innocent-matter 〜サイドT
 

  何げない隙間の、何げない間合い。まさに、右を見て左を見てというような、ほんの僅かな一瞬の隙のことだった。何か短い声がしたので、他には家人も居ないことだし、自分が呼ばれたのかなと。キッチンからパタパタと戻って来た瀬那の視野の中、

  「…っ! ちょ…、進さんっ!?」

 明るい居間の真ん中の、ソファーのいつもの定位置で。陽溜まりの中にあって ぬくぬくと暖められた、大きな肩や広々とした胸板が、見ているだけでも胸の奥が擽ったくなるほどに嬉しかったものが。その胸の前へと持ち上げられていた手から、ぼたぼたっと………濃色の何かがあふれ出していたものだから。
「何を…っ!」
 そんな光景に息を引いてから、だが。その場で固まらず、素早く体が動いている。出て来たばかりの隣りのキッチンへと飛び込んで、棚の上から輪ゴムを箱ごと。それから、まだ封を切っていない、エンボスタイプの方のキッチンペーパーをやはり箱ごとと、救急箱とを がさっと掴んで、落とさぬようにと抱えたままに居間へ駆け戻る。
「見せて下さいっ。」
 どうやら果物ナイフで切ったらしく、右手の親指の腹からの出血で。キッチンペーパーを当てて血を吸わせながら、輪ゴムを指の付け根に何重にも巻き付ける。指全体が真っ赤になったのを通り過ぎ、紫がかるほどまで巻いて締め上げてから、ペーパーを何度か取り替えて、ただただじっと様子を見て…。

  「…止まった。」

 指先などの"末端部分"には感応器や毛細血管が沢山集まっているので、小さな傷でも思ったより出血するもの。それだけ敏感で重要な部位だからでもあるのだが、それでも…この出血の仕方は尋常ではなかったため、怪我を負った進本人でさえ、その瞬間は呆然としてしまったほどで。
「…小早川?」
 テーブルの上や足元へ無造作に放られて山になった、血で汚されて丸められた赤いペーパーたち。そんな中で…自分の膝の間にその細っこい身を割り入れて、膝立ちになったまま ずっとずっと。それは大事そうに、自分の大きな手を捧げ持っていてくれた瀬那であり、
「…びっくりしました。」
 冷静に。俊敏に的確に対処してくれた彼だったものが、どうやらさほどまで深い傷ではなかったらしいとあって。ほうっと安堵の吐息をついたそのまま、ふにゃりと萎えて座り込む。
「これで止まらなかったら、お医者様に行って縫うとこでしたよ?」
 大きめの絆創膏を少し強い目に傷の上へ貼りながら、こちらの手へと添えられた小さな手。それが…少しずつ震え出す。
「小早川。」
「なんで…。」
 声も震えていて。今やっと、恐慌状態が彼に追いついたらしいと分かる。何も考えずに対処していたものが、その思考の中に封じていた"感情"を解き放って。驚いた、怖かった。戦慄と不安。そんな感情がじわじわと滲み始めている兆候の震えだと判るから、
「…っ。」
 無事だった方の左手で薄い背中へと腕を回し、有無をも言わせず、一気に抱え上げて膝の上まで。黒っぽい色合いのスラックスを履いた自分の腿の上へと腰掛けさせてから、トレーナーの胸元へ抱え込むように、愛しい人の上体を抱きすくめる。小さなセナは咄嗟に"いやいや"と身をよじって抵抗しかかったものの、目の前になった進の傷ついた右手を見ると、
「………。」
 はたと身動きを止めて…ぽそんとこちらへ、やっと凭れて来てくれた。人の痛みがよくよく分かる、繊細で優しい子。気持ちのすれ違いや感傷へのそれへでも、敏感に気づいて深く気に病むものが、こんな分かりやすい"傷"を間近に見て。しかもそれを負ったのが、いつだって優先して大切にと心掛けている大事な人であったのだから、その胸に刻まれた心痛は いかばかりか。
「…一体どうしたんですか?」
 テーブルの上、放り出されたままな小さな果物ナイフが、汚れたペーパーの陰に埋もれかかっている。安物だが切れ味は良く、銀色の刃が無気質な光を冷たく帯びていて、ちらと見やったセナの眸には一際恐ろしいもののようにも映った。同じテーブルの上には、つややかな赤いリンゴが幾つか鉢に盛ってあり、キッチンからコーヒーを運んで来かけていたセナが、腰を落ち着けてからゆっくりと剥いてあげるつもりでいたもの。早く食べたかったのか、それとも気を利かせて自分がと思って手を出したのか。だが、その結果だとしても…。
「進さん、果物剥くの、上手だったのに。」
 料理の腕前は知らないが、リンゴや梨、柿などは、むしろセナよりも綺麗に"スルスルッ"と剥いてしまう彼ではなかったか。進さんの大きな手は何でも出来てしまうんですねと、ちょっとだけ悔しそうに、それでも微笑って話したのは つい先日のことだのに。
「それでなくとも、大事な手ですよ?」
 只今開催中の高校生アメフトの全国大会には直接縁のない彼だけれど、それにしたって…トレーニングにだって支障は出ようし、日常でも一番使う場所。
"でも…。"
 ということは、最も器用に、最も意のままに動かせる部位だということでもあって。ただでさえ刃物を使っていて気をつけなきゃいけない時に、そんな場所への注意がなおざりになっただなんて…。

