アドニスたちの庭にて キッチンキッチンvv”
 


 都内の少しばかり郊外に当たる閑静な住宅街の奥向きに、一体どのくらいの資産価値があるのだろうかと仰天したくなるような、広大な敷地にて広がる学園がある。幼稚舎から大学院までの一貫教育を謳った歴史の古い私立の名門校で、歴史がある割にちょこっと毛色が違うというか…ミッション系の男子校だという点も珍しいっちゃ珍しい。戦時下ではさすがにある意味"禁制"が敷かれてしまったか封鎖されていたそうだが、今や再興も華々しく。旧家の跡取りや政財界の大立者の御曹司、有名芸能人の子息たちなどという有望華麗な方々のお顔も、キャンパス内には珍しくないとかで。殊に高等部の人気は大したもので、卒業生たちの各界での個性豊かな活躍ぶりが広く伝えられるとともに、ここの濃紺詰襟という制服姿はそれだけで様々な場面でのステイタスになるよになった。そんなせいでか、外部からの途中入学者も少なくはなく、温室育ちがのほほんとしているばかりではない、なかなかに風通しもよくなりつつある学園であるらしいのだが、それでもね。ここならではのあれやこれや、しきたりやら風習やらにもユニークなものが少なくはなくて。中でも、これはあまり外部には漏れていない風変わりな伝統に"絆の誓約"というのがあって。どこか頼りない後輩さんを見初めた上級生が"僕が守ってあげましょう、判らないことは教えましょう"と、学内での"お兄様"になってくださるお申し出。無論、ご指名を受けた下級生の側が断るのも自由だし、脅しや無理強いなどという伊達でもスマートではないやり口なんぞを繰り出せば、なんとOBの方までかつぎ出されるそうなので、そこまでのいやらしくも醜い騒ぎにまで発展した例はないそうだけれど。異性の別という垣根を越えて…というのも何だか妙な言いようだけれど、男の子同士なのに好いたらしい相手が出来てしまうことへの理解があるというか、それとも"そういう誤解"を生まないようにと先んじて宣言しておこうという制度なのか。ともあれ、女の子との交際だって節度のあるものならさほど目くじらを立てられはしないだろう、今のこの開放的な御時勢にあっても、しっかりと現存し継続している、なかなか可愛らしいしきたりであるのだそうで。


 ………で、このお話の主人公さんたちも。その絆が縁で"お兄様と弟"という誓約を結んだ、ちょこっと不器用さんなお二人であり。そんな彼らを中心に、明るく楽しい充実した学園生活を送っている皆様の、その模様を時々覗かせていただいているのがこのシリーズ。さてとて、今日は一体どんな一日を過ごしているやら………。






 各学部は一応のこととして高い鉄柵にて敷地を分離されており、届けと許可のない限り、お互いの校舎や施設への行き来は厳禁とされている。高等部だけ下の学部とは制服が異なるのも、義務教育ではないがための奔放さに憧れての悪戯者の侵入や紛れ込みを防ぐためだと言われているほど。ここの一貫教育は余程のこと穏やかだからか、鷹揚なまでに余裕のある気性を育ててしまうらしくって。それはそれは溌剌となさっていらっしゃるお兄様方が、後輩さんたちには殊更に眩しい存在でもあるらしい。

  "…ボクもあんなして、こっちを時々覗いてたよな。"

 中等部との境、丁度、それぞれの学部専用の二つの校庭を区切る境界線のようになっている鉄柵の端の隅っこには、何人かの下級生さんたちがこちらの様子を伺うように張りついている。実のお兄さんがこっちの学舎にいる子だとか、大好きな先輩さんが高等部にいるので気になってという子がついつい集ってしまう場所であり、こっそりとファンクラブまであるような先輩さんも少なくはないから、ここの賑わいもなかなか収まりはしないのだとか。殊に、昨年は今の生徒会を固めている顔触れが揃って進学したものだから、彼らを慕うシンパシィたちがなかなか賑やかだったのを覚えている。セナも時折、クラスメートに引っ張られてのお付き合いですと見せかけて、ずっとずっと大好きだったお兄様の姿が見られぬものかと張りつきに来たものだが、

