沈丁花

 まだまだ油断できない"寒の戻り"もありはするが、それでも。桃の節句を過ぎてしまうと、陽射しの密度が随分と増したような気がする。無数の針みたいにチクチクと、肌目を突き通って体の芯にまで染み通る、素っ気ない冬の空気もいつしか和らいだようで。冷たいビロウドみたいな、つるんとした感触が風から消えて、陽射しもどこか人懐っこい。緑苑周りのジョギングコースを駆ける、トレーニングウェア姿の人の数も増えた。
『体が温まるのに、時間が掛からなくなりましたよね。』
 いきなりコースを駆け出すのではなく、きちんとストレッチで体をほぐしてからの、ちゃんとしたトレーニング・メニュー。恐らく"走る前には…"という行動への条件づけとして、基本的なものが当然ごとのようにその屈強な体へとインプットされているのだろう。無言のまま、各種のストレッチを始める彼に、見様見真似で自分もこなしつつ、眸が合えば"にこっ"と笑ってくれる愛らしいパートナー。たとえ誰かと一緒であっても、話すことなぞそうそう無いからと無駄なお喋りは一切しないし、端正に整って重厚で鋭角的なその表情だってあんまり動かさない。いくら集中している最中だとはいえ、愛想の"あ"の字も無い彼であるのに、それと分かっていながらも、先の一言のような言葉をかけてくれる優しい子。こちらからの返事がなくとも眸が和んでほころぶのが判るらしくて、瞬きのおまけが付いた小さな会釈は判りやすいまでの"笑顔"扱い。その大きな琥珀色の瞳が眩しいくらいの喜色に満たされ、頬を染めてまでして笑い返してくれるのへ、当初は却って面食らったほどだったのに、
"…慣れというのは恐ろしいな。"
 では今は…というと。その小さな体を冷たい風から守るようにと、大きなコートで囲って取り込んだ腕の中などの、それはそれは間近い懐ろから。どうしたんです? 笑って下さいようとばかり、小首を傾げながら"きゅう〜ん"と見上げて来られると。少しだけ…口の端が持ち上がるようになった彼だったりするから、まさに"継続は力なり"。
おいおい 温かさが嬉しくて、それがために自然とあふれ出る感情から…とかいうよりも、そうすればますますのこと、この子は頬を染めてそれはそれは嬉しそうな顔をしてくれるから。それが見たくて、こちらからももっともっとと欲してのことだ。人の欲とは、なるほど際限キリが無いなと思う。
「キツくなかったか?」
「はい。大丈夫です。」
 久し振りのこととて、いきなり元のペースはきついかと遠慮してか、短く終わってくれた"他校の先輩さん"へ、小さなランニングバッカーくんはあんまり呼吸も乱さぬまま、やわらかそうな頬を赤くしてにこにこと笑って見せた。学校での授業や部活で走る時でも、どうかすると走り出す前から既に背中や肩などがぬくぬくとしている時もあるほどで。それにも増して…大好きな人と並んで走るのだからして。吐く息の仄白さも気にならないまま、少し前をゆく大きな背中についつい笑みがこぼれて仕方がなかった。

  "ホント。久し振りだもんな。"

 秋から冬場にかけて、緑苑内の奥向きに見つけたグラウンドの外周という"穴場"を走っていた彼らも、年末年始や学年末という慌ただしい季節は逢瀬自体が難しく。また、そんな合間の希少な時間、厳寒期の戸外で愛しい人を震え上がらせるのは忍びなくて。しばらくほどは此処にまで出て来ることもなかったのだが。一番寒い2月が過ぎゆき、マフラーはちょっと邪魔かなと思うようになって来て。日向
ひなたにいるとほこほこ暖かいくらいの気候になって来たので、

