ハミング
 〜humming  

 
 やわらかなラベンダー色に暮れなずみかけた早春の薄暮の中に、小さな背中を見つけた。駅の改札口前。少しばかり外へと出っ張った、雨よけの庇屋根を支える武骨な柱に凭れている、見慣れたアイボリーホワイトのコート。駅から出て来る人との待ち合わせであるにもかかわらず、駅の外の方を向いている彼なのは、ちょっと早くに来すぎたせいで暇を持て余しての身じろぎのせい。まるで午睡の中で無意識に打った寝返りみたいに、ついつい今は向こうを向いてしまっているというところ…と思われる。彼が通っている学校は線路の向こう。こちらは彼にすれば裏側の改札口にあたるのだが、いつもの喫茶店や散策コースの公園はこちら側にあるため、ちゃんと連絡をし合って待ち合わせる時は踏切を渡ってくる彼であり。他には待つ人の影も無い、がらんとした空間にぽつんと一人、小さな背中が佇んでいる様は、それが春の間近い夕景の中であってもどこか寂しげに見える。そんなところへ、


   ――― さぎり消ゆる湊辺
みなとべ

       舟に白き 朝の霜

            ただ水鳥
みずどりの声がして…


 か細い声が聞こえた。日頃からも"果たして声変わりを済ませているのだろうか?"と つい思うような、甘い舌っ足らずな声をしている少年で。その愛らしい声が何げなく口ずさんでいる、どこか懐かしい歌。会話では溌剌としたそれとして耳に馴染んでいた声の筈が、今はたいそう切ないものに聞こえて。
「………。」
 つい、声をかけそびれて聞き入っていると、
「………あ、進さん。」
 ふと、こちらの気配に気づいたのだろう。浅い眠りの中から目覚めた人のように、表情にパッと張りが出て、凭れていた柱から身を浮かせる。にこにこ笑って見せるのは、先程までの切なさも払拭された、いつものお元気そうな彼だ。ちょこっと撥ねた前髪に、大きな眸。柔らかそうな頬と表情豊かな口許には、目映いばかりの笑みが滲んでいる。こんなにも小さな彼なのに、その屈託のない生き生きとした様子にあうと、何故だろうか沢山の生気をそそいでもらえるような、ほこほこと暖まるような気がするから不思議だ。すぐ傍らまで"ぱたた…"と寄って来た彼へ、慣れのない者には分かりにくいだろう、かすかに和んだ眼差しを向けながら、つい。
「…続きは。」
「はい?」
 訊き返されて、いや何でもないと。言葉を濁し、歩きだす。ささやかな逢瀬の時を過ごす、いつもの喫茶店へと向かう慣れた道行きだが、彼にしては随分とゆっくり、相手の歩幅に合わせて歩くようになった進の、いつもならぎりぎり真横をぱたぱたっとついて来るはずの少年が、
「…?」
 声をかけたその場に立ち尽くしたままでいる。それに気づいて立ち止まり、相手の方を大きな肩越しに振り返ると、
「…うん。」
 何にか納得したらしく、頷いて顔を上げたセナが、あっと表情を弾かれてやっとぱたぱたっと黒いコートの隣りへ追いついて来た。
「すいません。」
 ぼんやりしちゃって。先程と変わらぬ様子でにこっと笑った彼に、
「…。」
 物問いたげな眸を向ければ、はいと頷いて説明を始める。
「あのあの、今ボクが歌ってたのは"冬景色"っていう歌なんですよね。今朝方、ウチの近所からピアノの音がして、それからずっと引っ掛かってて。」
 ひょんな拍子に聞こえた音楽が、意味もなく訳もなく、妙に耳について離れないというのはよくあることだ。
「歌詞がところどころどうしても出て来なくって、一日かかってやっとさっきのところまで思い出せたんですけれど。」
 最後の1節がどうしても出て来なくって。
「進さんが訊いた"続き"って、そのことでしょう?」
 こちらこそ、唐突な思いつき。彼の歌声なぞという、もしかして初めて耳にした貴重なものを、もう少し聞いてみたくてつい呟いてしまったこと。それを聞き逃さず、また…曖昧なまま誤魔化そうとしたこちらにムッともせず、その脈絡をきちんと考えてくれた優しい子。ああと眼差しで頷いて、それへ"ふふvv"とやっぱり微笑って相槌を返してくれたセナへ、
「題名は分かっているのだろう?」
 こちらから訊くと、
「はい。」
 こくりと頷く。一緒に登校したまもりが教えてくれた。その時に歌詞も訊いとけば良かったですねと、少しだけ眉を下げて ほこりと苦笑うセナの腕を取り、
「え?」
 進は辺りを見回すと、予定の方向から逆の商店街の方へと歩き始めたのであった。



            ◇



 彼らが向かったのは商店街の中の小さな小さな書店だ。小学生向きの文学全集やビニール袋に入れられたコミックス各種。分厚いドリル各種、受験用の赤い表紙の参考書、随分昔のベストセラーだったような単行本がいつまでも並んでいるような、間口の小さな…いかにも商店街にありそうな本屋さん。その奥向きの棚をぐるりと見回して、セナには見上げ続けたなら覿面(てきめん)首が痛くなるほど随分と高いところから進が"すいっ"と抜き出して見せたのが、
「…唱歌?」
 童謡や唱歌の教本らしきもの。大きな手の中のパステル調のイラスト付きの表紙に、あっと少年の口許が丸ぁるく開く。
「そっか。これなら載ってますよね。」
 差し出された本をぱらぱらめくり、後ろの方の索引からタイトルを探して…、
「あった。これです。」
 楽譜の下に連ねられた歌詞。探していた残りの歌詞はすぐに分かった。