  "こっち側に回ると判るんだよね。"

 余程の事情があってという場合でない限り、高等部の生徒はここにはあまり近づかない。下級生を煽るような行為はよろしくないという注意が先生方から下されるし、校舎の窓から丸見えな場所でもあるので所謂"衆人環視"の下という環境。よって、どこか自惚れていらっしゃる方ででもなければ、そうそうは寄りつかないというもので。何か…例えば弟さんとの待ち合わせの約束がある場合などを除いて、高等部のお兄様方は単なる通過以外でここには滅多に近寄らない。ちょっと考えればそのくらい判りそうなものなのに、

  "それでも、ね。////////"

 期待してしまうのも、判るような気がする瀬那だ。逢えなくてもいい、遠目にでも見えないかなって。自分が進学するまでのあと1年を我慢するのって結構歯痒くて、それでつい。遠目に背中が見える程度でもいいからって、ついつい来てたなと。校庭の端っこに目隠し代わりに植えられた木立の陰に腰を下ろして、フェンスへ鈴なりになっているブレザー姿の中等部の子らを見るともなく眺めていたら、
「どっちが見物されてるやらだな。」
 頭上からそんなお声が唐突にかかって、あややとびっくり。細っこい首条をのけ反らせて見上げれば、降りそそぐ目映い木洩れ陽の中、金色の髪がキラリと光って。
「蛭魔さん。」
 相変わらずの神出鬼没。いつだって一人で飄々と敷地内をぶらぶらしている、謎めいた麗人として有名な人だが、実は実は生徒会の隠密さんでもあって。彼自身は高等部への受験をした"中途入学者"なので、中等部の事情や何やにはとんと蓄積もなく、ああやってこちら側を覗く子たちの心境が今一つピンとは来ないのだとか。
"…でも、蛭魔さんが目当ての子たちも少なくはないんですよね、これが。"
 くっきりと切れ上がった目許に細い鼻梁、肉づきの薄い口許という、刃物のように鋭角的な印象が強い容姿に、つんつんと尖らせた金髪と、前の合わせをはだけて着崩した制服という威嚇的な態度が相俟
あいまって、一見すると喧嘩っ早くて怖そうな、いかにも揮発性の高い"不良"というイメージばかりが強いものの。淡灰色の瞳に するんとなめらかで色白な肌は何とも蠱惑的な要素だし、撓やかな痩躯と知的で品のいい所作に、怖いは怖いでも 怖いくらいに整った面差し…という解釈を持って来れば、十分すぎるほど華やかなまでに妖冶な人でもあって。だから。鈴なりになっている中等部の子たちの中に、さりげない風情を装いながらこちらへと注目している一群があるのがセナにはありありと判るし、その面子の視線がセナへも…敵愾心という鋭さで向けられてると判って、知らず"とほほ"な苦笑が洩れもするのだが。それはともかく。
「こんな隅で何やってる。」
 高等部の詰襟制服が浮いて見えるほどに、一際小柄で愛くるしい面立ちをした一年生の小早川瀬那くんは、ご本人は無自覚らしいのだが、これで随分と人気があって。入学直後は彼の"お兄様候補"たちが秘かに牽制しあって、ただならぬまでの不穏当な暗雲が垂れ込めかかったくらい。結局は、剣道部の猛者であり生徒会副会長さんでもあるという偉丈夫さんがその座に着いたことで事態も収拾したのだが、だからと言って油断は禁物。こうまで可愛らしい子だものだから、未だに彼を愛しいと思う未練めいた想いの冷めやらない一派もあるらしい。よって、隠密さんとしては一人でふらふらしているのを見かけるとつい、周囲への牽制も兼ねて声をかけるようにしているのだとか。そんな気遣いを受けている小さな後輩くんは、
「次の授業が美術で写生なんですよ。」
 琥珀色の眸をやわらかく細め、屈託なく笑って見せて、
「いつもモン太く…雷門くんとジャンケンして、絵の具箱とか持って来る当番を決めてるんです。」
「で、今日はお前が勝ったんだな。」
 くすくすと笑う先輩さんへ、嬉しそうな笑顔のままに頷いて見せるセナであり、
「まあ、いい。それよか伝言だ。」
 蛭魔は自分の用件の方を思い出したか、制服のズボンのポケットに両手を突っ込んだままで少ぉし上体を傾けると、小さな後輩さんへ伝達事項をすらすらと伝えた。