  『…あのあの、進さん。』

 久し振りに昼間から逢えると判った週末に、晴れたらまた走りませんかと、大好きな進清十郎さんをジョギングデートへ誘ったのは、小早川瀬那くんの方からだった。


            ◇


 荷物を例の競技場のダッグアウトに置いてのジョギングデート。それぞれがトレーニングウェアという恰好で、しかも部分的に…インナーに来ているシャツだとか靴下だとか、荷を積めたバッグだとかが学校指定のそれだったりする、いかにも地味ないで立ち同士であるのだが、
"………。"
 それでもついつい見とれてしまう。進の重厚な作りの体つきは、もう既
とうに大人よりも大きくて。そして、ただそれだけで十分に見ごたえがあって。
"凄いなぁ。"
 制服…は今時には様々あるので一概には言えないが、運動着は。シンプルなればこそそれをまとった人間の体格体型を最も露にする装束である。何しろ"機能優先着
ウェア"なのだから当たり前と言えば当たり前なことだが、学校指定などという画一的なものであればあるほど、それが包んだ肢体そのものが…大きいにつけ小さいにつけ、ストレートに評価される服装でもある。だというのに。ただのウィンドブレイカーやグラウンドコートさえ、隙のない機能美をもってシャープに決まって見えるのだ。武骨だが慣れたことへは案外となめらかに動く大きな手と、それに見合う頼もしい腕と長い脚。幅のある肩と広くて隆と肉の張った雄々しい胸板。走っている時と街歩きの途中にだけ見ることが出来る広い背中は、今は上着に覆われているが、薄着になるとかいがら骨の辺りがシャツに浮き出して、これもまた頼もしいと知っている。バランスが取れた、しかも重厚で存在感のある肢体。
"…やっぱり大きいなぁ。"
 自分がまた一際小さいからでもあるのだが、身長差は30センチもあるだろうか。そんなせいで、間近に並んで立っていると、お顔なぞは遠くなってちょっと寂しい。その代わりに見上げることが出来るのは、ほのかに赤銅色に灼きついて、触れるとかすかにひやりともする、革みたいにつやのある肌が張り詰めた、きりりと締まったおとがいや喉の辺りで。凛然とした彼の表情をなお引き締め、良く映えているとは思うのだけれど、
"…えっと。/////"
 見ていて何だかドキドキしたのは、時々抱えられたりしがみついたり、間近になった経験があればこそ、見た目だけではない質感や触った感触などなどという"それら"を知っている自分なのだと、遅ればせながら思い出したから。何だか急に頬や耳朶が熱くなり、慌ててタオルに顔を埋めて、けれどでも、
"えとえっと。/////"
 目許だけは出して、やっぱりその姿、視線で追ってしまう。こんなに大きな人だのに、背条のしゃんと伸びた姿勢と俊敏な身ごなしが機敏で軽快な印象を与えるから、傍らにいると無意味な威圧感はまったくない。
  *筆者注;慣れのない人が遠目に見るとどうだかは保証しませんが。
(笑)
"カッコいいよなぁ〜。"
 同じ男同士なのに惚れ惚れと見とれてしまう素敵な人。それは寡黙で男臭くて、表情もあんまり豊かな方ではないけれど、その分とっても凛々しいし。確かに無口だけれど、余計なことは言わないそのお声、たまに聞くととっても深みがあってやっぱり大好きだし。初めて逢った1年前は何だか怖いばかりな人だったのが嘘みたいに、今ではついつい、一瞬でも見逃すのが勿体ないからと、横顔だけでもじっとじっと、きゅう〜んと見つめてしまう、大きなのっぽのラインバッカーさんで。
"………vv"
 こんなに大人な人なのに、思わぬところで朴訥な人でもあって。何かの時には素早く"ひょ〜いっ"て、腕を伸ばして支えてくれるのに、ぽそって抱え込んだそのまま懐ろの深みにまで掻い込んでくれるのに。こっちからお膝に乗り上がったり、にらめっこの途中でおでこをくっつけたりすると、実は…凄っごく分かりやすくどぎまぎしてしまうらしい。セナくんの側にしたって…実のところはまだドキドキしつつの、えいって勢いをつけての甘え方なのだが、そんなどころではないくらい…急に手が温かになったりもっとずっと無口になったりする進さんなのだそうで。それを世の女性たちのように"かわい〜いvv"なんて感じるほどには、まだまだスレていないセナくんにしてみれば、

