幕間C 〜青葉 繁れる
 

 ゴールデンウィークからこっち、そのまま初夏になだれ込んでしまったかのような、爽やかで明るい晴天の日和が続いていたが、それでも5月の半ばを過ぎた頃には曇りがちな日が続くようになり。青嵐とか走り梅雨とかいう、風混じりの強い雨も降るようになり。そんな肌寒いお天気が明けて、数日振りに青空が見られた とある週末に。

  「…あ、セナく〜ん。」

 改札口に近づいたこちらからも、そのお姿は見えてはいた。まま、ご町内の人なのだからしてこの駅を使いもするだろうしと、不審なことだとまでは思わず、名指しで手を振ってくれたお姉さんに、
「こんにちは。」
 瀬那の側からもにっこり笑ってご挨拶。アロハ襟のプリントシャツにサブリナパンツとミュールという、久々の晴天にもよく映える、夏を先取りしたかのようないで立ちの彼女は、進家の御令嬢のたまきさんという人で。才気みなぎる溌剌としたお顔立ちのみならず、小柄ながらもすらりとしたスタイルもそれはキュートに整っていて、ご町内では"小町"と評判の美人なお姉様。そんな彼女が、だが、パンツのポケットに携帯を突っ込んでこそいるけれど、ハンドバッグも何も…手荷物なしの手ぶらにて駅前にいるということは?
"…どこかへお出掛けじゃあないってことかな?"
 何となく。そんな風に思いながらも、自然な動作に任せてすたすたと自動改札を抜けて出て来た瀬那の傍らへ、ぱたぱたっと駆け寄って来て、

  「あのね、あたし、清ちゃんの代理なの。」

 彼女は屈託なくそんなことを言うものだから。

  「…はい?」

 セナの大きな瞳が………点になった。




            ◇



 落ち着いたつやの中に沈む深色を呑んだ、手入れの行き届いた板張りが広がる空間。高い天井のそこはある意味で“聖域”だ。風通しよく板戸が開かれた幾つかの戸口から、外の明るさが滲み入り、板の間へ映り込んでいる。そこにだけ白っぽい光沢の帯が流れて、まるで夜陰の中の水面に映った月の影のよう。

  ――― ………。

 静まり返った空間の中、ぴんと張った緊張感は、だが、痛いほどに殺気立ったものではなく、どこか心地いい清冽なもの。今にも弾け出しそうなほどの、漲
みなぎる生気や活力を間違いなく裡うちに含んだままに、それでも一向、浮足立ってはおらず、余裕の落ち着きを孕んだままに静謐を保って動かない。
"………ううっと。"
 泰然として悠々と。そうでいられる当事者たちよりも、見守る周囲の方こそが、気負ってしまって先走ったり、焦りそうになるほどだ。

  ――― ………。

 やはり深色の腰板の上に塗り込められた漆喰の壁の白。それを背にした屈強そうな体躯にまとった道着の濃紺が際立って、上背のある頑健そうな肢体をぴんと引き締めて見せる。着物のような前合わせの道着に、素足の足元くるぶしまでの袴。それを彼が身につけた姿はこれまでに一度も見たことがなかったセナだったが、バランスよく伸びやかな体つきにはよく映えて、それはそれは凛々しい限りだと思った。連子窓から射し入る明るみに縁取られた精悍な横顔も、凛と凄絶に、冴えて静。前髪の下、見開かれた双眸のなんと鋭いことかと感じたその途端に、

  "………。"

 セナは何となく、居心地の悪いものを覚えた。別に禁忌を破っての覗き見ではないのに。知っている筈の、見慣れている筈の彼の横顔が、どこか…そう、随分と遠いもののように思われて。それで何だか、寂寥感のようなものを感じたのかもしれない。いつも…少なくともこのくらい同空間に居る時は、常に傍らにいてくれる人。別々のユニフォームをまとって緑あふれるフィールドに立つ時も、相対するという格好にこそなりながらも なればこそ、強烈なまでの敵愾心という意識をこちらへ向けてくれる人。それが今は、例えば此処に自分がいると気づいていたとしても、やはりその注視は直に立ち向かっている相手へのみ注がれていたことだろう。
"そういうことではなくて…。"
 自分の全く及び知らない"別世界"に、なのに…ああまで しっくり馴染んで堂々と立つ清十郎を見て。彼自身までもがその"別世界"の存在なように思えたセナだった。

  「………。」

 合気道は柔道よりももっと"剛より柔"の武道であり、相手の呼吸や体の動き、重心移動をきっちりと読んだ上で、その流れを利用したり逸らしたりして畳み掛ける。勿論のこと、こちらから進み出る攻撃法もあるが、日本の武道に共通の、対手の"気"を読み"気"を生かす武術の、その最たるものとも言え、近年では精神修養に採用されてもいるほどだ。

  ――― っ!

