昨日のボクから明日のキミへ、は、

   ホントはこんなお話になる予定でした。
 



 何だろう。いい匂いがする。ちょっとだけ甘い癖のある、ミントの匂い。何だか温かいなぁ。…誰か傍に居るの? 頬にやわらかい手の感触。あの人の手と同じ温みだね。あ、おでこに何か当たった。ふんわりしてるのが前髪に重なってくすぐったい。…何だろう。ぽとりって落ちて来たもの。これも瞼に当たってくすぐったいな。



  ――― ねえ、もう泣かないでよ。



 柔らかな眩しさと白。そんな印象が、真っ先に視野へと飛び込んで来て。首元、肩の上へ、誰かが顔を埋めてるのに気づいたのはその次。あんまり長いこと眠っていたからか、体も重いし、頭の芯がぼんやりしてる。でも、それが“誰なのか”にはすぐに気がついた桜庭で。
「…あれ? なんで妖一がここにいるの? …あ、そうだ、花梨ちゃん…。」
 一気にフィードバックした記憶を、辿るままに口にするのへ、
「戻って来た、無事にな。」
 唸るような低い声が返って来て、そして。

  「そう、よかったね。」
  「よくねぇよっ。」
  「? なんで?」
  「…お前っ、あと少しでも遅かったら出血多量で死んでたんだぞっ?
   ここは病院で…知らせ受けて俺がどんだけ焦ったか、判ってんのかっ?!」
  「う〜ん、なんとなく。」
  「なんで…っ。大体、別れたろうが俺ら。」
  「うん、別れたよね。」
  「じゃあなんでっ!」
  「ああ、何かあるなって判ってもいたもの。」
  「……。」
  「妖一はいつだってそう。
   自分のためじゃなく、ボクのこと守るために、あんなこと言い出した。」

 それは不意な告白で。わざわざ夜更けの公園へと呼ばれて告げられた一言。

  『芸能人と付き合うのはもう疲れた。』

 本当に、このところ何にか疲れた顔になってた君だったから、心配してはいたのだけれど。まさかその矛先がこう回って来ようとは思わなくって。
「丁度大きな仕事が入ったばっかりだった。それもアメフトの振興会がらみのね。ボクがそっちを断れないってお膳立てしてそれから、別れ話を切り出したんでしょ?」
「………。」
 いつぞや、桜庭自身が口にした突き放し方そのままだったから…色々と策を弄するの、考えてる余裕さえ無かったんだなっていうのまで忍ばれて。
「加藤さんも高階さんも何も知らないって言ってた。でもね、途方に暮れてはいなかったよ。何だか歯痒そうな顔でいらした。だから…ボクがかかわるの、妖一や皆さんの迷惑になるんだって思った。」
「じゃあ…っ。」
 なんでと訊こうとした切迫した声を遮って、
「でもさ、もう妖一に逢えないのはイヤだったから。」
 くすすと微かに笑う。甘い微笑。大人びて来た端正なその容貌の、ちょっとだけ眉を下げて、子供みたいに意味のないままに甘える時のいつもの顔が、どうしてだか…切なくて胸に痛い。遠ざけたのに。無事なようにと。何も知らないまま、遠いところでどうか屈託なく笑っていてと。そう思って遠ざけた筈なのに。選りにも選って単身で、自分の及び知らない危地へと飛び込んでいた桜庭で。警察からの知らせを受けて、小さな姪が無事に戻って来て、それから…此処で昏々と眠る彼と久々に再会して。どれほどの衝撃を受けたことか。
「………。」
 怒っているのだか、困っているのだか、そんなような複雑な表情を浮かべる妖一へ、桜庭はふわりと微笑う。

  「ねえ、もう泣かないでよ。」

 温かい指先が目許を拭う。深い眠りから自分を揺り起こした涙を拭う。強くて綺麗で、賢くて優しくて。傍若無人で天下無敵で、意地っ張りで…寂しがり屋で。この細い体の一体どこに潜ませているのか、途轍もない馬力の生気と強靭な性根の持ち主で。いつだって肩をそびやかして高笑いしてた君だった。それが…少しだけ疲れたまんまな顔をして、ちょっとだけ悔しそうに眉を寄せて、切れ長の淡灰色の瞳を潤ませている。そんな彼がやっぱり愛惜しくて堪らなくって。まだ体が重いのとか、全然 気にならなかったよ。凄いお薬だなって思ったくらい。………そんな風に後で言ったら、しっかりと殴られたけれどね。






