夏隣り

 
  さわ…っと。

 風の先触れの気配があって。それに続いたのが"ざ…っ"という、急な雨脚のような音だったから。音のした方をつい見やれば、庭の一隅、若葉をまといつけた小さな桜の梢が波打って、まるで鞭をふるったように撓
しなって見えて。
「………。」
 明るい窓辺近くから透き通った陽射しがふんだんに躍り込む居間には、少しばかり開けた大窓からその涼風もまた時折そよぎ込む。ここ数日、ともすれば汗ばむほどのいい陽気が続いていて、それで開けておいた窓なのだが、そこからそよぐ悪戯な涼風は、窓の端に束ねて寄せたカーテンを揺らしたり、壁掛けの月めくりのカレンダーを悪戯したり。それからそれから…向かい合う人の漆黒の前髪をかすかに揺らしたり。
"………。"
 その度に何だか…胸の奥で何かが小さく騒いだりするような気がして。
"………あやや。/////"
 ソファーにちょこんと座って、ふかふかダウンの大きなクッションに埋もれた小さな肩を窄
すぼめつつ、ちょこっとばかし落ち着けない瀬那くんだったりするのである。小早川さんチの居間のローテーブルを挟むようにして、セナと向かい合ってソファーに座っているその人は、進清十郎さんといって他校に通う先輩さん。部活のアメフトつながりでお知り合いになれた"全国レベルの有名人"だが、そんなことは今の彼らには関係がない。フィールドの外で逢う身には特に。背が高くて雄々しくて、ちょっと気が利かないところもあるかなという青年と、小さくてよく気がついて、笑顔の温かい愛らしい少年である彼ら二人は、仲がいいお友達…より もうちょっと親しいかな? という間柄に違いない筈だのに。時折セナくんの方が、世間様からの青年への評価というもの、思い出しては背条を正したり、二人の間に見えない垣根でもあるかのように怖じけることもなくはなかった。そんな風に萎縮されるのが、進さんには当然 戸惑いの元ならしく。過ぎるほど謙虚というのか萎縮しがちな少年へ、最初は彼の側もどうして良いやらと戸惑っていたものが、その度に大きな手を差し伸べてくれるやさしさを身につけた。今はね、君しか見てはいないよと、眸を和ませる進さんに、セナくんの方でも…卑下してばかりいないで、嬉しいと楽しいと正直になろうと素直に構えるようにもなった。そうやってお互いに少しずつ少しずつ、焦らないで少しずつ。一年かけてやっと"此処まで"来たほどに、なかなか可愛い進展ぶりを見せている彼らなのである。

  「………。」

 その進さん、今はやや伏し目がちになっていて、先程までセナくんが取り組んでいた数学の練習問題プリントの解答確認を続けているところ。これまでにも時々ご訪問いただくと、大概はそのまま2階の自分のお部屋に招き上げていたセナくんだったのだが、ベッドやデスクが据えられた今時の六畳間は大柄な進さんには少し狭かろうということで。昼間は両親ともに不在の"小早川さんチ"であり、だから構わないだろうと…今日はリビングにてお勉強を見てもらっている真っ最中。寡黙であまり自分のことを語らぬ彼だが、何かの拍子、あれは確か、待ち合わせの場でセナが宿題のプリントを広げていたところへ、それは分かりやすい助言をくれた彼であり、その後、彼の友人の桜庭が洩らしたのが、席次がかなり高いほどに、数学が得意な進だということ。体育は言うに及ばず、理数系はおおよそ完璧で、歴史や地理もまずまず、古文や芸術選択の"書道"も得意らしく、
『その代わり、現国や英語、あと家庭科なんかはさんざんだけれどね。』
 余計なことを言うなと、本人からコツンとこづかれていたアイドルさんだったのは余談であるが。それ以来、定期テストの前なぞはついつい頼ってしまうこともたまに。とはいえ、今回はセナの側から頼ったのではない。ちょっとしたアクシデントから学校そのものを1週間も休まざるを得なかったセナを案じて、進さんの方から買って出てくれた"家庭教師"であり、

  "………。"

 陽あたりのいい爽やかなリビングの窓近く。普段着のセナととっつかっつな、浅い色合いのTシャツ姿の。頼もしいまでの大きな肩や広い胸板の輪郭にまといつくは、陽射しの白を反射させたハレーション。

  「………。」

 いつだって 対している相手の瞳をじっと見る人で、こういう言い方はおノロケに聞こえるかもしれないが、自分といる時は大概こっちばかり向いている人なので。横顔とかこんな風な伏し目がちのお顔、セナにとってはそうそう見られない貴重な代物でもあって。

