アドニスたちの庭にて

    “秋、深まりゆきて”

 


 何も人里離れた武道場でなし。耳を澄ませばどこからか…此処からは遠いグラウンドからのものだろう、学生たちの上げる掛け声だのホイッスルの響きだのが、途切れることなく聞こえても来るのだが。

  「………。」

 仄かに冷ややかでどこか素っ気ない、冴えた空気が張り詰めているのは、秋という季節のせいだろうか。いやいや、此処はいつだって、こんな神聖な空気に満ちていた。よくよく磨き込まれた板の間には、そのところどころにて。連子窓や開け放たれたままの戸口から射し入る戸外の明るさが、少し暗い湖の水のおもてに滲む月影のよう。当たり前のことながら、調度も何も置かれない空間が、ポカリと空いているだけの場所だのに。誰もいない時でさえ、どこか厳粛な静謐が感じられ、背条が伸びる気がする空間。ぴんと張り詰めた空気の中には違いないながら、今は中にいる人々があり。その大半が神妙にも息を呑んで見守るは、中央部に立つ、対戦中の二人ほど。匂い立つような藍の濃青に染め上げられた道着をまとい、勇ましい防具をつけた、同じくらいの上背がある人物が二人ほど。板張りの空間の中央で、どちらも凛々しく立ち上がったそのまま、向かい合って対峙しており。双方共に、じっと息をひそめたまま、相手の呼吸を読んでいたらしき構えのままだったものが、

  ――― こそりともしない静寂の中の、何が切っ掛けとなったやら。

 たん、と。まずはの踏み出しの足音が放たれ。そのまま流れるように、とたん、とたたた…と、厚みのある床板を軽快に叩くような、素足での足捌きの音がくっきりと立て続く。今を機と見切っての先に攻勢に出たのは、漆黒の面をかぶっていた側の青年であり、出遅れてのことか、それを待ち受ける側の青年は白い面をかぶっており、
「哈っ!」
 お腹の底からという勢いにて放たれた、鋭い気合いの一喝が、道場内を満たしていた静寂を一気に押しやぶる。真摯に真っ直ぐで、そして。あふれ出さんとする熱量を少々力任せな制御でもって、竹刀の切っ先へと集中させ切っている、その粘りある精神力の力強さが何とも見事な一撃でもあり、
「これは…っ。」
「ああ。」
 もしかしたなら。相手の間合いの“隙”という狭間
あわいへまんまと飛び込めたのかもと、だとしたならこれほどの誉れはないことぞと。周囲で見守っていた陣営の何人かが、先回りし歓声を上げかかった…のだけれど。

  ――― その瞬発的な閃きは、されど目に見えないという神の御技ではなく。

 相手が突進して来たものへ、同じ間合いでは動き始めなかった彼だったのは、決して虚を突かれて身が凍ったからではなく。一気呵成なその突進へも、微塵にも動じぬまま、至って冷静な眸を向けていたればこそのこと。迷いなく突っ込んで来た相手の構えた竹刀の切っ先が、いよいよの間合いに入りつつあったのへと合わせて、上段へ駆け上がらんとしかかった微かな気配を見逃さず、
「…っ。」
 少しだけ。本人も気づかなかったそれだろう、竹刀の切っ先の僅かなぶれを。そのままその方向へもっと流すようにと、手元を逆にパンっと軽く払いのけ、
「…っ?!」
 いきなり思わぬ方向へ、体のバランスが微妙に逸れたこと。そうだと気づいた時にはもう遅く。切っ先が流れたことへと釣り込まれ、肘が上がってしまって空いた脇腹の“胴”へ、僅かほど外へと払っていた切っ先を戻しがてらに鋭く叩いて、