            ◇



 一緒にいることでボクに何かされるって、それを恐れてるんだなって思って。そうと考えを固めていたら、妖一、次期会長に名乗りを上げた冴子さんの秘書なんかやってる。遠い欧州に本拠がある大企業のお家騒動だなんて言われて、話題になっててビックリしたけどサ、まだお爺様だって健在なのに話が急すぎて変だなって。それと、冴子さんといえば花梨ちゃんでしょ? 冴子さんは妖一みたいに強い人だけれど、唯一の弱点は花梨ちゃん。そういえば、近々遊びに来るって言ってたのに姿を見ないから………。




 脾腹を間違いなく刺したのに、がっちりと胸元へ長い腕を回して来ていて。どういう心得があったのか、外れない羽交い締めへと持っていってる。ただのタレント、面が綺麗なだけの腰抜けだと思ってたのに。おいしい話があるんだってね、なんて、一端
いっぱしな言いようで近づいて来たのへ。金が目当てかと、薄っぺらな奴だと嘲笑してたのに。一体どこにこんな力が残っているのかと思うと、雨の中、氷混じりの冷水をかぶったみたいにゾッとした。
「ねぇ、僕が無理に言わせたっていうんじゃ証言にならないんだけど。」
 強い雨脚に紛れそうな声が、けれど歯切れのいい濶舌で訊いて来たのへ、
「違うって。そ、そうだっ! その子の服っ。」
 これ以上粘られるのは危ない。ホントに警察が駆けつけてしまう。俺から…俺が発端で破綻したなんて兄貴に知れたら、どんな目に遭うか。どうせこのまま、こいつは遅かれ早かれおっ死んじまうんだ。こいつに何言ったってサツにまで届かなきゃいい。そうと思って腹を決めた。
「警察が発表してないことだから知ってる奴はいねぇ筈だ。特別注文だっていう、○マァルの青いジャンパースカートに白いブラウス。水色のポーチを下げてたっ。」
「ふ〜ん。それで? 今どこに居るの?」
「よ、横浜の本牧埠頭の、●番倉庫っ。俺のカノジョがついてて監禁してある。肝の座った子で全然騒がねぇからよ、乱暴なことはしてねぇ。………ホントだってっ!」
「…そ、か。」
 そこでとうとう意識を失って。雑居ビルの屋上、打ちっ放しのコンクリの上へ、ずるずると崩れ落ちる長身。やっと解放されたかと息をつき、その手から携帯電話を取り上げようとしたが、
「そこまでだ。」
「テープがなくとも、我々がすべて聞いた。」
「…っ!」
 恰幅のいい、恐らくは警察関係者たちが立ち塞がって。チンピラが取り押さえられて、それから…。


   「…桜庭くん? ちょっと…誰かっ、救急車をっ! 早くっ!」






            ◇



「葉柱くんに随分と骨を折ってもらった。別に不良とかチンピラには縁なんてないって怒られちゃったけどね。それでも…盛り場の恐持てするチームや組織の抗争図とかには詳しかったから、最近の動向とか一緒に調べてもらって。そしたら急に金回りがよくなった奴がいるって判って。特に大きなチームにいる奴じゃない。ドラッグとか売りさばいてるような口の奴でもない。何かを自慢げに吹聴もしないんだけど。時々現れては、妙に羽振り良く、高い酒を呑みあさり、女を侍らせて高級なクラブで遊んでる。変だよねってことで…会ってみた。美味しい話なら乗せてよってウソついて。」
 物騒な話を、ふんわりと微笑って紡ぐ彼であり、
「高階さんとか、大人はサ、膨大な資料から検索をかけて、きっちりと大外回りから話を詰めてく、失敗のないようにって慎重に積み上げてくんだろうけれど。相手だって用意周到で、そう簡単には尻尾なんか掴ませないやり手なんだろうけれど。」
 だから、素人はただ黙ってみているしかないって理屈もようよう判る。でも、
「どんなに組織立った壮大な企みでも、直接動いてる一番下っ端の兵隊は僕らの世代だったりするからね。掘り出し物なネタが、案外とつい鼻先に見つかったりもするんだよね。」

 上手く行くかどうか、そんなことまでは考えてなかった。もしかしなくとも、全然“的外れ”かもしれないって思ってもいた。だって素人がやることだしサ。そもそも妖一の実家の運営してる企業って世界規模なんでしょ? だから、その辺でヒントが拾えるような、そんな簡単な話じゃあないって、見当違いもいいとこかもしれないって、それはどこかで覚悟してた。ただ、何かしていたかった。毎日、漁るように読む経済新聞。そっち系の難しいサイト。株価がどうの、カンパニー再編の動きがどうのなんていう、世間が、経済世界が気にする情報なんてどうでも良い。どんな顔してる? ちゃんと眠れてる? 経済ニュースで何とか、掠めるようにちらりと姿を見ることが出来る君は、染め直して撫でつけた濃褐色の髪の陰で凍ったような顔ばかりしていて…痛々しくて。警察の人たちがついて来てくれたのは、葉柱くんが匿名の電話をかけといてくれたから。彼、優しいよね。無茶ばっかしやがってって、怒鳴られてばっかだったけど。無茶するとこ、妖一に似てるって言われたのは嬉しかったかな。