 たん、と。素足が板張りを蹴立てる小気味のいい音が不意にして、互いに読み合ったその呼吸の継ぎ目を狙った相手が、絶妙なタイミングにて仕掛けて来た。襟元と腕へと掴み掛かりながら身を寄せ込んで、だが、柔道のようにそのまま体を返して投げ技へなだれ込まないのは、こうまではっきり動きながらも気を探っているからか。………と、

  「あ。」

 進のラインバッカーとしての対応や反応、動作といったプレー全般は、スピードと腕力に物を言わせた雄々しいまでの"力任せ"に見えて、実はそうではない。槍のようだと称される、鋭い反射に乗ったタックルも、その素早い"切り返し"を繰り出す間合いが途轍もなくなめらかであり絶妙であればこそ、相手に掴み掛かって引き倒すだけのそれを、容赦のない俊敏な"一突き"にしてしまう。疾風さえもを容赦なく掴まえられる、巧みで鋭利な一撃。

  「それまでっ。」

 何がどうなったのか、素人目にはよく分からなかったが、あっと言う間に形勢が逆転し、掴み掛かられた側の進が…無駄のない身体捌きにて、相手を難無く叩き伏せたらしい。
「…凄い。」
 どうしてそう運んだのか、ビデオか何かで再生されなければ判らないほどに瞬時のこと。ただ、あまりの鮮やかさが凄絶なまでに印象的で、勝敗が決したその瞬間、ざわざわと総毛立つような想いがした。道場の中でも、立ち合いが済んだことから先程までの緊張感もさわさわとほどけて。何人かの、門弟さんだろう大人の男の人たちが、進やその相手だった男性に声を掛けたり、今の立ち合いを分析し合っていたり。そんなざわめきが聞こえて来だす。そんな中、

  「…小早川。」

 対手や審判役と一礼を交わし、見るからに急ぎ足で戸口へと足を運んだ彼であったのは、この道場の"外の世界"に待ち人がいることを思い出したから。いや、そちらこそが優先されるものだと"戻る"ため。道場主である祖父の古い知己だという人が訪ねて来ていて、中学生の頃を最後に清十郎の立ち合いを見てはいないが、果たして体や勘は鈍
なまってはいないかという話となったらしくって。アメフトという畑の違うスポーツに打ち込んでいることを反対されている訳ではないのだが、心身共に厳しく絞り上げるような武道の鍛練に身を置く人には、球技スポーツなど、どこか遊びのようにも受け取れてしまうのかもしれなくて。そこで、その鋭気が健在なのなら此処で見せておくれと、正に唐突に声をかけられてしまった清十郎さんであったらしい。直接中庭へ出る戸口から庭履きを突っかけて降り立ったその場所のすぐ傍らに、思いがけなく立っていた少年を見て、ほうと吐息をついた彼の眸が、

  ――― ………。

 穏やかに和みほどけたのを見て。何故だか…こちらまでが ほっとしたセナだった。気のせいかも知れないが、そのやわらかさ、帰って来たことへの安堵という感触がしたからだ。
「待ったか?」
「…あ、いいえ。」
 小さくかぶりを振ったセナの小さな肩に後ろから両手をおいて、
「清ちゃんたら、汗臭いわよ?」
 たまきがそんな言葉を差し挟む。セナが見ていたのは途中から。静かな対峙に見えたが、それでも立派な武道であるのだし、派手に組み合わずとも…気を張れば体力だって消耗するだろう。言われてみれば。道着の合わせが少しばかりくつろげられた胸元に、ほのかに光るものが見えもする。
「シャワー、浴びてらっしゃいな。それまでセナくんは居間で待ってるって。ね?」
 最後の呼びかけはセナ本人へ。訊かれて"あ、はい"と慌てたように応じた少年の、柔らかな髪へと大きな手を載せ、くしゃりと掻き混ぜてから母屋の奥へと向かった、大きな背中。
"………。"
 選択肢は幾つもあって、その中から選び取った道を進んで"今"へと辿り着いた彼と自分と。見慣れない道着に包まれた背中を見送りながら、そうなんだなとまざまざと実感した。自分の側は選ぶほどの資格に達せず"でもしか"だった場合が断然多かったような気もするが、進の側は違う。その頑迷なほど融通の利かない誠実さと、真摯な克己心とによって心身を鍛え上げ、数多
あまたな選択肢を得たその上で選んだ結果、此処に…アメフト界の"史上最強"という高みにいる彼であり。もしかしたなら、武道の世界でそういう位置にいた彼かも知れないんだなと、そうと思うと…何とも言えない溜息が零れる。
"…良かったぁ。"
 出会えて良かった。逃げないでいて良かった。関心を持ってくれて良かった…と。そんなことをしみじみ思う少年へ、

  "???"

 一体何に感慨深げになっているのかしらと。シャクヤクの若い梢の先が陽光を梳いて降りそそぐ木洩れ日の中、カナリアのように小首を傾げるたまきであった。




  〜Fine〜 03.5.19.


  *サブタイトルに意味はありません。
おいおい
   何だか進さんて、
   和風のいで立ちが似合いそうだなと思いましたので、つい。
   これを使うかどうかはまだ考えてない設定ですが、
   亡くなられた祖母に教わってて、
   茶の湯のお作法も一通り
   身につけてる進さんだったりするんですが…。
   似合いませんかね? そういうの。
   ちなみに、筆者は実は"合気道"ってよく知りませんで、
こらこら
   まま、これからは出すつもりのない要素ですので平にご容赦。


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