  「明日は土曜だが、生徒会首脳部の集まりがある。
   決済確認のための月例会議みたいなもんなんだが、
   もし都合が良ければ、お前さんも"緑陰館"へ遊びに来なってよ。」

 セナは正式な生徒会関係者ではないのだが、お兄様にあたる方が副会長さんなため、彼らの集まりにも特別にお邪魔させていただいている。本当ならそういう公私は別にすべきなのだが、彼の場合、お兄様との誓約に漕ぎ着けるのにあたって、現生徒会の皆様にも随分とご尽力いただいた形になったため、その流れから"生徒会のマスコット"扱いも受けており。彼が初代となって、これからの代々の生徒会首脳部には可愛らしいマスコットがつくのが定例になってしまうのは後年のお話だが、それはともかく、
「決裁書の読み合わせと事実確認の刷り合わせ程度で、大したことはしねぇと思うんだがな。」
 今日はその副会長さんの進さんが、剣道部の大会のために朝から公欠。執行部の高見さんも、御用があってお昼から早退なさったそうで。ところがところが。諸費用の銀行決済の関係で、来週の頭までに最寄りの銀行の窓口へ提出しなくてはならない決済案件が1つだけ漏れていたことが今朝方発覚し、それで緊急の休日集合となったらしい。
「はい、判りました。」
 何というお手伝いも出来ませんが伺わせていただきますと、お行儀よくお返事をして、恐持てがするが実はお優しい先輩さんに会釈したセナだった。


   そしてそして………。





            ◇



 高等部生徒会棟となっている"緑陰館"は、その昔、美術か音楽なんぞの専門教科用の教室と教授控室を兼ねてた棟だったらしくって。二階は広々とした陽当たりのいいフロアが1部屋だけ、一階には小さな準備室とお手洗いと給湯室とがあって。給湯室には小さなガスコンロもあったりするので、簡単な調理くらいなら出来なくはない環境ではあるのだけれど…。

  「進さん、大丈夫ですか?」
  「………。」

 大きくて頑丈そうな手が掴んでいるのは、テフロン加工の真新しいフライパンの柄。まるでテニスラケットのガットの調子でも確かめるかのように、その裏表をぱたぱたと返してはあちこち眺めやりつつ、いつもの鉄面皮…もとえ無表情でいるのが、セナくんの愛しいお兄様である進清十郎さんで。ポプラの若々しい青葉が風に揺れ、その木洩れ陽を浴びてきらきらとスレート屋根が鈍く光っている緑陰館の一階給湯室に、生徒会首脳部の3人とおまけの二人が全員集まっており、只今、いきなり持ち上がった一種の罰ゲームが始まるところなのだとか。学校がお休みな筈の土曜日に登校して来ての打ち合わせという予定の日だったのに、面子の中でも最も生真面目な進が、珍しくも30分ほど遅刻して来たがため、