「そしたら、何人目かで見事に大当たりしてね。振り切ろうとされて取っ組み合いになって。進から合気道とか習っとけば良かったなって思っちゃったけど、何とかしがみつくことは出来たから。とりあえず、携帯で証言を録音しようって思って。」

 今にして思えばあまりにも無謀なこと。計画も何もあったもんじゃない、当たって砕けろのいい見本。どんな破天荒な刑事ドラマでも、こんな危なっかしい無茶苦茶なんてしやしない。せっかく取れた証言だって、連絡先はなかったのだから…警察や妖一の元へ届くかどうか。自己満足もいいところな、傍迷惑な暴走だ。命が助かったのが奇跡なくらいに…。淡々と、自分からそんな言いようをする桜庭であり、
「だったらなんで…っ。」
 結局は自分を、肝心な妖一を困らせ悲しませたかも知れなかったのに。なのに何でそんな無謀をやったと、繰り返し尋ねたら、

  「だって、ヤだったんだもの。」

 それこそきっぱりと。瞬
まじろぎもしないで応じた桜庭で。
「妖一に逢えなくなるのも、妖一んコト困らせる奴も。どっちも嫌だったから、何とかしたかったの。」
 まるで子供の駄々みたいに。そんなしょうもない繰り言ばかり言うもんだから。
「俺を一番困らせてる馬鹿は、今俺の目の前にいるっ。」
「ありゃりゃ。それは困ったなぁ。」
 くすくすと笑う、性懲りのない奴。なあ、判ってんのか? お前が…何千億っていう途方もない金が一瞬で動いて、経済世界の勢力構図が一気に変わって、何もかもが引っ繰り返ったかもしれない、そんなとんでもない事態をたった独りで救ったんだぜ? なのに…言うに事欠いて、俺に逢いたかっただ? 俺を困らせる奴が嫌だっただ? 笑わせんじゃねぇっての、馬鹿。ぱさんと、布団の上から胸元へ顔を伏せる。布団が傷への重しにならないようにと、温室の骨組みみたいな覆いが腹にはかぶせてあるけれど、胸板は何にもされてなくて。さっきまでそうしてたみたいに、ぎゅううと、懐かしい温みへ抱きついた。甘い匂いも、柔らかくてくすぐったい亜麻色の髪も変わってなくて、
「…妖一?」
 響きのいい声も手のひらの大きいとこも、全然変わってなくて。ああ、そうだよな、1週間と経ってねぇもんな。俺まで馬鹿になったかな。髪を梳くみたいに頭を撫でてくれるのが ひどく気持ち良くて。それだけで泣き出しそうになるほど、優しくて温かで気持ち良くて。疲れてたのすっかり溶かしてくれるまで、ずっとずっとそうしてた。



  ――― なあ、おい。
       こればっかりはホントのホント。
       お前が一番、俺んコト困らせて泣かせてんだぜ?
       判ってんのか? おい。





  〜Fine〜  04.8.02.


  *なんのこっちゃなお話ですいません。
   悲恋は書けないと、重々判ってる私ですんで、
   どっちかを泣かせるのが限度かな?

  *えっと。私め、お話を書くに当たっては、
   日ごろポコポコと頭に浮かんだフレーズとか展開とかを
   メモに書いては机の上へと放り投げ、
   それらを組み合わせて一連の流れに組み立てる
   …という方法を取っておりまして。
   あんまり机の上が散らかっているのでと、
   プロットメモの整理をしていたら、
  『a-i-shi-te-ru』の別版のメモが出て参りまして。
   実はこういう話にするつもりだったんですな、当初は。
   (冴子さんというのは妖一さんのお姉様で、
    花梨ちゃんというのは彼女の一粒種のお嬢ちゃまです。)
   でも、何だかとんでもなく壮大な構成にしないといけなくて。
   いつぞやの茶番みたいに、
   セナくんをまた泣かせることになるやも知れなくて。
   この暑さで根気がなくなってたもんだから、
   結局“通り魔・ストーカー設定”の方へと日和ったんですな。

  *どっちにしたって妖一さんを泣かせた訳で。
   泣かす奴は許さんとか言っておきながら、
   あんたが一番泣かせてないかねと、
   桜庭くんとは一度とっくり話し合いたい所存でございます。
(苦笑)

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