  《思わぬところで不器用でもある人で、
   しかもそれを隠したり卑下したりはしないところがまた、
   何とも男らしい、朴訥で素敵な人。》

と、変換されているのだそうな。………蓼
たで食う虫も好き好き、アバタもえくぼというところでしょうか。(笑) 風邪を引かないようにと汗を拭いて、汗止めにと首に巻いていたタオルをほどいてコートを羽織って。荷物…といっても学校帰りではないので、日頃より小さなバッグをひょいと手に、
「行こうか。」
「あ、はいっ。」
 不意にこちらへとそのお顔が向いたため、その瞬間、ドキィっと肩を跳ね上げて締まったセナだったが、
「………。」
 眸を点にしかかった進だと気づいて、あやや…と慌てた。
「あ、あのあのっ。ボク、今、何かぼーっとしていて、それであの…。」
 もう怖がってはいないのに。ただ自分が勝手にびっくりしただけなのに。そんな仕草が彼を傷つけたのではあるまいかと、慌てて言葉を連ねる小さなセナの、ちょっぴり撥ねた髪を大きな手がもしゃもしゃと撫でる。温かな手の持ち主を見上げると、
「判ってる。」
 くすんと笑ってくれた進である。いつだって人を気遣う優しい子。昔は苛められっ子だったから、人の機嫌をついつい伺ってしまうんですよねと、寂しそうな笑い方をして話してくれたことも実はあるのだけれど。自分へのこれは、怒らせるのが怖いからではなく、優しい気遣いからのものだとちゃんと判る。その証拠に、不意に伸ばされた手へ怯えて見せない。それどころか…緊張を解いて嬉しそうに"えへへvv"と微笑うくらいだから、まるきり怖がってなぞいないと判る。今は良いが大会が始まったら、果たしてきちんと切り替えられるのだろうかとは、ただでさえ不慣れな"交際"というものへの唯一のアドバイザーである某アイドルさんの杞憂だったが…はてさてどうなんでしょうかねぇ。
(笑)