  『おやつに何か作ってもらおうかな。』

 なんてなことに話が盛り上がってしまったのだ。学園の敷地の中には、大学生の方々を一応の利用対象にした随分と大きな生協さんの店舗もあるのだから、お弁当やおむすびから、スナック菓子にコンビニデザートまでと、様々なおやつもそこで買えるのに。なんでまた そういう話になっちゃったのかなと、お話の展開がよく判らなくって小首を傾げていたセナくんへは、
「これまでにもね、窘めの意味合いからやってたことなんですよ。」
 実はねと微笑って説明してくださった高見さんのお言葉へと続けて、
「そうそう。これまではずっと、会長さんばっか、やらされてたんだよな。」
 ふふんとばかり、こちらさんはちょこっと…その艶麗な目許を眇めて意地悪そうに笑った蛭魔さんであり、
「真っ黒に焦げたポップコーンとか、生焼けのお好み焼きとか、えらいもんばっか食わされてサ。」
「ふ〜んだ。」
 どうせそっち方面では不器用ですようと膨れた桜庭さんご本人だったが、その長い腕の輪っかの中にはしっかりとマスコットのセナくんを就縛したまんまでいて、
「さあ、あまり眺めてると集中出来ないだろから。」
 二階で待ってようよと他の二人を促した。
「うう…。」
 自分も少しくらいなら、あのその、お母さんを手伝ってお台所に立ったりもするので、何かお手伝いがしたいですと。そうと言ったセナくんだったが、

  『それでは"罰"にならないでしょ?』

と一蹴されてしまった辺り、一体誰への罰ゲームなのやら。汚すといけないからと詰襟制服は二階にて脱いで来た、白いシャツに包まれた大きな背中をただ一人置き去りにして、元いた執務室へと踵を返す残りの面々であったものの、
「そうですねぇ。出来たもの、ボクたちが食べるんですしねぇ。」
「だよなぁ。」
 いや、そういう意味で言った訳では…。
(苦笑)
「中等部でも家庭科の調理実習で、粉吹き芋をマッシュドポテトにした人ですからね。」
 あの、茹でたジャガ芋を蓋したナベの中で転がして、水気を飛ばして仕上げるお芋さんでしょうか。進さんたら加減を知らなかったんですね、そんな頃から。
(笑)
「仕方がないからお弁当のハンバーグをほぐして混ぜて、食パンを買って来てパン粉にして、それでコロッケを作りました。」
 そんな付け足しを話してくださった執行部の部長さんであり、
"…それはそれで物凄い応用ですけれど。"
 ホントにね。
(笑) 給湯室から離れつつ、好き勝手なことを言って苦笑し合っている高見さんや蛭魔さんへ、
「大丈夫だってば。あれでもね、実は結構器用な方なんだもの。」
 先に古びた木製の階段に差しかかっていた首謀者の桜庭さんが、くすすと楽しそうに笑いつつもフォローのお言葉。お友達だからではあろうけれど、その言いようが何とも自信に満ちてたものだから、

  "…え?"

 セナには妙に引っ掛かる、意外な一言に聞こえたのだった。










 お二階に上がって、執務室であるお部屋の真ん中の大きなテーブルに、桜庭さんの言うお話の続きを聞こうとそれぞれ着座した皆さんであり。セナくんだけはお部屋の隅に置かれた冷蔵庫に足を運んで、氷と買い置きのアイスコーヒーのペットボトルを取り出すと、グラスを用意してそこへとそそぎ分け始める。今日は朝からお天気もよく、着いて早々に罰ゲーム騒ぎになってしまったので、皆さんも喉が渇いていらっしゃろうと思ってのこと。からら・んと、大きめのクラッシュアイスがグラスの中で躍る音が何とも涼やかで心地良い。一応のストローを用意して、ガムシロップとフレッシュの小さなパックと一緒に。お盆の上ばかりを凝視しながらテーブルへと運べば、よく気がつきましたねと高見さんが優しく笑ってお盆を受け取って下さり、それぞれの前へと手際よく並べて下さった。セナくんもテーブルに着いたのを確かめてから、さて。まずはとフレッシュをそそいだコーヒーで喉を潤してから、桜庭さんが言うには。