  「…一本っ!」

 文句なしの“胴、一本”が決まり、先に取っていたものと足して、先に二本取った白の面の剣士の勝ち。監督兼任の部長先生の判定が下されると、道場内は息を吹き返したようになる。大声や歓声を上げる者はさすがにいないが、手に汗握るよな迫真の勝負を目の当たりにした興奮はなかなか冷めやらず、
「だぁ〜〜〜。」
「やっぱりなぁ。」
 先程ちょっとばかり沸き立ちかかってた見学組の後輩たちが、されどさほど悔しそうでもないままに、当然の決着への苦笑を見せた。
「とうとう学内では一本も取られずの無敗を通したな、進先輩。」
「大学部にだって剣道部はあるじゃんよ。」
「そだぞ? もっともっとの記録更新だ。」
 めいめいの立ち位置へと戻り、一礼を交わして陣列へと戻る。本日の練習のメイン。卒業を控えて部の活動から引退なさる、先輩たちの内から選抜されたる陣営と、来年度の公式戦・正選手候補たちによる立ち会いが、毎年の恒例行事として行われている最中の剣道道場であり。白騎士学園高等部剣道部の連勝伝説の立役者にして、昨年度から今日この時までの部長を務めてもいた三年生。進清十郎さんが、卒業組の“大将”を見事に務め終え、今は手慣れた所作にて防具をてきぱきと外しているところ。初等科時代から、いやいや、お家の伝手の知り合いの、合気道の道場に通い始めた頃からを数えたならば14、5年目にもなろうかというから、学校でのお勉強よりもキャリアの長い武道の嗜み。竹刀を扱う剣道のみならず、組み手の方でも勘の良さからずっとずっと評価は高いのだとかで。自分を語ることが極端に少ない人で、そのまま“自分”を押し出さない人でもあるけれど。それでもあらわになってしまう、十代とは思えぬほどもの重厚な存在感は、生半可ではない精神修養も必要とされよう本格的な武道に、真摯に向き合い、一途に打ち込んで来たからこそ養われたものなのかも知れず。今時には珍しいほど、一度に一つことしかこなせぬ不器用者には違いないが、それでも…一頃の極端なまでの“石部金吉”ぶりも、今は少しは改善されたか。髪をまとめる汗止めにと、頭にきっちり巻かれていた手拭いをほどいてから、やっとのこと、それと判りにくいくらいに小さく吐息をついた無敗の剣士殿。ふと流した視線の先、開け放たれたままだった戸口に…片側の壁へと身を隠しつつ、中をこっそりと覗き見ている小さな人影を認めると、

  「…。」

 判る人がたいそう限られる種の、小さな小さな微笑をその口許へと浮かべて見せて。その筋の関係者からは、剣豪とまで呼ばれることもある無口寡黙な黒髪のお兄様。きりりと引き締まった凛々しいお顔に、何とも柔らかな表情を浮かべて、高校生最後の正式な部活動、部長としての参加を終わられたのでありました。





            ◇



 秋一番の大きな行事、周辺地域へも評判の良い、別名“白騎士祭”と冠されたる、文化祭が終わったら。白騎士学園の高等部は、生徒会も各部活も、一気に新体制への転換期に入る。付属の大学部があってそのまま進学出来る学校だからこその、こんなにも遅い時期の交替劇なのだけれど、卒業していかれる三年生に思い入れの強い方々の多くいる瀬那にしてみれば、いろいろな格好での引き継ぎだの交替だのがあるたびに、ついのこととて胸に去来する想いも半端ではなく。十一月に入った途端に、まずはと次の生徒会の首脳部や役員を選ぶための選挙の公示があって。それからそれからあっと言う間に選挙当日。特に混乱もないまま、そんな人がいたんだと失礼ながら思ってしまった、文化部系の二年生が会長に選出され、副会長さんには何と…セナと同じクラスの甲斐谷陸くんが選出された。大好きな演劇部の活動で忙しいからって立候補はしなかったんだけど、行動派でお友達も多いところからの抜擢推薦で、そのまま票も容易に集まっての選出であり。部の活動が犠牲にはならぬよう、皆も頑張るし協力するからというお口添えを書記や会計の方々から掛けていただき、それで説得されての就任が決定し。執行部の方の役員もきっちり決まって、さあ前期の役員によりお役目の全権譲渡をという、新体制のお披露目を兼ねた“交替式”なるものが催され。全校生徒が整然と集まって着席していた講堂は、2年という長さと、それから…先生やらOBやらに全く頼らなかった“史上最強の生徒会”として語り継がれ、間違いなく学園史にも業績が書き残されるだろう、前・生徒会の陣営から、本日からの任命となる新規生徒会の面々へ。それぞれの役職の印である役員章と、堅い握手と励ましが送られた。一人一人が個性的で、存在感も只者ではなかった前生徒会の陣営に較べると、まだ二年生という顔触れの新規生徒会の面々は、少々ぎこちないやら頼りないやらという風であるのも否めなかったが、風格は実績について来るもの。このメンバーでならあっと言う間に、自分たちのことが遠い過去になるような、立派なお仕事をやってのけてくれるでしょうと桜庭さんが結んだことで、昨年の分、1年のブランクがあった“交替式”は華々しくも幕を下ろした。そして…、



