ふと。遠い細波のような音がした、ような気がした。不意に一陣の強い風が吹き抜けて、群雲のように若葉が茂った梢の先を揺らしたような、さわ…と始まってそのまま"さぁーっ…"と長く続く、そんな音だ。
"…何の音だろ。"
そして。その音に起こされたのだと、遅ればせながら気がついた。気づかぬうちに転寝していた。あんまり心地よかったからだ。身も凍るほどの寒い中で暖かい思いをしているというほどの極端な極楽気分とは違うのだけれど、程よい温もりと程よい疲労感と、それからそれから。気持ちのいい肌触りと大好きな匂いと、無防備に凭れかかっても大丈夫な場所にいるという安心感とにくるまれている。薄手のシャツの肩が少し寒かったのに、くっついているところがじんわりと暖かいから、今はとっても気持ちが良い。少し角度が斜めになって座ったままという、眠るには何とも窮屈な姿勢なのに…何というのか。ほら、電車の中とか退屈な授業中とか。首がカクリと落ちそうな、そのままで眠ったら絶対に前へコロンと転がりそうなって予測が立つのに、でもでも眠くて眠くてしようがなくて、睡魔に勝てなくてっていう時の。あの、微妙な切迫感と背中合わせになってる、逆らい切れない眠気、みたいな。
"あ…そか、雨だ。"
朝からずっと、今にも降り出しそうな雰囲気ながら、それでいてなかなか最初の1粒が落ちて来なかった空模様だった、その緊張感のようなものがやっとほどけたらしい。目の細かい如雨露ジョウロでこそりと水を撒いてるみたいな、静かな静かな淑やかな雨音は、少し経ってから、庭の桜の若葉ややっと出来た水たまりを弾く雨脚の音が加わって、何とかそれらしい雨の音になった。篠突く雨というほどの、激しい勢いはないのにね。ささやかなのに、けれど、しっかと動かぬ構えを示すような不思議な存在感があって。淡いベールみたいになって、辺りの他の気配を覆うようにくるみ込んでいる。ほんのりと湿ってて、半袖のシャツなどで肌をさらしていると少し寒いかもという微妙な肌合いの空気が、お部屋の中をひたひたと埋めていて。
"ふに…vv"
寒いというほどではないのだけれど。くっついている温ったかいのが、あんまり気持ち良いものだから、うにうにと頬を揉み込むように擦りつけてみる。柔らかすぎない安定感と、でも、カチコチには堅くない適度なクッションが心地良い。横向きに腰掛けてるこちらの身体が、絶妙な噛み合わせで向こうの凹凸へすっぽりと収まってる具合も、何とも気持ちよくて。ほら、大きな毛布に適当にぐるぐるってくるまってみてたら、狙った訳でもないのにたまたま、重なってるトコがちょうど腰の窪みとか枕の位置とかに嵌まって具合が良いってこと、ない? 何かそんな感じで、ああ感じが良いからこのままで居たいなっていう、そんな居心地のよさ。
"ごうん、かたんっていうのは何だろ。"
目を瞑っていると、色んな音が見えてくる。何でもない生活の音なんだろうに、あんまり静かだからだろな、気がついちゃった端からその正体を確かめたくなる。雨の音、風に桜が揺れてる音。同じ風に斜はす向かいのお家の車寄せの波板の屋根があおられてる音。途中のクギが外れているのか、風が強いと撥ねてからガタン・バンって暴れて、いっつも喧しいの。それを上から塗り潰すように聞こえている、遠いような近いような音。ごうんごうん、とたんかたん。ドライヤーみたいな断続的なのと、時々重なる かたんことんっていう、ちょっと堅そうな音と。覚えはあるんだけど、何だったかな。思い出したいな、えっとうっと。思い出さなきゃ、う〜ん。………ああ、またとろとろとして来た。寝しなに"あれをやっとかなきゃ"って思い出すと、どうしてかな、途端に起き上がるのが億劫になる。洗面所の窓、閉めたかな。メールチェックしとかなくて良かったのかな。何か予定はなかったっけ? こんなして暢気に寝てていいんだったかな? あれ? えと? 曖昧な思考が、ほろほろと ほどけてゆく。ああ、気持ち良いな。髪の毛越しに頭を撫でてくれてる、大きな手のひらが温ったかい。うにうにって頬を擦りつけたら、どうしてだか ひたって手が止まって、それから…思い直したみたいに また撫でてくれて……………。
…………………………………え?
