「宮中でもこのようなものを使う輩がいるのだな。」
主人へにしてはぞんざいな口の利き方をする青年が、自分の肩越し、頭一つ分ほど背の低い蛭魔へと声をかけた。その長身にまとわせた黒装束はどこか風変わりで、漆黒の狩衣もやはり闇色の指貫も、貴人のそれのように膨らませてはおらず、隋身のそれのように動きやすさの方を優先してだろう、身に添うようにと引き絞られている。佩(かざりおび)には鈍く光る金物を連ねており、足元にはこれも風変わりな革の“沓(くつ)”を履くという、何とも異様な風体で。たまさか居合わせて目撃してしまった人々も、好奇心より我が身が大事か、そそくさと何も見なかった振りで帰途を急ぐ中、
「お前のように沸いて出る訳には行かんからの。この砂利の上を喧しく駆けて来ては、あっさり躱されるのがオチだろうが。」
だからの飛び道具よと、蛭魔がさも可笑しと笑って見せる。もしも動態視力が凄まじくいい者がじっと目を凝らして見ていたならば、この青年が何処からか足音少なく駆けて来たのではなく、足元の玉砂利の中…即ち“地中”から、ザザアァァッと瞬時に迫り上がって来たとんでもないシーンを目撃できたに違いない。しかもその全身が現れ切るより前に。その左手から伸びたる鞭の一閃が、飛来した矢を搦め捕ったという神憑りな技も披露しており、
「迂闊に触るなよ。鏃(やじり)が青いだろう? 蛄毒といってかなりの猛毒が塗ってある。」
物騒なことを言い出す術師の青年へ、黒装束の青年は、だが、さして驚きもせず。そのまま屈んで矢を足元の土へと突き立てると、軽く両手を叩いて払い、何事もなかったような顔でいるばかり。そんな彼へと小さく破願する蛭魔であり、
「律義なものよの。」
再び歩き出した金髪痩躯の青年の、少し後になった傍らを影のように付き従って来るこの者。その通り名を“葉柱”といい、蛭魔とちょっとした契約を結んでいる…実はトカゲ妖魔一門の頭目で。人間並みの知能もあれば、人間以上の能力も兼ね備えた異形の者。日頃は闇を住処とし、人とは交わらぬ魔性のものだのに。なのにも関わらず、この妖たる光を宿した瞳を持つ青年の危機には必ず参上するし、彼の出す命にも粛々と従う、平たく言えば蛭魔の“式神”である。術者が仮の生命や指令を守れるだけの知能を与えたる、紙や木、泥の人形やら、知能反射の低い生き物を指すこともあるが、能力の高い術師ともなれば、敵であるべき妖かしの存在へ語りかけ、咒や誓約にて下僕として隷属させることも出来るとのことで。一族の者がしでかした悪戯に、帝が兵を挙げかかったその確執、穏便に宥めてやるからその代わり、彼の代、彼自身にだけ結ばれた“服従”の誓約に付き合わされることとなった葉柱だったが、これでこの男がまた、ただならぬ騒動の渦中にばかりいるものだから、忙しいやら…退屈はしないかと実は密かに楽しいやら。とはいえ、それを“律義”と言われるのは少々承服しかねたか、
「俺としては、お前なぞさっさと逝(い)んで欲しいのだがな。」
ついつい放った憎まれだったが、当の蛭魔はと言えば、
「抜かせ。」
愉しそうに“くく…”と笑って全く取り合わない体でいる。そして、歩み寄った牛車へと軽やかなる身ごなしで乗り込むと、
「先に館へ戻っておいてくれぬか。」
車上からという尊大さで葉柱へと指図した。わざわざの言いようということはと、こちらもそこは呼吸を知り尽くしていて、
「判った。」
下僕にしては偉そうな応じで顎を引き、精悍なその顔が降りた簾の陰に隠れ切ったその途端、既にその大柄な姿を消していた彼であったが。従者たちはそれこそ見て見ぬ振りにて気にも留めず、足早に車を出して館への帰途についたのであった。
◇
敵が多い青年であるのは、これみよがしの護衛は立てない無防備さが却って相手を刺激してのことではないかと、見かねた桜花の東宮が提言したこともあったのだけれど。
『これもまた、退屈な毎日の中で唯一の刺激なのだよ。』
そんな言いようをし、余計な気遣いは無用ぞと特別の護衛の手配も丁重に断った蛭魔であったそうで。先日なぞは、やはり公けの仕事のうち、方位の障りがあるという公殿の立て直しの下見に出向いた帰り。月夜が陰った隙をついて、無頼の暴漢どもに襲われたこともあったのだけれど。震え上がった舎利(とねり)や牛飼いたちを牛車の陰へと匿って、自らが前へと押し出ると。その麗しき真白な手にて、すらりと抜き放ったる白刃の帯びたる光も艶やかに。不敵に笑った次なる瞬間、軽々と宙を舞って披露したる剣技の腕前の見事さよ。丸太ほどもあろうかという屈強な腕足をした大男たちを、右に左にあしらいながら、利き腕の筋を浅く斬っての脅しに止め、