  「一体どうしたんですか?」

 もう一度、先程の質問を繰り返すと、
「………。」
 懐ろの中へと抱えた小さな温みへ、大きな進さん、ちょっとばかり口ごもり。でもでも、言ってくれるまでは譲りませんという、真摯な眼差しからの無言の表明に、

  「…さっき、電話が掛かって来ただろう?」

 やっと、お口を開いてくれて。
「あ、はい。」
 まもりお姉ちゃんからの電話が携帯電話の方へと掛かって来たの。進さんが来てる時はいつもは電源切ってるんだけど、今日はね、進さんとこっちの駅前で待ち合わせしてたから、その時に使ったそのままにしていて、うっかり切るのを忘れてた。
『あ、セナ? あのね、今、セナのトコの小母様と一緒にいるの。それでね、良かったらセナも出て来ないかって。Q駅の、ほらセナと良く来てた"アルバーナ"にいるんだけどね…。』
『あ、あ、あのね。今、お友達が来てるんだ。だから、行けない。』
『あら、そうだったの。ごめんなさいね。それじゃあね。』
 相変わらず優しい まもりお姉ちゃん。自分も受験勉強で大変なのに、いよいよ開催、最初の試合も来週からという全国大会の只中にあって、セナの神経がぴりぴりとしてやいないか、何か気を紛らわせることは出来ないかと、いつも気にかけ、言葉を掛けてくれるほどだから。気分転換でもどうかと慮
おもんばかってくれたに違いない。でもでもね、今日は大事な進さんとゆっくり過ごすことにしているのだからと断って、あらためて携帯の電源を落としたの。
"…そういえば。"
 その間合いとほとんど同時じゃなかったかな? 進さんのお声がしたの。
「…進さん?」
 お電話が聞こえたの? お客様を放っておいてお喋りなんかしていたから、気を取られちゃったの? ボクのせいでのお怪我なの?
「あの…。」
 くぅ〜んと。眉尻を思い切り下げて、ちょっぴりしょげながら見上げた精悍なお顔。大好きな進さんの大切な手を、こんなにしたのはボクのせい? 何だかどんどんと"困った"というお顔になってゆくのへ、
「だから、その…。」
 日頃からあまり"釈明"というものを得意としない進さんだったが、何にも言わないでいると、このままどんどん"悪い"を自分へ引き取るセナくんだとよくよく分かっているものだから、

  「いつもは電源を切っていたのだなと、今さっき初めて気がついたんだ。」

   ………はい?