あんなに重たく塞がってた瞼がぐいって持ち上がって、眸を見開く。頬が直に触れているシャツの感触。この温みと匂いは………?
"あやや…。////////"
そろぉっと。お顔を浮かすと、背中から肩を抱くように支えててくれていた腕が少し緩んで、懐ろを開くようにしてくれる。見上げやすいように、そして。向こうからも覗き込めるように。
「…起こしたか?」
「あ…いえ。///////」
あやや。一体いつから転寝なんかしてたんだろう。日頃の少ぉし低くて響きの良いお声を、ほんのちょっぴり掠れさせた、優しい小さな声で訊かれて。瀬那は緩くかぶりを振った。此処は小早川さんチのリビングで。ソファーに腰掛けた進さんの膝の上、正確には腿の上に横向きに座って、上体は進さんの懐ろへとすっぽりくるみ込まれて。すっかりと凭れかかったまんまに、くうくう転寝していた自分であるらしいと、微睡みの世界から帰還したセナくん、現状をやっと把握したのだった。う〜ん、相変わらずの路線をまっしぐらですな、このお二人は。(苦笑)
◇
こぬか雨の降る気配をB.G.M.に、それはそれは静かな中で微睡んでいた。大好きな人の懐ろに温かくくるまれて。
"そだ。あの音は…。"
ごうんごうん、とたんかたん。ドライヤーみたいな断続的な轟音と、時々重なる かたんことんっていう、ちょっと堅そうな音と。あれは乾燥機の音だと思い出す。新学期が始まっても、進さんはU大学のF学舎にあるアメフト部の宿舎での合宿が続いてて。大学の春のオープン戦は、一種の身体慣らしっていうのかな、リーグ内での成績を決める"星取り"の対象になる試合じゃないので、そうそう毎週どのチームもゲームがある訳じゃないんだって。それで今日は土曜日だけど珍しくお休みになったからっていうメールをいただいて。お家まで洗濯物を持って帰る日なので、そのまま一緒に来ないかって誘われたのだけれど…あのね。こんなお天気だし、あのその、だからね。進さんのお家より近いボクんちで洗って乾かしませんかって、ついつい訊いちゃったの。やっぱり…お家でゆっくり羽根延ばししたいかな、お母様の作ったご飯を食べたいかな。訊いてからそういうの思い出したけど、もう遅くって。ドキドキしながらお返事を待ってたら、
【迷惑でなければ、そうさせてもらおう。】
やたvvって思って、お口がほころんだのが昨夜のこと。だって、ウチのチームの方も調子が良いものだから、只今開催中の春季大会をずっとずっと勝ち進んでて、週末とかにはなかなか逢えなかったんだもの。だから出来るだけ長い時間を一緒にいたいなって、あのその、うっと。//////// 我儘だったけれど、そんな風に思っちゃったの。そいで、今日も朝から相変わらずに曖昧な空模様の下、進さんが久し振りにいらして下さってvv お洗濯ものと言っても、毎日細かいものは自分でこなしているのかそんなにはなくて、ただ、この何日かはお天気が悪かったので、大きめのバスタオルとか進さんのだから大きいTシャツとかトレパンとかがスポーツバッグにきちんと畳んで入れてあった。洗濯機の中へそのまま無造作に放り込もうとなさるので、土の汚れは揉み洗いをしてからでないとと、靴下とか選り分け始めたら、何故だかその手を止められちゃったけど。あれれ?/////// なんか、ボク、失礼なことをしちゃったのかな? 洗濯機はね、合宿所のを使い慣れてるからって、だから自分でやるからって脱衣所からそぉっと追い出されてしまって。洗濯機が回っている間の40分ほど、リビングでお茶して、それからそれから。終わったよと合図の電子音がしたので乾燥機へと移しに向かえば、今度は進さんも止めなかったの。………どういう違いがあるのかな? お洗濯前と後。触ってはいけないものが触っても構わないものに どう変わったのか。
"………あ。"
もしかして、汗臭いものに触らせたくなかったとか? あらあら。/////// 今頃になってそんなお気遣いに気がついたボクって…相変わらずなのかしら。でもネ、進さんの匂いは大好きなんだのにな。大きなTシャツや脚の長いトレーニングパンツはハンガーにかけて浴室乾燥へ、タオルや靴下は乾燥機へと移し替え、さあ、あとは乾くのを待つばかり。あのねあのですね、先日蛭魔さんが、進さんトコのチームのオープン戦の様子を録画したDVDを焼き増ししてくれたんですよう。後半から試合、出てたんですってね。そんなこんなとお喋りしていた筈なのだけど。
