。』
 にこりと笑って会釈しながら、そう言ったので気がついた。そのおじさん、いつもお邪魔している喫茶店のマスターさんだったんだよ? 思わぬところでお逢いしたのには、ボクも進さんもビックリした。それから、周囲の雑貨屋さんとかお店を幾つか見て回って。ビルから出ると雨が振り出していたんだけれど、傘を開かないでお屋根のガレリアのあるモールまで行けるコースがあるんですよって。そう。ボクが"こっちですよ"って先導してた筈だったのに。
『あやや…?』
 その途中、腕を捕まえられて、この隙間に"くいっ"て軽々と引っ張り込まれちゃって。よ〜く知ってる街なのに。この進路だって、まもりお姉ちゃんと二人、中学生の頃に見つけてから、しょっちゅう通ってたお馴染みのコースだったのに。雨も風も、人の目も届かない、こんな"避難場所"があるなんて今の今まで全然知らなかった。後で訊いたら、進さんも知らなかったよって。ただ…何となく、まだちょっとだけ、人込みには飛び込みたくなかったからだって。

  "うっと…。/////"

 こんな風に懐ろへと掻い込まれるのは、いつものことなのに。何だかドキドキ、秘やかにドキドキ。これってやっぱり、ボクの鼓動の音なんだろな。こんな風に静かに二人きりになって、普段なら落ち着ける筈なのに…何だかそわそわする。知らない場所だからかな。何かの拍子、誰かが通りかかっちゃうかも知れないって、心のどこかでそんな風に思ってるからかな。さっきの展示場でだって、思わぬところにボクらを知ってた人がいた。此処だって…人の気配がないように見えても、通り一つ向こうでは。いやいや、背後のすすけた鉄の扉のすぐ向こうにだって、週末の雑踏をゆく人たちの波が、いつも通りにざわめいてる筈で。それを思うとやっぱり何だか落ち着けない。そんな小心なボクとは違って、進さんは平生と丸きり変わらずにいるみたい。そんなぴりぴりと毛を逆立ててないで、雨に紛れて一つに溶けちゃおうよっていう"おまじない"みたいに。進さんの手、ボクんことずっと撫でてくれてて。進さんのお顔は、ここからだと顔を上げたって見えないのだけれど。ずっとずっと見下ろされてるって判る。何だか妙に緊張していて、だのに、

  「………小早川。」

 低い声で静かに、不意に名前を呼ばれて。"はい?"って顔を上げたのとほぼ同時、体がふわって浮き上がったのは…もしかすると何だか予測してたような気もするボクって。ただ掠めるだけのキスじゃなかったのに、あんまり取り乱さなかったのって。これって立派に"共同正犯"なのかも知れないね。



   雨の音、静かに静かに、さあさあと。
   ちょっぴり現実から隔離されたよな世界の中で。
   降りしきる霧雨のカーテンの中に身を隠して。
   こっそりと、こっそりと、
   小さな秘密を共有した、ボクらは、そう、共犯者。
   だからね、誰にも内緒だよ?
   頬が熱いのも、まだちょっと上の空なのも。
   つないだ進さんの手、いつもよりきゅううって強
キツいのも。
   どうしてなのかは内緒の内緒。
   雨宿りしてただけサ。内緒の内緒…vv



  〜Fine〜  03.6.13.〜6.14.


  *走ると体の前面に当たる雨というのが増えるので、
   風のない雨の場合は速足と走るのと、濡れ方はそんなに違わないそうで。
   それでもついつい走ってしまうのは、
   早く濡れない場所に飛び込みたいからなんでしょうね。
   ちなみに、筆者は小学校・中学校や、
   駅から家までくらいなら濡れながら帰る方でした。
   多少距離があっても、です。
   気が短かったんですね、そんな頃から。


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