「進さん?」
 セナくんもまた、キョトンとしている。いくら察しの良い子でも、これでは材料が少な過ぎ。
「………。」
 こんな状況だというのに、ともすれば傲岸にさえ見えなくもない無表情。だがだが、実は実は。何と言ったものかと、これでもうんうんと頑張って言葉を探している進さんで。
「だから…その。」
 がりと後ろ頭を掻きかけて、だが、その腕の肘辺りをセナが"はっし"と捕まえる。

  「…?」
  「…。」

 二人の間にて、さすがは恋人同士という短い"アイコンタクト"が交わされたのですが……… Morlin.さん、これではさっぱり分かりません。
(笑) 傷のある右腕を後頭部へと回し掛けた進さんであり、それを察して"がばちょ"と腕にブレーキを掛けたセナであり。そんな行為へと
『どうしたのだ、小早川?』
と訊いた進さんへ、真摯なお顔で首を横に振りながら
『ダメですよ、その手は怪我をした手です。
 むやみに動かしたり触れたりしたら痛むだろうし、傷口が開くかも』
と目顔で応じたセナくんで。そしてそして、図らずしも。お顔同士が間近になったものだから、

  「あ…。/////
  「う…。/////

 ほぼ同時に、双方ともに真っ赤になったあたりは、何と気の合うことでしょうか。窓の外ではヒタキかメジロか。秋の澄んだ空気の中を、ちきききき…と高い声で鳴いて飛び立った気配が届く。間近い窓辺の傍らから、どこぞの彼方へと飛んで行ったその声の余韻が…透き通った風の中にすっかりと消えてなくなってしまったほどの頃合い。

  「…ふに。/////

 真っ赤になったセナくんが、進さんの広い広い胸へと頬を寄せ、恥ずかしそうに俯きながら…さっきまで触れていた口許を小さな拳でちょいと隠す。……………やったわね、あんたたちvv
(笑)
「えと。/////
 リンゴに負けじというほどに、真っ赤に熟れてしまった愛しい人のお顔を懐ろへと見下ろして。凛々しい割に…このところ頓
とみに手の早くなった伝説のラインバッカーさんは、やっと観念したらしく、
「だから、その。連絡も沢山入るのだろうに、電源を切っていたのは、もしかすると俺に気を遣ってのことなのか…と思ってな。」
 ちょっと省略の多い言い回しですけれど、つまり。これまでこうやって逢っている時に、そういえばセナの携帯が鳴ったという事が一度もなかった。だが、自分と違って、誰からも可愛がられている彼のこと。ましてやアメフト部の主務というお仕事をこなしている彼でもあって、単なるお喋りから連絡事項まで、きっと沢山の通話やメールがあったのだろうに。それだというのに…携帯電話の電源を落としていたセナなのだなと、そうと気づいた進さんで。遊びに来た自分をあくまでも優先して そうまでさせていた、心優しい彼の気遣いに、なのに今の今まで気がつかないでいたことへ。ナイフという危険物を持っていながら ついつい沈思黙考に入ったがために、切っ先のコントロールが疎かになった、と。それが顛末であったらしい。これには、
「…そんなそんなっ。」
 ぽうっと夢見心地でいたセナくんも、慌てたように身を起こして言いつのる。
「ボクには大して電話はかかって来ません。あの、メールとか引っ切りなしに送ってる子もいるみたいですけど、ボクはそういうのより、直に会う方が多いですし…。」
 どんなに相手のことを思って気を遣っても、気を遣われているのだなと恐縮させては何にもならない。それに…、
「どうしても大切な御用だったら、あっちの家の電話に掛け直して来るでしょうし、それに…。」
 うう…と言葉に詰まって、でも。優しく自分をくるんでくれている温もりの主へ、これ以上の誤解はさせられない。
「電源を落としてるの、進さんのため、じゃないんです。」
「???」
 お膝に座って、こんなにも間近になっていて、それで…こんなことを言うのは気が引けるのだけれど。やさしい進さんが自分のせいなのかって気に病んだら大変だから。ちゃんと正直に言わなくちゃ。