  「初等科時代の…まだ三年生くらいの頃だったかな。」

 何にだか臍を曲げてしまい、先生にも家の人へも何も告げぬまま、お昼時にとっとと学校から帰ってしまったことがあったのだそうで。けれど予定外の時間への帰宅だったのと、まとめ買いの日だったのと、メイドさんたちの行きつけの美容院とオープンカフェの感謝デーという色々なタイミングが重なってしまってて。
「本当に間が悪くてね。お勝手に通じてる人が一人もいないわ、覗いた冷蔵庫にもパントリーにも"作り置き"とか買い置きものとかが何にもないわで。何か準備しますからってしばらくお待ちくださいって言われたのへ、お腹が空いたようって駄々こねてたら、一緒に帰って来てくれたあいつが台所に立ってって、ホットケーキ作ってくれたんだ。」
「…ホットケーキ。」
 食べる方でも寡欲なあまりに、料理というジャンル自体がどうにも重ならないあの進が、しかもそんな可愛らしいカタカナのお菓子を作っただなんて。
"まだ、五目散らしとお吸い物を作ったって言われた方が、印象ってところで納得が行くような気がするんだが。"
 蛭魔さんてば正直な…。
(笑)
「勿論、本格的なんじゃなくってサ、市販の"溶いて焼くだけ"のミックスってやつだったんだけれどね。」
 たまたま奴のお姉さんが何日か前に焼いてくれたんで覚えてたんだって言ってサ、と。桜庭さんはクスクスとやわらかく微笑って、
「今ほど背丈だってなかったし、何より今以上に不器用な奴だったからサ。調理台もガス台も随分高くて届かなかったろうし、説明書を見ながらで手も遅かったけど、台所を粉まるけにして踏み台を上り下りしながら頑張ってくれてサ。ちょっと焦げてたけどね、結構美味しかったよ。」
 懐かしそうなお顔をして見せる。
「それに、お腹が膨れてからお説教されたしね。」
 桜庭くんがお臍を曲げちゃった"学校での気まずい展開"とやらも、そもそもはお前の我儘からのことだろうが、お前は本当に我慢が足りないって、そりゃあ くどくどと叱られた。大きな楕円のテーブルのいつもの席につき、決済用の資料を前に頬杖をつきながら、そうと付け足してしょっぱそうに眉を下げた生徒会長さんだが、

  "進さんのホットケーキ…。"

 いいなあ、そういうの。セナくんの気持ちはそこで引っ掛かったまんまだ。ホットケーキが食べたいって言うんじゃなくって。あの進さんが、やれやれとか仕方がないなとか、そんな風に思いながらも…自分から台所に立って何か作ってあげようって思ったっていうのが、何だかとっても羨ましくって。

  "ボクにはないものを、桜庭さんは一杯持ってるんだなぁ。"

 進さんとの思い出とか、進さんの言ったこととか、思わぬ拍子に見せてくれたろう、笑ったり怒ったりしたお顔とか。セナの知らないこと、一杯知ってる桜庭さんなんだなって思ったの。年が違うし、育った環境だって違う。進さんのお家は茶道の家元さんで、桜庭さんのお家とは古くからのお付き合いがあるのだそうで。それに引き換え、セナくんはこの学園に来てから進さんという存在と出会った訳で。スタート地点からして何年も遅れてる。

  "ふみみ…。"

 別にミーハーなシンパシィでもなければストーカーでもないんだから、何でもかんでも掻き集めて持っていればいいってもんではないのだし。日々のお付き合いで少しずつ、自分の感覚で拾い上げて得たものが一番の本物だっていう理屈も判ってはいるんだけれどもね。自分は知らない進さんの意外なお顔を、桜庭さんが当たり前の思い出として造作なく手に入れて知ってるなんて、ちょっと…ちょこっと悔しいかなって切なく思ってしまったの。………でもね、セナくん。あの仁王様は滅多なことでは"笑ったり怒ったり"はしなかったと思うのだけれど。それこそ、誰も知らないだろう"やわらかく優しく微笑う進さん"という存在を、あなただけが知っているのにね。それに、あなたの一挙手一投足の方をこそ、ずっとずっと見守っていて下さってた進さんだのにね。そんなこんなしている内、仄かに甘い温かな匂いが漂って来て、