『帰って雇い主に言うがよい。我を殲滅したくば、金を惜しまずもっと腕の立つ者を雇えとな。』
からから嗤(わら)って追い返した剛の者。どんな窮地や逆境に置かれても必ず勝ってしまう強運の主人であるものだから、家人たちもさして怯えなくなり、少なくとも今現在居残っているクチの雑仕や舎利たちには、ちょっとやそっとの騒動で浮足立つものはいないほど。一番新しい住人である、幼い書生の瀬那にしたところで、
「さようでございましたか。」
出先のしかも宮中で、突然に毒矢が飛んで来た話を先に聞いていたらしく。もっと細かく話せとやいのやいのと急っつくものだから、こっちも開き直って興に乗り、ほんの瞬時の出来事だったのを講談調に延ばして飾って語って聞かせてやったところが、無事に帰った蛭魔自身が語っているのに、どきどきハラハラと懸命なお顔になって聞き惚れてくれたその後で、
「こちらにも賊が乱入したのですが。」
などと、そっちをこそ早く報告しないかというようなものを“後出し”にしてくれる、剛毅なんだか うっかりなんだか、掴みどころのない少年で。
「怪我はなかったのか?」
案じて訊くと、にこりと笑い、
「はいvv 進さんが助けて下さりましたvv」
ああそうだった。この少年には、途轍もない神通力を持つ憑神が、髪の一条だって傷つけさすまいという勢いにて、その身を守っているのだった。他の家人に後日に聞けば、十人近い一団が強襲をかけて来て、かの少年を人質に攫おうとしたらしいのだが。どこからともなく現れて飛び交った飛礫にさんざん打たれ、しまいには屈強精悍な青年が現れて、振り下ろされる刀や棍棒を鮮やかに躱しながら片っ端から腕を取っては薙ぎ倒すという豪力にて、全員を見事に打ちすえて、荒縄でくくって雇われ主の匂いがする屋敷へと放り込んで来たらしく、
“…俺よか容赦がないな。”
さすがはセナしか眼中にない憑神であることよと、ちょいと呆れたのも束の間。
「………“あれ”は、どうした?」
脇息に肘を載せての、ちょいと自堕落な横座り。いつものように小袖に小桂と袴のみという軽装にて、宵の近づく庭を望める広間の居処へと戻った年若き主人。名指しが憚られてか少々口ごもったような言いようをなさるのが滅多にないことなので、
「はい?」
そっち方面へは機転が利かないセナが、ふかふかな黒髪を揺らしもって きょとんと小首を傾げたのへ、
「だから…先に戻ってこちらの様子を見ておけと言い付けたんだがな。」
自分への毒矢の強襲に、もしや連動しての騒ぎがこちらでも起こってはいなかろうかと。それを案じて様子見を言いつけた奴が、顔を出している筈なのだがと訊きたい彼が…なのに何故だか、そやつの名を言えず。セナが毒矢の話を知っていたということは、一応は顔を出しもしたのだろうに、
“………チッ。”
何故に今此処にその姿を見せぬのだと、それへ苛立つ自身が尚また…じりじり苛立ちの種だから。もう良いと話を置き去りにし、そろそろ夕餉の時間だろうからと自室へ少年を下がらせる。
“あんの糞トカゲ野郎が…。”
大事がなかったのを幸いに、命じられた役目をサボりやがったのだろうか。俺への事後報告までしてやっと完遂だろうがよと。少々収まらぬ腹立ちを抱えたままに、幾枚かだけ引き揚げられた御簾の隙間からなだれ込む月光の帯が、つややかな板の間を青く濡らすのを、何ということもなく眺めやる。
………どのくらいの時が流れたか。
夕餉の膳にもさして手をつけず、セナに運ばせた酒にもやはりあまり手は伸びぬまま、シンと静まった広間にまんじりともせず座している。今日はさしたる騒ぎもなかったから、体も気持ちも物足りないのか、一向に睡魔はやって来ず。月が随分と上へ昇ったというに、やはり瞼は軽いまま。退屈の虫と根気よく根比べなぞ構えていた蛭魔であったが、
「………っ。」
何物かの気配に、わざわざ立ち上がると。濡れ縁まで足を運んで広い庭をあちこちと眺め回す。手入れの悪い草むらが贋作の海のように波濤を揺らし、空いた地面へと落とす影を忙しくも掻き乱す。この気配だけは間違えないぞと、素足のままに降り立って、納所の方へと進みかけ、手前に据えられた井戸井筒。その傍らに立つ人影に、足を止める蛭魔であり。
「…? どうした? こんな時間に家人へ用向きか?」
我儘な割に、無駄に家人の手を煩わさせぬ彼が、今時分にこんな場所をうろうろするとは珍しいと。自分の側は常の状態であるかのような呑気な声を出す葉柱であり。だが、
「な…。」
何を言うかと、蛭魔はすっかり呆れているばかり。彼はトカゲの眷属で、イモリやサンショウウオといった“水系”の輩ではなかった筈。だというのに…真っ直ぐな黒髪を尚のことつややかに濡らすだけの話では収まらず、頭から爪先までを装束ごと滴るほどの水に濡らしているからで。群雲一つない、目映いほどの月光の降りそそぐ中、一体 何処で何をしていたやら。
