幕間B 〜ちょっとしたこと?
 

 まだ梅雨前だというのに、からりと晴れて爽やかな、まるで初夏のような好天が続いていて。進さんのお家の広くてきれいなお庭では、ツツジの茂みが鮮赤紫や白、淡緋と、それは艶やかな花に埋もれていて。それだけでなく、実は奥まった辺りに石南花シャクナゲが植わっているんだと、進さんのお部屋から見ていて気がついた とある日のこと。お庭に降りて、ちょっと高いところで ひらりんと開いていた、淡い緋色のオーガンジーみたいに綺麗な花びらのシャクナゲを見せてもらって。それから再び、お部屋に戻りましょうと玄関の框かまちを上がったその時だった。

  「清ちゃんっ! セナくんっ!」

 突然、鋭い声を掛けられて、へっ?とそちらを見やったのとほぼ同時。かしゃかしゃ・かつかつ…というどこか妙な、軽いもので板の間を出鱈目に引っ掻くような忙
せわしない音がした。そうして長い廊下の奥向きから飛び出して来たのが………。

  「あ。」

 小さな小さな褐色の何か。それを確認したのか、それとも掛けられた声への反応か。玄関から上がらせていただいたばかりな瀬那の前にいた、当家の総領息子さんが、
「………。」
 反射的に身構える。相手の大きさと高さに合わせてなめらかな動作で板張りに片膝を落とし、じっと対象を見据えて…絶妙なタイミングでその腕を伸ばしたものの、

  ――― え?

 そんな彼が素早く伸ばした大きな手を擦り抜けて、背後にいたセナの足元へぼすんとぶつかり、そこから"わしわしわし…っ"と慌ただしい様子で、脚から腹、胸元へまでと、素早く駆け登って来たのは、小さな小さな茶色の毛玉。やわらかくて、そのくせ元気が良くって。セナの着ていた少しばかり大きめなカーディガンの中へ飛び込むと、ふにふにふにっと闇雲に動き回ってくれる………1匹の猫だった。

  「んもうっ。なんて元気なんだかね。」

 それを追って居間の方から出て来たのが、短大生のたまきさん。先程、旅行に行くというお友達から2、3日の約束で預かった仔猫なのだそうで。まだ生まれたてで可愛くて、居間でお母様と"可愛いわねぇvv"とひとしきり眺めてから、さてミルクをあげましょうとゲージから出した途端に、たまきの手を振り切ってこちらへ逃げ出したらしい。セナを登った揚げ句、そのカーディガンの中にちゃっかりもぐり込んでた小さな猫は、だが、
「ごめんなさいね。」
と、声をかけてからすべり込ませたお姉さんの手に、
「あ、痛っ!」
 幼い爪を立て、果ては噛みつくばかりで、一向に出て来ない様子だ。まるで一端
いっぱしの籠城犯のよう。こらこら
「なんでなんで?」
 短い引っ掻き傷をもう片方の手で押さえ、なんて我儘な子なのようという言い方をするたまきさんだったが、
「たまきちゃん、あなた、香水つけてない?」
 見かねてかお母様が声をかけてくる。
「え?」
「仔猫に限らず、ネコちゃんはね、柑橘類の匂いが嫌いなの。」
 こんな小さい子ですもの、慣れてない匂いっていやがるのよと、とたとたと歩み寄って来たお母さんがはんなりと言って、
「ほら、セナくんにはこんなに懐いてる。初めて逢ったのに。ねえ?」
 彼女らが話していたその間に、そぉ〜っと捕まえてカーディガンの外。胸元へ肘をくっつけた片方の腕の上へ乗せ、もう片方の手で外側から支えて…という抱っこの仕方をしている、そんなセナの腕の中で。メインクーンらしき毛足の長い仔猫は、成程、打って変わってじっと大人しくなっているものだから、
「う〜〜〜。」
 そんなに嫌な匂いかなぁと、お姉さんは眉を寄せつつ口許を尖らせた。犬ほどではないが、それでも野生に近い嗅覚をしているネコですからね。ましてや苦手な種類ともなれば、幼いながらも警戒心が働いて、こんな大脱走を働いてしまいもしたのだろう。セナの小さな手からお母さんのやわらかな手へと、仔猫はそぉっと返されて。