   ――― いまだ覚めず 岸の家

「え?え? そんなでしたっけ?」
 活字で書かれているとあまりに素っ気ないし、何より短くて。つい、小声で最初から唄い出したセナであり。
「〜〜〜♪ あ、そかそか。」
 メロディに載せると、成程、それで尺に合っている。嬉しくなって、ついつい。もう一度最初から、小声で口ずさむと、

   ――― ………♪

 そこへと頭上から重なったのが、柔らかな低音部。
"…え?"
 ビックリしつつもそのままに、二人こそこそ唄ってみて。ふふ、くくと、顔を見合わせて笑ってしまったその隣り。
「上手だねぇ、お兄ちゃんたち。」
 店主夫人だろうおばさんが、ハタキを片手にそれはにこにこと、やさしげな笑顔を向けてくれたのだった。



            ◇



 思わぬ聴衆がいたことへ"どひゃあ /////"と真っ赤になったセナは、だが、その教本を進んで買ってしまった。書店のカバーをかけられた教本を適当にめくっては、お行儀が悪いが歩きながら、
「あ、これも知ってますvv」
 傍らからそんな風に話しかけてくる弾んだ声が何とも楽しげで。とはいえ、読みながら歩きは足元が危ない。時折、舗道の段差やブロックタイルの縁につまづきかかるのへ、進がひとつひとつタイミングを見てやっては、背に回した片腕だけで"ひょいっ"と持ち上げて避けさせる見事さよ。…いっそおんぶなり抱っこなりしてやった方がどっちにも安全なのではないかとも思ったが、こういう人目のある場でそういうことをすると、さすがに恥ずかしがるセナだというのは学習したので(…いつ?/笑)、ここは"変則二人三脚"を頑張って。そうやって辿り着いた公園の傍ら。いつものファミレスの喫茶コーナーへと落ち着くと、テーブルに本を広げて、何とか唄える幾つかを"これとこれと"と教えてくれる。
「これとこれは進さんも唄ってましたよね。」
「…う"。」
 歩きながらの読書中、ついつい口ずさんでしまった幾つかに、やっぱり優しいお声が重なっていたのをちゃんと聞いていたセナくんであるらしく、思わぬデュエットが出来たことへ ほこほこと心から嬉しそうな様子でいる。
「初めて聞きましたvv」
 いつもいいお声だなって思ってたけど、唄うとまた違って聞こえますねと、嬉しそうな、蕩けそうな笑顔を見せてくれる少年で。自分の方こそ、硝子細工の琴線のような、何とも言えない か細い切ない声で唄っていたくせにと………思いはしたけれど、
「………。」
 されど言い返せないまま、コーヒーをすする。言えばまた真っ赤になって"そんなことないですっ/////"と照れまくるに違いない。そんな様子の愛らしさを見たくない訳ではなかったが
(笑)、彼にしてみればドキドキと困ることでもあろうから。また別の機会に…二人きりの時にでも言ってやろうと胸にしまっていたところへ、
「ほら、あの辺り。」
 その少年が、小さな手を伸ばして、不意に窓の外を指さした。そこには…時々、二人してジョギングをしている競技場を奥に呑んだ緑地公園の、遊歩道に沿った長い並木の列が、もう陽は沈んだ薄暮の中にぼんやりとした影絵のように見えて。
「川に沿ったあの土手。あれ全部桜なんですよ。」
 去年、いやいや、写生に来たと言っていた小学生の頃にも見たのを、しっかり覚えている彼なのだろう。全部がそうだということは、結構な長さだからお花見の季節にはさぞかし賑やかになるのだろうなと、そこは世事に疎い進にも想像出来たが、
「あれが咲いたらお花見しましょう。そいで、これ、一杯唄いましょうね?」
 それこそ春の陽だまりのように、ほこほこと笑って見せるセナであり。どんな苦行や疲労疲弊も、あっさり吹っ飛ぶその笑顔の威力についつい呑まれて、
「あ、ああ。」
 声まで添えての頷首にて、しっかり約束していた進であった。………いいのか? その頃っていうと春季大会直前だろうに、そんな呑気なもの、約束して。
(笑)






    aniaqua.gif おまけ aniaqua.gif

    「…お母さん、今の清十郎?」
    「ええ、そうよ。珍しいわよね、鼻歌唄ってるなんて。何年振りかしら。」
    「あたしなんか初めて聞いたわよ。」
    「あら、そぉお? 小さい頃には結構唄ってたのよ?
     そうね、お声は少し低くなっちゃったかな?」
    「そんな呑気なこと言って。
     明日は大嵐かもしんないわよ? それとも吹雪かな?」
    「これっ、たまきちゃん。」


   〜Fine〜  03.2.12.〜2.14.


   *バカップル話、その一。
(笑)
    ちゃんと歌詞を唄ってる話なのに鼻歌
ハミングとは、
    タイトルが微妙にズレてますが、
    おまけで埋めたと…察してやってくださいませ。
おいおい
    春が近いせいか、こういう小ネタもポツポツ浮かびます。
    あんまりにも短いというか、
    端切れみたいなんでどうしようかと思ってたんですが、
    こういう作品もあっていいかなと思いまして。
    気の早い話ですが、もしもアニメ化されたなら、
    進さんには是非とも良いお声の人を使ってほしいです。
    芸達者な、あちこちで良く聞く有名な人でなくて良いから、
    寡黙だからこそ、たまに聞くお声がとっても魅力的な、
    そんな人が良いなぁと思ってやみません。


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