  "…睫毛、長いんだ。"

 軽やかに乾いた陽射しの中、彼のこういうお顔をこんなにも間近に見る機会は、全くない訳ではないが滅多にはないので、ついつい見とれるしそのまま見惚れてしまう。無表情というのよりは柔らかな、けれど無心な表情。大学ノートの1頁分くらいだろうか。どこか子供っぽい字で連ねられた数式たちを、一つ一つ丹念に確認しているお顔は、

  "………。/////"

 やっぱり素敵で溜息さえ洩れそうになる。切れ長で鋭い目許は、今は睫毛の陰になっているが…深色の印象的な眸がすっきりと凛々しくて。真っ直ぐ通った鼻梁はその線が案外細く、頬骨のちょっと高くなった大人びた鋭角的なお顔なのに、口許はそこだけを見ていると随分とやさしい造作。

  "やさしいって言うか、綺麗、なんだよね。"

 これを清冽というのか、きりりと引き締まって品よく形よく。口数の少ない人だから…たまに何か話すその時にたまたまじっと見つめてたりすると、何だかドキリとしちゃうこともしばしばで。

  「………。」

 かさり。そんな前触れの音がした後、テーブルに広げられた教科書の端がそよぎ込んだ風に叩かれて、パタパタと羽ばたくみたいに躍り始める。陽を透かす、紙の白。そんなページを咄嗟に、軽く押さえた進さんの大きな手の影が映って、

  "シャープペンシルがおもちゃみたいだな。"

 視線を少ぉし上げると、撫でつけず額へぱさりと流した真っ黒な前髪が、時折さわさわと揺れていて。身だしなみには"清潔に"以上の手をかけない人だから、きっと中学生くらいからずっと同じ髪形なんだろな。目許や頬に煩
うるさく掛からない程度に、ざくざくと刈っただけという感じの短髪で、ああ、また、いい匂いがするや。すっきりして、なのに男の人っていう感じのする頼もしい匂い。整髪料とか何も使ってないって言ってたから、これって進さんの匂いなんだな…と、そんなこんな考えていたら、

  「…かわ。小早川?」
  「え? …ああっ。は、はいっ。」

 いつの間にか、確認を終え、視線を上げてこちらを見やっていた進さんだったらしくって。ぼんやりと見とれて…惚けていたセナくんは、慌てて我に返ったというのがありありなお返事をした。

  「………。」

 恥ずかしそうに肩を縮める少年に、だが、彼が何に気を取られていたのかには触れぬまま。さっぱり気づいていないのか、それともそんなことへの詮索は苦手だからか、それへは何も訊かぬまま、プリントの向きを変え、自分が一通り確かめた解答の中、気づいたことを、二、三、注意し始める。いくら得意分野だとはいえ、今現在の授業で取り掛かっている範囲とまるで違うなら、思い出すだけでもなかなかに面倒なものだろうに、進の教え方は無駄がなく分かりやすい。途中式の展開の仕方や応用、長文問題の把握の仕方などを、要約しつつ言葉少なに説明し出すその声に、最初はきちんと集中しているものが、またまた…時々ほやりと聞き惚れる。言葉への集中が途切れて、音として聞き惚れてしまうほど、深みのある響きの良い声に、気を取られては…慌ててぶんぶんと髪を揺さぶるようにして正気に返るセナであり。
「…少し休むか。」
「あっ、えと…。」
 不審な行動を"疲れたのだろう"と解釈されたようで。それは違います…と顔を上げたセナへ、寡黙なセンセーは…かすかに口角を上げて微笑って見せる。

  "あ、あやや…。/////"

 本当に時々。こうやってどちらかの家にいて二人きりの時だけ。進さんはほこりと…それは分かりやすく微笑ってくれることがある。すっかりと気を抜いていて、それで自然と滲み出すものなのだろうか。そんな希少な笑みは、気配がまたたいそう優しいものだから、唯一直視することとなるセナには………はっきり言って心臓に悪い。ドキドキが加速して、頬が真っ赤になって、肩や背中が硬直してしまい、どうして良いやら判らなくなる。

  「あ…。」

 そんな少年の、さやさやと揺れる前髪が落とす淡い影をどこか眩しそうに見やってから、ついと伸ばされた腕。そっと近づいて、指先がセナの猫っ毛に触れ、

  「えと…。」

 ちょっと伸びて来たから切りなさいってことなのかな。でもでも、その割にはやさしそうなお顔のままだし。そうこうするうち、視野の中、大きくて温かな進さんの手は、セナの前髪を掬い取って、そのまま長い指へとからめてしまうから。