  「………で。清ちゃん、どうしたの?」

 さっきからずっとずっと、廊下に片膝ついた恰好のまま、女性陣+セナの会話を見上げていたのが…清十郎さんである。途轍もなく上背のある彼がこういう位置関係にいるのは珍しく、
「あ、判った。こ〜んなお子ちゃまな猫に“槍
スピアタックル”が利かなかったからショックだったんでしょう。」
 可愛い仔猫が自分の匂いのせいで逃げ出しただなんて、ちこっとショックな事実を払拭したいのか、ちょいと眉を上げ、意地悪そうな言いようをするたまきに、
「これ、たまきちゃん。」
 お母様が傍らから少しばかり鋭く"おやめなさい"とお叱りの声を掛けるが。…ってことは、お母様も少しはそう思ったってことなのかも?
「ほらほら。ミルク、あげるのでしょう?」
「うん。でも、その前にシャワー浴びてくる。」
 好き勝手を言い放題して、お呑気なままにとたとたと、居間の方へと戻ってゆく女性陣を見送って、
「あの、進さん?」
 ホントに自分の反射が及ばなかったのがショックな彼だったのだろうか。あまりに咄嗟のことだったし、的としては小さすぎる仔猫だったのだし。何より…今は試合中ではないのだし、ここはフィールド上ではないのだし。それでも彼ほどの"アメフト馬鹿"人間ともなると、こういうことってそんなにも堪
こたえるものなのだろうか。余談だが、元日本代表にしてメキシコ五輪の得点王、サッカー解説者の釜本邦茂さんは、お家のダイニングのテーブルの足に蹴つまづいた時、こんなことでは もういかんと現役引退を決意したのだそうな。
「………。」
 相変わらずに、バリエーションの少ない…常の"無表情"からあまり変わらないお顔をしたままな彼であったが、
"でも、呆然としてるってお顔じゃないんだけれど。"
 おおお、さすがはセナくん。ちゃんと判別がつくんだね?
こらこら 声を掛けたセナの方を見上げた清十郎さんは、何とも答えぬままにそのまますいっと立ち上がり、少年の傍らの随分高み、いつもの位置へとお顔の場所を落ち着けた。足が長い人だから、ああいう姿勢から立ち上がると落差が凄くて……………あ。

  「…あ、そっか。」

 今やっと気がついた。そんなセナへと"んん?"というお顔をする進さんを見上げ返して、

  「さっきまでは仔猫がいたから…。
   だから、急に立ち上がって怖がらせちゃいけないって、
   ずっと屈んだままでいたんですね?」

 こんな大柄な人が、セナを筆頭に…たまきさんやお母様といった小柄な人ばかりの中に突然むくっと現れたら、やっと落ち着いた仔猫がまた興奮して駆け出すかもしれないと。そんな風に思ってじっとそのままでいた、やさしい人。そんな指摘へも、
「………。」
 無言のままに…でもでも瞳を和ませて、小さなセナの頭の頂上をぽんぽんと軽く叩いて見せるだけな進さんへ、
「えへへvv /////
 ちゃんと判った自分であったことと、やっぱり優しいんだなぁという想いと。それからそれから、これでも実はちょっと照れてる進さんなのが何だか可愛いと思えたのと。嬉しそうにくすぐったそうに、ほっこり笑うセナくんであり。二人して とんとんとんとお二階へと上ってゆくその後を…お勝手の刳り貫きの戸口に重なるようになって、こそっと見送った女性陣二人、

  「…凄いわね、セナくんて。」
  「そうね。今のはお母さんも気がつかなかったわ。」

 しみじみとしたお声のその後に、やはりしみじみ、お母様ったら一言。

  「セナくん、清ちゃんのお嫁さんに来てくれないかしら。」
  「…お、お母さん?」




  〜Fine〜  03.5.13.〜5.15.


  *こちらのお話には"猫"ばかりが登場しますな。
   本館の方で わんこのシリーズが始まったからでしょうか。
   男の子にはお元気な犬ですが、男の人には猫を配した方が、
   何だかムーディで そぐうような気がするのは、私だけですかねvv


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