"あやや、寝ちゃってたんだ。"
来て下さいって誘ったのはボクの方なのに何てこと。DVDを観ていたテレビも消されてる。起こさないようにって気を回してくれたのかな。身を起こして。あのそのえっと。
「…ご、ごめんなさいっ。」
進さんにとっても久々のお休みなのに。こんな大威張りで甘えててすみませんて、身を起こしかけたらね。大きな手が長い指を延ばした格好で、後ろから髪の中に潜り込んで来て、そのまま"くしゃ・くしゃり"って掻き回すみたいに撫でてくれた。髪の毛越しじゃなくて、直接頭皮に触れてる指の腹とかの、ダイレクトに温かな感触が気持ち良い。小さな小さな仔猫が、すぎるくらいに大きな手で良い子良い子って撫でられてるみたいなの。とても丁寧とは言えない武骨な所作なんだけど、その力強さに安心出来ちゃう。それに、ちゃんと加減してくれてるって判るから、その信頼もまた温みになって加わって擽ったくて。
"ふにゃ〜〜〜vv"
もうもう、どうしてだろう。進さんたら いつの間に、ボクの気持ち良いトコとか加減とか、しっかりと覚えちゃったんだろう。畏怖から出た遠慮や緊張に固まりかけてた身体から、余計な力みが抜けてゆく。喉の下を撫でられてる仔猫みたいに、なす術なく、とろ〜んと蕩けてく。またまた凭れかかってしまった頼もしい胸板は、鎖骨の上から肩へとゆるやかに上る斜面のところが、力をふにゃんと抜いた時のセナくんの頭をこてんと受け止めるのに丁度いい。程よく鍛えられた胸板は、堅すぎず柔らかすぎずの丁度いいクッションだし。背中側に渡された腕は、その中ほど、肘のところが、セナくんの背中を受け止めるのに丁度いい窪みになっており。わざわざ誂えたみたいにジャストフィットしている空間なんだもの、それに大好きな匂いと温みが ひたひたとやあらかく満ちてるんだもの。これで静かなお声を掠れさせつつ何事か囁かれていれば、力強い心音が聞こえてくれば、知らず…うとうと微睡んでしまったってしようがない。
「進、さん…。」
頑張って何か話しかけようとしたらしい愛し子が、だが、睡魔に負けてまたまたうとうとしかかるのを。眠れ眠れとおまじないでもかけるかのように、小さな頭を撫でつつ そぉっと見守る。髪を撫でるとこちらの鼻の少し先まで、ふわりと香るは甘い匂い。小柄で愛くるしい姿をした彼にはよく似合う、レモンを落とした蜂蜜のような、爽やかな種の柔らかい匂いであり、
"甘いものが好きだからかな、それとも………。"
ふと、思い出したもの。よく似た甘い香りを察知して、確かめようと無遠慮に鼻先を近づけた途端に、
『何すんのよっ!』
しまった、身内には遠慮をしない人物だったと思い出した時にはもう。風呂場の前の廊下で、見事に一本背負いで転がされていた清十郎さんであり。
『あらあら、たまきちゃんたら。』
こんなところで埃を立てたりして、もしかして練習が足りなかったのかしらと、お母様から軽くお小言を食っていた自分のお姉様と、実は同じシャンプーを使っているセナくんであるらしく。
"〜〜〜。"
それをふと、こんな時に思い出してしまい。ついつい…いかにも男臭い、鋭角的にも厳然とした構えの目許口許をやわらげて"くくっ"と小さく思い出し笑いをする。少なくともアメフトの世界での彼の経歴や評価、実力を知る者が見たなら、少なからず後ずさりするかもしれないほどに似つかわしくない代物であったものの、
『変われば変わるもんだよね。』
幼なじみの某アイドルさんが見たら苦笑混じりにそれでも納得するだろう、柔らかで のほほんとした、落ち着いた情景。何とも穏やかで楽しげなその笑みは、そのまま力強い包容力をも滲ませており、護る者を持ったからこその余裕と温かな威容というものを感じさせる。精悍さが失せて腑抜けになった訳じゃあない。むしろ、冷たく無機的だった、機械仕掛けみたいだったものが、やっとのことで血肉の温かさを取り戻したという観があり、いよいよもって厚みを増して頼もしい。