 寂れたグラウンドから出て少し歩くと、並木沿いのカラーアスファルトが敷かれたジョギングコースに出る。土曜の昼近くだ。早朝ジョギングの組はさすがにもう姿はないが、土日が完全週休二日制になったことでか、結構子供たちの姿がちらほらしている。いくら"今時"の子らでも、そうまで塾だのTVゲームだのと屋内でばかり過ごす訳でもないらしい。
"それとも、塾の合間の移動なのかも?"
 すぐ傍らを"バタバタ…っ"と駆け抜けていったのは、小学生らしき数人の子供たち。悔しいかな、自分とさして背丈が変わらない子ばっかりだったのへ"うむむ"と頬を膨らませたセナに、
「…。」
 悪いとは思いつつもつい、声を出さないままに笑ってしまった進だったりして。そんな二人の向かう先。ふと見やれば、学齢前くらいの子供たちが何人か集まって遊んでいる。
「…ってば、こ〜んなだったもんね。」
「じゃあ、こ〜んなだったら?」
「そんなの変っ。」
「変じゃないもん。こ〜んなだもん。」
 何が俎上に上がっているのやら、寸の詰まった愛らしい腕を精一杯に左右に広げて、大きさ比べをしているらしい。歩きながらの会話に夢中になっている、今度は間違いなく小さな子供たちをやり過ごし、それを見やってセナがクスッと吹き出し、
「ボクは小さい頃から小さかったものだから、ああいう"比べっこ"になると、いつも言い負かされてたんですよ。」
 今でも小さな少年はどこか懐かしそうに眸を細めた。それから、
「…あれ? 変な言い方になってましたね。えと、小さい頃は体が小さかった…じゃあ一緒なのかな? 子供の頃…かな?」
 言い回しが変だったですねと気がついたらしく、えとえと…と言い直そうとする。もう意味は通じていることだのに、おかしいと気がついたからと気を回そうとする、いつもの愛らしさが何とも微笑ましい。ついつい眼差しをゆるめて見やれば、
「う〜。///// なんか可笑しいですか?」
 またまたぷくりと頬を膨らませるものだから、表情をきっちりと読み取られるのも、時には痛し痒しかも。
あはは 悪かったと頭を掻くと、セナの方でも心得たもの。尖らせていた口許をすぐにもほどいて うふふと笑う。そんな調子でのんびりと歩く遊歩道は、春の陽射しにあふれていてほこほこと暖かい。とはいえ、
「…あ。」
 ひゅんっと軽やかに舞った一陣の風。もしかして"春一番"だったのかも知れない突風は、彼らの後方から吹きつけて。それと同時に風に攫われた何かが、二人の視野の真ん中を翻りながら飛んでゆく。真っ赤な炎みたいな犬の絵は…、
「あ、ボクのだ。」
 バッグの外側のポケットにねじ込んだ筈の、"デビルバッツ"のキャラクターつきのハンドタオル。そうだと瞬視で気づいたセナの動態視力は大したもので、
「取って来ますね。」
 足元の低い柵を越えて、舗装された道の外側、少し傾斜のある木立ちの中へと足早に駆け込んだセナである。まだ冬枯れの、恐らくは山桜の木。間隔を置いて二列になるよう、道に沿って植えられた、その上の段に飛んで行ったタオルは、ちょこっと高い位置の梢に引っ掛かって止まったものの、
"あ、もうちょっと上に登らないと…。"
 自分の背丈では届かない。斜面だったのを良いことに、根元を行き過ぎ、うんっと頑張って背伸びをして、
「やたっ!」
 端っこを指先に挟んだぎりぎりのキャッチ。引っ張ると案外と簡単に取れて、
"枝を折らずに済んで良かったな…。"
 ホッとしたのが…まずかった。
「…え"?」
 何かに躓
つまづいた訳でなし、踏み損ねた訳でもないのだが。しっかと踏みしめていた足元が"ずる…っ"と横滑りして体のバランスが崩れた。桜たちの春の開花に備えて、堅くなっていた土壌に手が入っていたらしく、早い話、地面が異様に柔らかだったらしいのだ。
「え? え? え?」
 そのままズルズル、ただ滑って降りてゆくだけなら害もないが、そうもいかない。腕から上体から、頭上の高みへと思い切り伸ばしていた不安定な体勢だったものだから、不意な横滑りという思わぬ力がかかったことで、
「あわっ、たっとととっ。」
 後ろざまに転びそうになって、反射的にばたばたと腕を振り回すが、それでも間に合わず、短いとはいえ斜面を転げ落ちそうになる。
"ふわ〜〜〜っ! (><)"
 せっかく久し振りに進さんと逢ってるのに。こんなドジして、笑われちゃうよう。呆れられちゃうかもだよう…と。何とか踏ん張ってた足が片方、完全に地面から外れて跳ね上がり、いよいよ落っこちそうになった危機一髪という瞬間に、こんなことを考えてしまうとは。小早川くん、相当に頭の中が進さんで一杯な様子でございます。
(笑) だが、こんな悲鳴も届く時には届くもの。
「…ふゃい〜っ。」
 ドシンと尻餅をつくのかな、それとも背中から落ちるのかな。土が軟らかいから大した怪我はしないと思うけど、それでも進さんに心配させちゃうな。ごめんなさい、ごめんなさい…と。ふわっと身体が浮いたのへ、いよいよピンチだと思い詰め。そんなお念仏をたいそう早口で唱えたところが。

  ………………………。

 いつまで経っても衝撃が来ない。

  ………あれ?

 あれれ?と。そろぉっと目を開ける。身体をぎゅうって縮めて、目も瞑っていたものだから、何がどう展開したのかも判らなかったのだが………そういえば。

  …えとえっと。

 身体が強ばっていて すぐには気がつけなかった。落ち着いてみると。背中全部、体ごと。柔らかく受け止められていると気がついた。結局、足が両方とも跳ね上がったまんまだったから、文字通りの"体ごと"だ。小柄だとはいっても高校生なのだし、スポーツマンでもあるんだし、それなりの重さはあるのに。倒れ込んだ勢いをうまく逃がして衝撃を押さえる、何とも上手な格好にて見事に受け止められている。………何に?

  「大丈夫か?」

 顔を上げると、上から逆さまに覗き込む男臭いお顔。たたたっと駆け上がったセナを見送った筈の進さんが、あっと言う間に追いついて軽々と受け止めてくれたらしい。
"はや〜〜〜。/////"
 助かりはしたが、でもでも、
「ご、ごめんなさいです。」
 結局は助けてもらってしまった。何をやらせても手のかかる子だと、これはやっぱり呆れられるかな。そんな気持ちが顔に出たのか、だが、進さんは、
「…。」
 喉を鳴らすようにして"くくっ"て小さく笑って見せる。そんな彼に、
「???」
 ほえ…?とばかり、セナは小首を傾げてしまった。進は決して人の失態を笑うような人物ではない。それに、やわらかい笑いかただもの、違うって分かる。
「あの?」
「…すまん。」
 何とか笑いを呑み込んで、
「間に合って良かったって思った途端にな。その…。」
 ちょっと言葉を濁してから、
「お前のこと、ボール扱いしそうになった。」

  ………はい?