「…小早川。」
 しょんぼり項垂れないようにって、頑張ってたつもりだったのにね。ぞろぞろと教室や校舎へ戻る人の波に紛れるようになって。心なしか重い足取りで講堂から出て来たところ、先に退出していた筈の、進さんの大きな手が腕へと伸びて来ていて。そうと判るよりも先にという手早さにて。攫われるみたいに掻い込まれてた。壇上からでも意識して見ていれば、三学年分の中の一人を注視するのは他愛ないことなのだそうで…と言っても、真っ先に気がついて下さったのは、桜庭さんだったそうで。交替式が一通り済んで、壇上から袖へと引っ込む段になってから、肘でお兄様のことを突きつつ、セナくんが…と話して下さったらしくって。今も、
「し〜ん。人の目があるの、わきまえなよね。」
 ちょっぴりとからかうような言いようをなさった桜庭さんが、でも、とっても優しく笑ってらして。いちゃつきたいなら あっちでやんなって言いたげに、上げた手の先、指先だけをちょいちょいって払うような素振りでもって、僕ら二人を追いやってしまわれて。それに従うように、背中に手を添えて下さった進さんに連れられて、そそくさとした足取りのまま、人影のない校舎の陰まで辿り着いてから、
「…ごめんなさいです。」
 小さな肩を落としつつ、セナはしょぼんと謝った。モン太くんにも、陸くんにも、今朝から、ううん、かなり前々から言われてたこと。これからも幾らだってこういう機会はあるんだぞって。三年生が、進さんがもう卒業されてしまうんだなって感じるような行事とか場面とか、数え切れないくらいにあるぞって。そのたびに、お前がぐずぐず泣いたりしょげたりしたら、進さんの方だって気にするんじゃないかって、ずっと注意されていた。………桜庭さんが後になって、それはないないと言い切りながら、顔の横手で思い切り手を振って否定してらしたけど。
(あっはっはっvv) けどでも、やっぱり。心配はなさったらしくって。
「………。」
 俯きがちになった小さな弟くんを、何にも言わずに引き寄せて。長い腕で掻い込むようにして、そぉっと懐ろへと入れて下さった。衣替えした制服の、サテンの生地はつややかで、頬が触れるとちょっぴり冷たかったけれど。そのままじっと掻い込まれたままでいると、どんどんと暖かくなって来る。風に当たらないからじゃなく、間近になった進さんの、もっともっと傍へおいでと、抱き込めて下さってる気持ちが直に、頬へお胸へ伝わって来るから。整髪料も化粧水も、何にも使ってはいないと前にも言ってらしたけれど。どこか精悍で頼もしい、男の人の匂いがしてね。セナくんの小さな小さな上背を、すっぽりとくるんで下さってる腕が、そりゃあもうもう心強くて。

  「…落ち着いたか?」
  「はい。////////

 あのね? 今日はね? 一昨日の剣道部の引き継ぎの時みたいには、泣かなかったでしょう? いくら仰々しく見えても、今日のはただの形式だからって。どうせ恐らくは卒業式間際のぎりぎりくらいまで、不慣れな新会長だの俺だのが“判らないことがあるんですけど”なんて言うのへ、進さんも桜庭さんも、引き継ぎ作業にって緑陰館へ御足労いただくことは必至なんだしって、陸くんが言ってたんですよう。それとボクにも色々と、進さんたちのお仕事を傍で見ていて覚えてる限りのこと、いっぱいいっぱい訊くからなって。知恵袋として働いてもらうから、マスコット役も返上とか思ってたら甘いんだぞなんて言われちゃいましたし。頬を真っ赤にしたままで、恥ずかしそうに話す子の。懸命なものであるが故の、相変わらずにどこか稚
いとけない口調や仕草が…何とも切なく、愛惜しくって。
“………。”
 この武骨なばかりな自分にも、そんな繊細な想いをむず痒くも把握出来るようになろうとは。もっとずっと小さかったセナを、ずっとずっと見つめて来た。自分のような口べたで気の利かない朴念仁が傍に寄っても、映えはしなかろう、セナにも窮屈に違いないと。そうと思って、ただ遠くから見ているだけで良かったのに。

  「………あ。////////

 今は、どうだろうか。この腕の中に収まって、こんなにも間近にいる彼が。それは真っ直ぐに自分を見上げてくれていて。
「剣道部の方が、自主トレだけになったからな。これからは放課後もずっと長いこと、一緒にいられるな。」
「あ、えと。………はい。////////
 黄色いイチョウの葉を容赦なく舞い散らかす、無遠慮な風から庇ってやりがてらに、そぉっとそっと抱きしめれば。彼の側からもぎゅううっと、彼の精一杯の力でもってしがみついて来てくれて。

  ――― こんなにも幸せであって良いものか。

 胸の奥の深いところが、じんと甘く疼くのが擽ったくて。こんな曖昧で取り留めのない気持ちや感情には、一向に慣れがないものだから。戸惑うような眸を向けたれば、愛しい少年もまた、おどおどとしつつも…こぼれ落ちそうな瞳を甘く潤ませるばかり。