「………。」
それもこれも、この懐ろ猫さんを得たからこそのこと。ふわふかな前髪の下、瞼を伏せられたまろやかな寝顔。やわらかい頬の縁に落ちる睫毛の陰や、細い鼻梁、小さくてふくよかな緋色の口許。こうして落ち着いて眺めるとますますのこと、いかにも壊れやすそうな、繊細で愛らしい見目だと溜息が洩れるような男の子なのに。この偉丈夫が他には何も要らないからと、全身全霊を傾けて頭からのめり込んでいるほどの真剣勝負の戦場で、それは鮮やかに自分を置き去りにして駆け去った、驚異の脚を持つ正に"一陣の疾風"だった。そしてそして、フィールドから離れれば。いじめや孤独や寂しさや。そんな痛みを身に染ませてよくよく知っているからこそ、それはそれは懐ろの深い、途轍もなく優しい子だと知った。
『痛いことから逃げ回ってばかりいた弱虫だったから。』
含羞むように、それでいて仄かに痛そうに思い出してた彼が、なのに…どんな向かい風に遭っても逃げないと身構えて、強靭な芯をその気性の核に呑んで"強くなりたい"と頑張っている。たった一つ、でも最高の武器を、取り柄を、見つけてもらったから。それを活かせる、物凄い実力者たちと真っ向から対決出来るなんていう夢みたいなこと、ホントに体験出来るようになったから。楽しくって仕方がないと朗らかに笑う彼には、こちらまでが心暖かいものを感じたし、他人の痛みがよくよく判る身なればこその辛さにこそりと眉を顰めれていれば、何ともしてやれぬこの身の至らなさに歯噛みしたくなる。そんな自分へ対しても、少しずつの積み重ねからやっと好意を向けてくれるようになってからでさえ、時折 何故だか立ち止まったり、後ずさりされたこともあったけれど。根気よく差し伸べ続けた手や眼差しに、何とか気づいてくれた優しい子、愛しい人。
"………。"
頬にかかって擽ったげにしている後れ毛を、そっと指先で払ってやって。まだどこか幼い作りの、小さなお顔を覗き込む。すやすやと再び寝入ってしまった、やわらかな造作の寝顔。そのいとけなさにこっそりと微笑いつつ、どれほどのものを彼から貰ったか知れないと、今更ながらに思い知る。頭こうべを上げたまま真っ直ぐ真っ直ぐ、何物をも顧みず、それまでのようにただただ昂然と走り続けていたならば。それなりに強くもなれたかも知れないが、その代わり。体温さえ感じられず、物の価値の判らない、何とも味気ない人間にしかなれなかったことだろうと、自分でもそうと思えて恐ろしくなる。何にも知らない分からず屋で大馬鹿者だったから、何度も泣かせたし、何度も苦しめたろうに、それでも添うてくれる、この小さな温みが心から愛惜しい。
"………おや。"
例えば、こぬか雨の気配が消えたことに気がつくような。雲間から零れた一条の光に端を発した晴れ間のせいで、窓辺から射し入る光の濃さが増したことへ眸がいって。何ということもない現象へまで仄かに仄かに口許がほころぶような。そんな自分を自分にくれた、この小さな少年へ、感謝の絶えない清十郎さんなのである。
「………。」
再び懐ろを見下ろして。そぉっとそぉっと、小さな体を支えていた腕を少しほど引き寄せて。額の隅っこ、ふわりと立った前髪の陰へと口許を埋めれば、
「………うや。」
とろんとした声と微かな身じろぎがして、さて。しばらくしてから…真っ赤になったセナくんをどうやって宥める鬼神様なのか。そこまで覗いているのも野暮なので、ここらで虹でも探しに行きましょう。
〜Fine〜 04.5.20.
*某様のところの
"くっついて転寝する進さんとセナくん"シリーズに触発されましたvv
んもうもう、皆さん、甘くて美味しい作品をドカドカと発表なさってて。
そんなにも本誌では進セナ度が薄いのでしょうか。こらこら
ウチの二人も実を言えば、
こんな風に露骨にいちゃいちゃするのは久方ぶりのことでして。
ト書きや台詞を丁寧語にしちゃう癖が抜けなくて困りましたです、はい。(笑)
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