「………あ。」
 言われてみれば。懐ろへ受け止めるように抱え込んでこそいるが、その抱え方、手の宛てがい方は、確かにどこかで見たような…。
「人間相手だともしかして投げ飛ばしてたところだから、その方が良かったのかもなと思った途端に…。」
 そんな自分に笑いが込み上げて来てしまったと。つくづくとアメフト人間で、だけれどそれを自分で笑えるようになったのは、結構なことなのかもしれないなと。そんな気がして、
「ボールの方が良かった、ですか?」
 それって何だか…何だかですようと頬を膨らませるセナくんに、それは分かりやすい笑顔のまま、進は舗道までのエスコート役を務めたのであった。





            ◇



 レンガ色したアスファルトの舗道に到着し、足が地から浮くほどしっかり抱えられていた頼もしい腕から降ろされたセナだったが、特にどこも…足首やら手首やら、ひねって傷めてはいないことを確かめてもらいつつも、
「………。」
 妙に黙りこくっているものだから、
「…小早川。」
 まだ怒っているのだろうかと、少々心配になった進は、案じるような声をかけてみる。こうまで親しくなったのに。愛の日には勇気を出して、ガーベラを手に"好き"と告白してもくれたのに。だのに、ボール扱いは確かにひどいかも。
「小早川?」
 ほんの少ぉし腰を曲げて、身体を浅く倒すようにしてお顔を覗き込むと。
「………あ。」
 何だか ぽうと、頬が赤い。進からの視線に気がつくと、
「え? …あっ。ああ、えっとあのっ。」
 我に返ってどぎまぎし出す。どうやら呆然・忘我という状態であったらしい。機嫌を損ねていないなら、それはそれで良いとして、
「どうした?」
 そんなまで、何にか気を取られていた彼なのだろうか。こんなにしっかと抱き寄せていた自分という存在を差し置いてか? ………さっきまで悪いことをしたなと思っていたものが"これ"である。
(笑) まったくもって"恋の山には孔子も仆たおれ"であることよ。(意味は各自で調べてねvv)勝手ながらもそれもまた恋愛にはつきものな感情で。ちょいと機嫌が傾かしぎかかった進さんへ、
「あのあの、進さんて良い匂いがするなぁって。」
「………?」
 はい?
「何か、ヘアトニックとか、お髭をあたった後のローションとか、使ってらっしゃいますか?」
 まだすぐ近く、ほんの傍らに立ったままでいた進の、前を開いていたコートの中。王城の校章が胸元に刺繍されたトレーナーの胸元、みぞおち辺りへぱふんと顔を伏せたかと思ったら、
「抱っこされてた間、凄っごい良い匂いがしました。」
 のけ反るように顔を上へと振り向けて、そんなことを言い出す彼だ。
「お父さんの煙草の匂いなんかじゃないし、先生方の…部活によっては違うんですけど、体育用具のや剣道の防具なんかの革の匂いでも、油絵のテレピン油の匂いでもないし。」
 くんくんとお鼻を…ともすればトレーナーへと埋めるような勢いで擦りつけて来て、
「男の人だなぁって頼もしくなる匂いがしていたから…。」
 抱えられている間のずっと、そんな香りがしていたものだから。それで"ぽうっ"となっていた彼だったと。
"成程…。"
 やれやれと再びホッとする。そういえば…結構何だかんだとあって、こんな風に抱え込むような体勢はこれまでにも幾度かあったと思う。小さなセナは自分の懐ろに丁度収まりが良いものだから、度々抱え込みもした。
"…匂いか。"
 そんな細かいものまで拾ってくれているとはと、満更でもなさそうな苦笑をしつつ、懐ろに擦り寄る小さな頭を大きな手で軽く抱え込んでみる。まだ陶然としている名残りから、こんな風に甘えかかって来た彼なのだろうが、

  "どのくらいで気がつくことやら…。"

