仔猫の爪

 

 「…どうしたんですか? それ。」

 チームメイトの予言通り、やはり開口一番にそれを訊かれた。案じるような、心配そうな表情で、だ。
『セナくんが見逃す筈はないからね。』
 だから絆創膏を貼れって言ったんだと、頭の中に思い浮かべた幼なじみの口を封じて、しっしっとちょいと乱暴に追いやった進清十郎だ。例え絆創膏を貼ったとて、何があって貼ったのだと、やはり訊かれるには違いない。何につけ大雑把な自分と違い、この小早川瀬那という少年は、何につけたいそう気を回し気を遣う、心優しい繊細な性分の人間であるのだから。
「大したことはない。」
「でも…。」
 少年の目線からはたいそう高い高いところにあるお顔の、左側の頬骨の辺り。2本ほどの短い傷があって、片方はよく見ないと分からないくらい浅いがもう一方は結構深そう。
「猫の爪痕だ。」
「…猫?」
 小首を傾げる小さな彼へ、だが、それ以上の言葉を思いつけず、

  「………。」
  「………。」

 ただ黙って見つめ合うばかりとなってしまった二人であり、いくら春が近いとはいえ、陽が落ちた後の吹きっさらしの駅前での見つめ合いは止めた方が良いと思うの。





 暦は新しい季節へ向けて日に日に進み、時々はまだ陽の落ちない早い時間帯に逢うことが出来るようになったものの、次の季節にはまた、例の大きな大会があるがため、練習量も自然と増えて。その結果として僅かな時間しか残されないにも関わらず、それでも…大好きなあの人に、あの子に、逢いたいから。それはそれは希少な時間、大切に使いたいとする彼らであるのだが。
「………。」
 確かに、本人の口から示された"それ"が、最も端的な"正解"であり、事態
コトの総てには違いないのだろうけれど。相変わらずに寡黙というのか口が重いというのか、いつ、一体どうして、猫になぞ引っ掻かれたのか…という"付帯状況"の説明が一切なかったものだから。
「………。」
 いつもにしたっても ついつい見上げてそのまま見とれるお顔ではある。いつもだったら見惚れるほどの大好きなお顔。深色の眸は冬の碇星のように凛と冴え、だのに…たまに視線が合ったりするとその色合いがやさしく和らぐのが、きゅう〜んとばかりに堪らなく嬉しくなる。意志の強さを映し出す、口角のきりっと引き締まった口許が、何とも男らしくてカッコいいなとついつい惚れ惚れしてしまう。あまり分かりやすくほころぶことは少ないけれど、頼もしくて強靭そうな線で縁取られた、ひどく大人びた、男臭い鋭角的な素敵なお顔。こんな間近にあるのがとっても嬉しい、大好きな進さんのお顔。それが今日ばかりは、何だか…何だか。
「………。」
 目許や口許よりずっと、頬の一点ばかりが気になって気になって仕方がなくて。それでついつい眸が離せないでいる。この季節でも浅黒く陽に灼けていて、鞣
なめした革みたいに張りのある肌に、真新しい見慣れない小さな傷痕。ご本人はケロッとしていて、もう痛みはないらしいのだが、
「…小早川?」
 どうしたものか。重ねて訊いたところでやはり"猫に引っ掻かれた"としか言ってはくれない進だろう。彼にとってはそれが事実の総てだからだ。もう済んだことだから、その前後まで語って聞かせる必要はなかろうと思った…と、
"そういうことなんだろうな。"
 つれないとか水臭いとか何とか言う以前の問題。セナが"今日はこんなことがありました"とお喋りすることには、それは和んだ顔をして総て漏らさず聞いてくれる彼だのに。自分への関心は極端に薄い人だなと思うことがたまにある。克己心の強い人だから、目線の高い、遠い先まで見据えている人だから、健康管理だとか有効な時間の使い方だとかいった、自分を高め、体力や能力を維持するための自身の管理や把握は、それこそ呼吸とか食事のようなものとして自然と身についているらしくて。けれど、それ以外の何かしら。そういえば…進の側から、本人の口から、あんまり聞いたことがない。
"…でも。"
 それはね、自分で見つけたり気がついたりすることで拾っているから別に良い。とってもとっても男らしい人。甘いものが苦手で、襟回りがラフな服装が好きで。理数系は得意だけれど、PCや携帯電話の操作はちょっと苦手。高校最速、力持ちで最強のラインバッカーだけど、今時のはやり言葉は殆ど知らない。
"そういう朴訥な人なところも好きだなぁvv"
 …まま、今更なおのろけはともかく。
(笑)
「どうした?」
 いつもの喫茶コーナー。小さなテーブルを挟んで向かい合って。普段もそうそう話が弾む訳ではなく、ただ視線が合うだけでほこほこと楽しいお手軽な…もとえ、可愛らしい人たちではあるのだが。あまりに黙りこくっている少年へ、何だか様子が変だなと声をかけて来た進へ、
「その猫が羨ましいなって思ってたんです。なんか狡いなって。」
「???」
 これまた妙なことを言い出すセナである。意味が掴めず、ぱちりと瞬きする相手へ、
「だって。その引っ掻き傷が消えるまでのずっと、その猫は進さんの意識を独り占めするんですよ?」
 今、自分がこうしてついつい視線を取られているように、
「顔を洗う時やお風呂に入る時に。鏡を見るたび、濡れたり触ったりして"ちりっ"て痛かったりするたびに、ああ此処には猫に引っ掻かれた傷があるんだっけって思い出すんでしょう?」
 ふうと小さく溜息をつきまでして、
「それって凄く羨ましいなって思います。」
 この人は、アメフトに関わること以外へは、あまり物事に関心を寄せない人だから。自分に何かと構けてくれることは奇跡なくらいの例外で、あのその"好きだよ"って言ってももらえたけれど。(やっぱり言ったんか、あの時/『雪の降る音』参照)でもでも、日頃の四六時中までも、彼の意識を独占するほどまでの存在ではなかろうから。どんな経緯があったかは知らないけれど、どんな猫ちゃんなのかも知らないけれど、この人の気持ちを捉まえることが出来るなんて羨ましいなと、そんな風に思ったセナである。
「あのな。」
 見知らぬ猫に負けちゃったと、ちこっとしょげている可愛い人。ふかふかの頬を制服の襟元へくっつけて、少しばかり俯いてしまった小さな彼へ、呆れたように何かしら、声をかけようとしかかった進だったが、
「………。」
 少年の愛らしい拗ね方へ小さく"くすん"と微笑ってから、