「お前が…。」
今の今まで姿を現さなんだからこそ、この自分が不審な行動とやらを取っているのだろうがよと。呆れたついでの腹立ち紛れに、そうまで言いかけた蛭魔の口が止まったのは、
「…っと。」
今時の着物に比べればずんと短い袂から、何か黒っぽい塊が葉柱の足元、井戸端の石積みの上へぽとりと落ちたから。月光のみの明かりでは陰に紛れて良く見えず、何だったのだか あらためようと屈み込みかかった蛭魔だったが、
「触らぬ方がいい。」
鋭い声がそれを制した。自分へ命令かと、細い眉を吊り上げた蛭魔へ、
「毒虫だからな。」
「…毒?」
ああと。単調な声が言って、雄々しき背の上で頑健そうな顎が頷き、
「特別な呪怨の咒をかけられた奴での。水に投じられると肌から猛毒を放つ。」
「な…っ。」
物騒な説明へ、まさかと息を引いて喉元を押さえる蛭魔の方を見もせずに、
「全て除いておいたし、水も清めたから心配は要らぬ。」
短い言いようだったが、それだけで。この館に通じる水路や井戸に、危険な施しをされたことが知れるというもの。
「…お前は?」
この濡れようは、そんな水に身を投じての作業を今の今まで手掛けておったということだろうに。大丈夫なのかという後の語句がついのこと出なかった蛭魔へ、くっと喉奥にて短く笑い、
「俺の面の皮がどれほど厚いかは知っていようが。」
冗談めかして“大丈夫だ”と、案じるなと告げてくれた優しい邪妖。恐らくは大手門前で別れたその後からのずっとを、その作業にかかり切っていた彼なのだろう。着ていた着物、濡れて張りつく袷や小袖を手早く脱いでギュギュッと絞り、それを手ぬぐい代わりに体を拭い始める彼であり。一応は照れてのことだろうか、こちらへは顔を背けたままの葉柱で。自分に向けられているのは、剥き出しにされた逞しくも雄々しい広い背中だけ。月光と水気とに青く濡れている肌が、動作に合わせて隆と盛り上がっては、その縁取りに艶なる陰影を浮かび上がらせ。何とも精悍な男臭さを披露してくれているのだが。
「………。」
黙って眺めていたのも数刻のこと。何を思ったか、蛭魔は口の中でとある咒を小さく唱えた。すると、
「…なっ。」
自分に背中を向けていた葉柱の頭上から、一気に“ざばぁっ”と滝の流れもかくやという勢いのある真水が降って来て。それは太かった水柱が途絶えた後、尚の濡れ鼠というちょいと情けない姿になった彼が、
「何しやがんだ、てめぇはよっ!」
こんなことが出来るのは、こやつをおいて他になく。悪ふざけにも程があるぞと、振り返りざま、牙を剥きそうな勢いで吠えたのだが、
「そんな毒水をまとっていては、俺の方からは触れられぬだろうが。」
いやに真顔で…そんなしおらしいことを言う蛭魔だったものだから。その意味するところに、
「………。」
もしかして、いやいや自惚れていると痛い目を見るぞと警戒しつつ、
「…そっか。」
口ごもり半分、短く応じた邪妖の眷属。再び蛭魔に背を向けて、肌から髪から滴り落ちる水のしずくを、絞り直した衣であらためて拭い始めれば。背後から別の手が伸び、勿体なくも絹の衣をごっそりと、着せかけては剥ぐという所作を丁寧に繰り返し始めて。宵闇の中、夜露に濡れた草むらに、勿体なくも次々と放られる様々な色合いの錦の衣。その七彩が月光に光る様が…嵐にむしられた可憐な花の残滓を思わせて、何だか妙になまめかしい。やがて水気が拭われた広い背中に、ふわりとすがった柔らかい温みがあって、
――― 冷たいな。
そうか?
この時期にこうまで冷えると、眠くなるのではないのか?
俺は生憎と冬籠もりをする種ではないのだよ。
それでも…暖まった方が良かろうに。
そう、だな。
そろりとこちらへ振り向いた…広い胸板。腹へと続くは、きっちり絞られた筋骨の隆起で、鋼の強さを示唆して割れているほどの見栄えの良さに、
「………。」
声もなくうっとりと見惚れていると。長い腕が伸びてきて、その懐ろへと優しく掻い込まれて。さあ暖めてもらおうかと、すっぽりくるまれる甘やかな至福に、思わずの笑みがついつい浮かんで。金の髪へと自分の鼻先を突っ込んだ葉柱が何を言ったか、日頃は冴えて冷たいばかりな筈の、導師殿の口許をやわくほぐす。秋の野草の揺れる庭先、一つの影へと合わさった二人へ、天空から見下ろす月だけが微笑ましげな眼差しを送っておりましたそうですよvv
〜Fine〜 04.10.19.
*こちらの“番外”のお二人も、秋の夜長のお供にどうぞ。
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