 選りにも選って往来で、こうも明らさまにしがみつくとは、照れ屋な彼にはめずらしいこと。お昼時とあって今は人通りが絶えているが…、


  「………………あ。」


 おお、気がついたか。どんな風に慌てふためく彼なのか、気の毒ながらもちょっと楽しみにしてしまう筆者へ、ちょいと牽制の眼差しを向けてから、
「…小早川?」
 進はそっと声をかける。愛しい子。またぞろ あわあわと慌てないように、少しばかり腕を緩め、様子を見やれば、

  「違う匂いがする。」

 甘い香りにキョロキョロと辺りを見回し、
「あ、ほら。沈丁花ですよ。」
 やはり舗道沿いに植わっていた茂みに咲いていたのは、小さな小さな花々だ。小粒な赤紫のつぼみが8つほども寄り集まっていて。それが開くと何故だが白い花になる、コサージュみたいな可憐な花。
「…。」
 名前くらいは聞いたことがあったので、進も"ふ〜ん"と相槌を打つ。この花ならあちこちで茂みにと良く植えられているから見覚えもあったし…と思ったものの。果たしてそれはどこで見かけたのかまでは思い出せない。そんな自分と違い、
「向こうの茂みはユキヤナギですね。桜が終わった頃くらいから、それは綺麗な白い花が房みたいになって咲くんですよ?」
 思いの外、お花に詳しいセナくんであることへ、ついつい進の眸が和らいだ。この子は何と視野が広いのかと思った。自分はすこんと見落として来た、こういう可憐でやさしい存在たち。馬車馬のようにがむしゃらに、いやいや、奮起という名の感情や懸命という名の熱情にも縁のないままに。アメフトに必要な、何もかもを削ぎ落とした効率優先の体と心とを保つことだけ心掛け、これまでの十七年と幾日かという歳月を…時間を、ただただ淡々と紡いで来た自分と違い、何と豊かに生きて来た彼なのだろうかと思った。そんな幸いに包まれて、こんな優しい子になったのだなと思ったし、そしてそんな彼に出会えたのがまた嬉しい。

  「春って小粒のお花が多いんですよね。」

 馬酔木(あしび)もそうだし、桜や梅や桃だって小さい方ですし。あ、ユキヤナギって知ってたのは、まもりお姉ちゃんが教えてくれたんですよ? 鮮やかな緑の茂みにそれは良く映えて綺麗なんですよねと、にこりんと笑ったセナくんに。屈託のないその笑顔の方がよっぽど綺麗で眩しいなぞと、意識しないでそんなことをぽろっと言ってしまう、相変わらずの"天然さん"。
「いや、あのその。/////
 真っ赤になったセナくんが、言葉に詰まって"うぐうぐ /////"と困ってしまい、
「………あっ。」
 今頃になってようやっと、ぴとりとくっついたままでいる自分たちに気がついて。あわあわ慌てる可愛い人に、ますます表情の和む進さんだ。相変わらずの二人が相変わらずでいる、早春の昼下がりであったとさ。








   aniaqua.gif おまけ aniaqua.gif


  「あら? いい匂いね、玄関。」
  「でしょう? 沈丁花よ。」
  「ふ〜ん、これがそうなの。甘くていい匂いね。」
  「お花も可愛いでしょう? 清ちゃんがお土産にって、摘んで来てくれたの。
   街路樹だったらしいから、ホントはいけないのでしょうけれど、
   こんな小さいのだったら構わないかなって。
   ………たまきちゃん、どうかした? お顔が変よ?」
  「明日は竜巻かもよ、お母さん。」
  「これっ。」



   〜Fine〜  03.3.3.


  *今ちょっと、名前というか何というのか、
   呼び方が分からなくて困っている"体の部位"があります。
   二の腕の先の方、肘から手首までのこと、何て呼ぶのでしょうね。
   脚で言うところの脛
すねですが、単に"腕"で良いんでしょうか?
   でも、それだと肩から先の全部を指すようで、
   ちょっと違うだろうとか思いまして。

  *それはともかく。
   いよいよの2巻の発売ですねvv
   王城戦かぁ〜♪ 何だかワクワクしております。
   あ〜んなタックルとか こ〜んなキャッチとか
   あの大きな手でされちゃうのかな、なんて。
   いやいや、進さんがいっぱい出て来るだけでもvv


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