   「…俺は滅多に鏡は見ない。」

 そんなことを言い出した。突拍子もない一言に、
「…?」
 少しだけ顔を上げたセナへ、
「そうだな。顔を洗う時にはちょっとは染みるのかも知れん。服を脱ぎ着する時にも擦って当たるのかも知れん。」
 そんな風に続けて、
「だが、その時はきっと、今、見ず知らずの猫へ怒った小早川を思い出すと思うぞ?」
 悪戯っぽく笑って見せるでない、至って大まじめな顔でそんなことを言い出す進だったものだから、
「あ…。/////
 言葉の意味が…そこに含まれた稚気が、ふわりと胸の中に蕩けていって、何だかどぎまぎしてしまったセナであり、
「お、怒ってなんかいませんよ。」
「いや、怒ってる。」
「違います。」
 言い合いながら…何だか可笑しくなって来て。どちらからともなく"くすす"と笑い出してしまった二人である。そうか、そんな"のろけ"を言えるまでになったのか、進さん。
(笑)







   aniaqua.gif おまけ aniaqua.gif


 「で、ちゃんとセナくんに説明出来たのか?」

 翌日の学校にて。早朝練習に出るべく昇降口からクラブハウスへと直行する道すがら、最寄りの駅で顔を合わせたチームメイトの桜庭春人くんから、あらためてそう訊かれた進である。クラブハウスの傍の木の上に、登ったは良いが降りられなくなったらしい仔猫が立ち往生しているのに気がついて。それでわざわざ登って降ろしてやったところが、その仔猫、高みから降ろされると恩知らずにも命の恩人を引っ掻いて逃げた。
"以前なら、そんな小さな鳴き声には俺の方が先に気がついたもんだったんだけれど。"
 それはそれは小さな声だったのに、一番最初に気がついたのは進だった。ひゅんっと空を切って飛んで来た仔猫の左フックを、素早く避けて最小限の被害に押さえた反射もお見事だった彼曰く、

 『何だか気になる声音だったから。』

 幼いトーンの懸命な呼び声。それが何だか気になって気になって。それでどこから聞こえてくるのかと、着替えも後回しにして声の主を探し回り、救出作戦に打って出た彼であり、
"あれもまた、あの子を思い出しての影響なんだろうね。"
 そうと思うと微笑ましいことだと、こっちまでほこほこした桜庭ではあったものの、そんな一部始終を見ていないあの少年に、一体どんな説明をしたのやらと…好奇心もないではないまま訊いてみると、
「ああ。」
 気安く応じた友人は、だが、
「………。」
 何にか気を取られて、返事を後回しにした。珍しいことだと、その関心の先を見やれば、見覚えのあるキジ柄の仔猫が、ブロック塀の上を"たたた…っ"と駆け抜けて行ったのが見送れて。
「あれって、昨日の猫か?」
「ああ。」
 頷いた進は、だが、ふふ…とそれはそれは判りやすく小さく微笑った。
「…進?」
 この男にはめずらしいこととて、ついつい不審げな声をかけてしまった桜庭であり、
「なに、小早川に見えたもんでな。」
「進〜〜〜?」

   はた迷惑さ加減は相変わらずでございます。




  〜Fine〜   03.2.17.〜2.20.


   *バカップル話、その2。
(笑)
    若いうちはね、新陳代謝が良いから
    きれいに消えるんですよね、多少の擦り傷は。
    年齢がいくと消えないんだなぁと思い知ったのは数年前。
    いや、それがヒントになってるお話ではないんですがね。
(笑)


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