  「お、出来たのか。」

 蛭魔さんのお声にはっと我に返ると、オーブンの天板らしきものをナベ掴みで胸の前に捧げ持つように抱えたまま、お二階まで上がって来たらしき偉丈夫さんが、開けっ放しの戸口で仁王立ちになっている。この匂いはやっぱりホットケーキかな、それにしてはオーブンというのがミスマッチではと、小首を傾げつつ駆け寄って、ドアをもう少し開いて差し上げれば、
「………。」
 すまないなというような小さな会釈を見せた進さん、天板を水平に保ちながら、体を斜
ハスにして中へと入って来て。そのまま、大きなミトンのはまった手で作品をテーブルのど真ん中へと無造作においた。

  「…え?」「おや。」「おお。」

 皆の前に並べられたのは、なんと蒸しパンだったから、これは皆様にもちょこっと意外で。カップケーキ風にホイルケースへ1つずつ小分けされてあり、膨らむ過程で自然に割れたのだろう真ん中が、しっとりフカフカでなかなかの出来な模様。
「箱の裏に作り方が書いてあった。」
 ホットケーキを焼いた時は焦げてしまったからなと、ぼそりと言った進であり。それを聞いて、
「…あ、そうか。」
 高見さんが何かを思い出す。
「こっちだと電子レンジで作れるんですよ、確か。」
 だから、フライパンの直火で焼くよりは失敗しない…と。
「…何でそんなことを高見くんが知ってるの?」
「いえね、先日ちょっと、お菓子の教室に…。」
 何というのか。趣味の広い、奥の深い人ですこと。………それはともかく。

  "………うわぁvv"

 ほんのさっきまでしょげかかってたセナくんも、どうぞと綺麗で小さなお皿へ取り分けていただいた可愛らしい蒸しパンさんにはビックリしており、

  "何か、食べちゃうの勿体ないな。"

 だって進さんの手作りなんだよ? さっきまで桜庭さんのこと、羨ましいなって思ってた手作りのケーキ。このままお家に持って帰りたいな、思う存分眺めてそれから、少ぉしずつ食べてしまいたいななんて思って、あっちこっちから矯つ眇めつ眺めていたら、
「冷めると不味いぞ。」
 いつものようにお隣りへと静かに腰掛けたパティシエさんが、そんな風に急かして来た。せっかく上手に出来上がっているのに、きっと…今時の小洒落たスィーツに比べたらいかにも素朴なディテールのものになったのが、何となく照れ臭かったのだろう。
「だって、何だか勿体なくて。」
 細長いカトラリー用の籐籠から小さなデザートフォークをわざわざ取っていただきつつも、そんなコメントを差し上げてためらって見せれば、

  「………。」

 すぐには意味が通じなかったのか、一瞬、動作が止まってしまった進さんだったが。

  「いつだって作ってやるから。」

 だから今は出来立てのうちに食べなさいって、大きな手でぽふぽふと髪を撫でて下さる。いつもの仕草だったけど、あのね?

  ――― あ。

 その手からもほんのりと、甘い香りがして来たの。剣道の道着が凄っごく似合う、精悍で凛々しくて男らしい進さんなのにね。バニラとハチミツの甘い匂いがするなんて。ちょっと似合わないけど、何だか…何だかvv 妙に嬉しくなっちゃったセナくんで。いただきますって小さな両手を合わせて、ふんわりしっとりの蒸しパンさん、美味しくいただくことにした。口に含めば柔らかなスポンジがほわりと軽やかにほどける、柔らかくてあっさりと甘い、これはもうもう立派なケーキでvv 進さんまでが作って下さるようになった日にゃあ、まだまだ甘いものからは卒業出来そにないなと、それはそれは嬉しそうに微笑ったセナくんでした。



  〜Fine〜  04.4.23.〜5.18.


  *日付がすごいですが、ずっとかかりきりだった訳ではありません。
   例の長編の山場が挟まったので、ついつい放り出してました。
   それにしても、一体どういうお題なのでしょうか。
   進さんとお料理…。
   どこから沸いたネタなのかが、
   どうしても思い出せない年寄りな筆者でございました。

ご感想は こちらへvv**


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