  「せっかく進さんと…二人きりなのに。
   誰かからの電話が掛かって来たら困るって、
   あの、邪魔されたらヤダからって、
   そう思って携帯の電源を落としてたんです。//////////


 たかだかそのくらいのことと思うなかれ。もうもう真っ赤になっての告白は、あなたのこと大好きだからという宣言にも等しくて。進さんへ気を遣って、ではなくて、自分が邪魔されたくなくてやってたことと、自分の勝手な処置だったのにと、頑張って告白してくれたセナであり。そんなことにハッとさせて、その結果としてこんな要らない怪我を負わせてしまったという順番なのが、彼にはいたたまれないことに違いなく、
"………。"
 大仰かも知れないけれど、でもでも、黙ってはいられなくてと、真っ赤になってちゃんと筋を通した可愛い人へ。進さん、何とも言えない擽ったそうなお顔になった。
"同じことなのに、そうではないのだな。"
 せっかくの逢瀬の邪魔をされたくはないから。それってやっぱり、進にしてみれば…自分への思いやりに違いないのだがと。他の誰かの言い分ならば、そんなのは詭弁だろうと聞く耳持たなかったかもしれないところ。結果は同じでも経緯や発端は違うことだと、言わずにはおれなかった可愛らしい人。相手の負担になることを最も嫌う優しい子へ、目元を柔らかく和ませる鬼神様だ。


  ――― お互い様なことを双方で思いやっている辺りが、
      いやまったくお熱いことで。


 背中に回した方の左手で、ぽふぽふと髪を撫でてくれる進さんへ、
「えと…。」
 ついつい力が入って、両手の拳を ぐうにしてまで力説していた自分に気づく。そのまま…こつんと、おでこにおでこをくっつけられて、覗き込んでくる深色の瞳が、何故だかとっても眩しくて。
「じゃ、じゃあ、リンゴ、剥いて来ますね? /////
 ちょっとズルして、進さんの腕の中から逃げ出したセナくんだった。








  aniaqua.gif おまけ aniaqua.gif


 皮を半分ほど残して耳にした、かわいいウサギさんを象(かたど)ったリンゴをお皿に盛って戻って来たセナは。テーブルのこっち側へと回ってくると、ちょこんと進さんのお隣りへと腰掛けて。それからそれから最初の1つをフォークに差すと、
「はいどうぞ。」
 何の衒いもなく、そのまま進さんの口許へ差し出した。
「あ…えと、小早川?」
 このくらいは自分で…と手を伸ばしかけるのへ、
「ダメですったら。出来るだけ右手は使っちゃいけません。」
 さっきまでは"ボクのせいですか?"と大きな瞳を潤ませていたものが。こういう風にいきなりきっぱりと強腰姿勢になれるのは、一体どういう切り替えが働くせいなのか。未来のお嫁様、なかなか手ごわいです。
(笑)
「う…。/////
 お口の前へと差し出されたウサギと向かい合い、ううむと顎を引いて、しばしの睨めっこをしたその後で。已なく、さくりと、頭に食いついた進さんで。
「美味しいですか?」
 フォークに半分残ったウサギりんごをお皿に戻したセナくんが、それは屈託なく訊いてくるのへ、うむと小さく頷いて見せる。………いえいえ、お世辞とか のろけとかじゃなくってね。良く熟していたリンゴだったし、茶色にならないようにって薄い塩水につけたらしいその案配が絶妙で。それからそれから…。美味しいよって示した途端に、それは嬉しそうなお顔になったセナくんの様子が、何よりの風味づけになったと言いましょうか。……………ああもう、こちらさんも熱々甘々でよろしかったこと。ずっと そうやってなさいってのvv





  〜Fine〜  03.11.16.〜11.18.


  *全国大会は始まっておりますが、
   その狭間の平日のひとコマということで。
   何を相変わらず いちゃついているやら…ですね。
(苦笑)
   実はこのお話、もともとは"ラバ○ル"の方で思いついたネタでして。
   そちらもUPしておりますので、よろしかったなら…どうぞvv


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