  「浸ってて良いんだよ。
   そんなくらいの甘さは、世間では“ささやかな幸せ”ってやつだからさ。」

 おおう。いきなり割り込んで下さったのは、今の今から“元・会長”さんの桜庭さんでございまして。彼の名誉のために言葉を足しますならば、何もこっそりと彼らの睦みを覗いてた訳ではないので、念のため。何だか物凄く初心
ウブな思念がふよふよと、こちら様は逆にちょいと苛ついてて尖ってたところへキャッチ出来たものだから、それでと投げ出すようなコメントを述べてみたまでのこと。
「大体サ、進やセナくんはまだ良いさ。卒業するったって大学の校舎も敷地もすぐお隣り同士なんだから、何だったらお昼休みに大学の生協や“キッチンラウンジ”で待ち合わせとか出来るじゃないか。」
 ちなみに“キッチンラウンジ”というのは、大学部の敷地内にあるレストランのことで、生協と同様に、高等部の生徒も利用して構わないこととなっている。別に遠く遠くへ離れ離れになる訳でもないくせに、こんな些細なことにまで、いちいちナイーブになってる彼らだけれど。本当に慰めてほしいのは…どうかするとこっちの方なんだからねと言いたげで、
「あのな…。」
 しかもしかも、何もか弱きセナくんへと向けて、そんな愚痴を言いたい彼ではなくて。正々堂々、ぶつけたい相手へ真っ向から投げつけてた桜庭さん。その御前には…当然と言いますか、相変わらずの金髪頭を挑発的にも過激に尖らせた、こちらさんも自動的に引退なさる予定の“元・諜報員”の蛭魔妖一さんが座っておられる、此処は…彼らが正式に立ち入るのは今日が最後となる緑陰館のお二階であり。さっきまで居た講堂からとっとと撤退して来たところが、執務室に先客としていらっしゃったのがこのお兄さん。かったるい式典なんぞ、退屈だからとサボタージュなさってたらしく。進さんとセナくんたちと同じような格好にて、春を境に一応の“お別れ”となる自分たちなのに。全く全然神妙ではない恋人さんの態度には、いくら寛大でおおらかな性格で売っている
(?)春人さんでも、堪りかねちゃうぞという想いが多少はつのったらしく。それでの愚痴をぶつけたところが、

  「そうそういつもいつも、べったりと一緒にいるとな、すぐに飽きるぞ?」

 些細なことが鼻についたり、相手が思い通りになんないことがあまりに重なって、すぐにも苛ついたりするっていうぜ? それか、あまりの拘束されまくりに辟易して、すぐにも嫌気が差すとかな。ふふんと笑って言い切った、そのお顔がまた憎たらしいほどにも…眇めかけた目許といい、ちょいと斜めに向いたお顔の向きといい、そりゃあきれいに決まっていらしたもんだから、
「う〜〜〜。///////
 こんな綺麗で、しかも気丈夫な小悪魔さんに、みっともなくもすがって“しつこいぞ”と嫌われたらどうしようか。そんな逡巡が沸いたと同時、
「距離感があった方が良いんだよ、俺らみたいなタイプ同士は。」
 とどめの一言をいただいて、それ以上は食い下がってくれるなと言ってる君だとの判断の下、
「どうせ僕は独占欲が強い男ですよ〜だ。」
 テーブルの上、へちょりと突っ伏すと、せめてもの抵抗だろうか、拗ねたような言い方をなさった桜庭さんだったけれど。


  “何も奴の側のことばっか、あげつらってた訳じゃないんだがな。”

   ――― おや。


 日に日に精悍な青年へと眩しいくらいの魅惑や余裕をその身の内へと育てつつある、懐ろ深い君だから。そして、こんなにもひねくれものの自分なんかへ、いつだって優しい君だから。それに溺れてしまうのが怖い。冷ややかな態度の似合う麗人との評とは裏腹に、実は実は、そんな気持ちをこっそりと。甘酸っぱくも擽ったいまま、胸の奥にて転がしている、きっちりと対等な“両想い”なの、けどでも癪だから隠してる可愛い人。窓の外を吹き抜けてく風は、もうもうめっきりと冷たくなりつつあるのにね。ここいらでは時折、春の日和もかくあらんというほどの、ほかほかと優しい空気が沸いて出ている模様でございます。暖冬でなくても、インフルエンザが猛威を振るっても、此処だけは十分大丈夫、かもですね?
(苦笑)





  〜Fine〜  05.11.14.


  *中編連載が挟まってたお陰様で、
   本年度は夏休みの彼らを全然書けなかったですね。
   あっと言う間の引き継ぎ云々話でございますが、
   まだ4カ月ほどあるんだから、セナくん、しっかりしなってばvv

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