  "ああ。"

 なんだ、ボクの髪で遊んでるんだと気がついた。自分がさっき進さんの髪やお顔に見とれたみたいに、陽に温められた髪を触ってくれることがよくある。指の間で挟んで梳いてみたり、くるくるって指に巻きつけてみたり。さわさわって、こんなにも優しく触ってくれる。あの"槍(スピア)タックル"の進さんが、だよ? 小さい子をあやすみたいに"いい子いい子"ってされてるみたいで…そう思うと、ちょっぴり楽しくなった。緊張に近いほどドキドキしたのもどこへやら。くすぐったくて"くすくす…"って微笑ってたら、

  "あ…。"

 少しばかり身を前へと倒して来た進さんで。顔が近づいて来て、さらりと前髪を上げられて、額の端、やわらかく触れた感触に、

   ――― どきん

 胸が躍る。そのまま、頬をすべって降りて来て………。








   "うっと………。//////////"


 テーブルなんて易々と越えられるだけの上背のある人なんだな。油断してたかな。こんな明るいところで、いつもお母さんやお父さんとテレビ観てるリビングで。大好きな人に…キスされた。風の悪戯で、手元でノートが"ぱたぱた・かささ…"とはためいてて。それをそうと感じてられるほどだから、あわわと取り乱してまではいないけど。

  "えと…。/////"

 そっと身を離して…平生のお顔のまま、平気そうなお顔の進さんがちょっと憎らしい。まだ頼りなくって風に遊ばれてしまう梢の若葉のように、何だかいつもいつも、自分ばかりが翻弄されていると思う。

  "ううう…。/////"

 進さんは大人なんだから、日頃から落ち着いてるから仕方ないのかな。///// でも、何だか…ボクばっかりがドキドキしてて。ドキドキするのは嬉しいんだけれど、進さんは? 進さんには何でもないことなんだろうか。仔猫が可愛いようなのと、お花が綺麗だって思うようなのと、同じような感覚でいるだけなのかな。だって、大人だっていうのは、動じないっていうのは、そういうことなんだしサ。だったら…ちょっとだけ口惜しいかも。真っ赤になってそんなこんな思っていたら、

  ――― え?

 ノートの真ん中、綴じ目が窪んでるところに寝かせてあった銀色のシャープペンシル。それをなかなか摘まめずにいる進さんだってことに気がついた。摘まみ上げて指先に挟みながら手の中で回す。ただそれだけの動作が、なのに…どうしてか出来ないみたいで。ペンが小さいからなんて理由は訝
おかしい。だって、ずっと平気だったんだもの。何度目かにぎゅっと掴んで、でもそのまま"赤ちゃん握り"をしたままになってて。

 「あ、そんな握ったら…。」

 軸が曲がっちゃいますよ? …って思ったくらい撓
しなってる。

  「???」

 お顔を見やると、ふいって脇を向いちゃうから………あれれ? あのその、もしかして。もしかして進さんも。ボクみたいに、ドキドキしてるのかな? そんな風に思った途端 ///// 何だか、また、お顔が熱くなって来て、

  「あのっ、お茶…とか、何か冷たいの、淹れて来ますね。」

 ぴょいっと立ち上がって、すぐ隣りのキッチンへ。逃げるみたいに駆け込んだ。冷蔵庫をバクンて開けて、市販のだけどアイスコーヒーのペットボトルを取り出して。冷たい手触りに やっとホッとする。ああ、何か、今日って暑い。きっともうすぐ春が通り過ぎちゃうからだろな。去年の夏はどうしてたっけ。ああ、そうだった。まだそんな親しくなってないうちに、進さんは合宿に行っちゃって…ちょっと寂しい夏だったんだっけ。今年はどんな夏になるんだろ。トレイに並べた2つのグラス。氷が躍る音をぼんやりと数えているセナくんからは見えないが、ちらっと覗いたリビングでは、進さんが大きな手で頭をほりほりと照れ臭そうに掻いているところ。少しくらいは進んだような、でもでも根本的には相変わらずなような。そんな二人に二度目の夏が、もうすぐそこまでやって来ていた、そんな昼下がりのひとコマでございましたvv



   〜Fine〜  03.4.19.〜4.20.


   *バカップル噺が続いております。
    開き直っての捏造三昧。
    春が異様に長い、本誌というか"原作"さんですが、
    最初の"夏"はどうやって過ごす彼らなんでしょうね。
    何だか興味津々でいる筆者でございます。


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