春立ちぬ

 

 
          



 暦の上では…という常套句をどこの天気予報でも必ず聞く。邪を払う福豆を撒いた翌日は、暦の上では春なのだが、実を言えば最も寒さの厳しい時期であるのが通例で。何メートルもの積雪に戸前を塞がれるような土地に比べれば、この辺りの寒さなぞ可愛いものなのかもしれないが、それでも体を冷やせば覿面
てきめん、風邪を引きかねないくらいには厳寒なので。




   ――― こういう始まり方をしておいて何だが、
       このお話、始まりは"節分"の夜が舞台である。



「………?」
 あまり顔には出ないが、それでも暑い寒いが分からないほどまで人間離れはしていない。吹きつける寒風に鼻の頭を赤くして、年明けからこっち、夕方はだいぶ長くなった陽がそれでもとっぷり暮れてから自宅に帰りついた自分を、
「あ、あの。お帰りなさいです。/////
 どこから引っ張り出して来たのか、割烹着ばかり着ている母や逆にそんなものは使わない姉なので、そんなものが家にあろうとは思わなかった白いエプロンを、細いめの腰に巻いた彼が玄関まで"お出迎え"に出て来たのへは、

   「…小早川?」

 正直言って驚いた。此処は本当に自分の家なのだろうかと、ついつい…今入って来たガラス格子の方や玄関回りを、彼には珍しくも明らさまにキョロキョロと見回してしまった進清十郎である。何しろ、彼はこんな時間に此処にいる筈のない人物だ。ちんまりと可愛らしい、知人の小早川瀬那くん。泥門高校の一年生にて、住まいも此処から結構離れた町にあり、何よりも…この数日ほどは互いのスケジュールが噛み合わなかったがために、声さえ聞けない離れ離れで過ごしていたのに。
「あの…進さん?」
 キツネにつままれたように呆然としている進の様子に遇っては、さすがに何だか居たたまれないのか。ちょっとばかり恥ずかしそうに、エプロンの上から腿の辺りをごしごしと広げた両手で擦って見せる。手持ち無沙汰というのか、何をすれば良いんだろうかという戸惑いに照れている姿は何とも愛らしくて、
「………。」
 今度は別な意味から見とれて声のない、図体の大きな弟へ、
「清ちゃん、ただいまくらい言ってあげなさいよ。」
 廊下の奥向きから馴染みのある声がかかって。とたとたと板張りを小さく鳴らしながら出て来たのは、
「…。」
 進家の長女・たまき嬢。彼女がさばさばしているのは常のことだが、框まで出て来た姉がセナの細い肩へ、後ろからおんぶするように両手を載せた構図を見て、
「…。」
 はは〜んと何かしらを嗅ぎ取った。何か言いたげにその目許が眇められたのへは、セナも、そしてたまきも気がついたようで。
「あ、あのあの…。/////
「何よ、そんな怖い顔して。たまたまQ街で会っただけよね?」
 肩口からお顔を覗き込んで"ねえ?"とセナへ同意を求めるたまきであり、
「あ、はい。」
 幼いお顔が頷くのへ、進は"はあ…"と溜息をついた。それをどう解釈したのか、
「あ、あの。ホントですっ。Qの駅でたまたまお会いして。そしたら、あの、階段が凍ってて…。」
 何だか大慌てで説明しようとする彼なのは、自分がたまきの言を信じていないと思っての弁護のつもりなのだろう。相変わらず人のためにこそ一生懸命な、何とも微笑ましい彼であることへ尚の苦笑を口許へと浮かべると、
「落ち着くんだ。ちゃんと聞くから。」
 瞳の冴えを少しばかり緩めてそうと言ってやり、かなり高い筈な上がり框の上にいても自分の目線よりも背の低い彼の柔らかな髪を、ぽふぽふとその大きな手で撫でてやる、高校最強のラインバッカーさんである。



            ◇



 とにかくはと家に上がり、二階の自室へ向かう。エプロンを巻いていたくらいで、どうやら台所仕事を手伝っていたらしいのだが、もうこっちは良いからと たまきに言われ、そのまま進の後をついて来たセナと共に部屋へと入り、襖とカーテンで仕切られた隣りの間で手早く普段着へと着替えた彼へ、セナはあらためて、懸命にコトの事情とやらを語ってくれた。今日はお互いに練習が長引きそうだったから、その後の逢瀬は遠慮し合ってみたのだが、セナの側の練習は…何かしら思いがけない運びで早くに終わったらしく。(何があってのことかは、説明するのが難しいのでと話してはくれなかったが。/笑)その帰途にふと思い出したのが、昨日本屋さんから電話があったこと。Q街の大きな書店で探したが見つからなかった、テーピングの専門書を取り寄せてもらったのが届いたという知らせであり、それを受け取りにといつもと反対方向の快速に乗って。Qの街で目的の本を買ったは良かったが、早朝ならともかくも、こんな時間だのに階段がつるつるに凍結していたらしくって。
「たまきさんが傍のお店で聞いてくれたんですけど、水道管が破裂してたそうなんですよ。凍ってて気づくのが遅れた分、修理も遅れたんだそうで。」
 危ないから人が通らないようにと、進入禁止のコーンを並べてあったらしいのだが、事情が通じていなかった別の店の関係者が"もうもう散らかして"とばかり、確かめもせず片付けてしまったらしい。
「それで、あの…。」
 中途半端に凍ってたりぬるんでたりしたところへ尻餅をついたため、コートからズボンからびしょ濡れになってしまったセナを、たまたま来合わせていたたまきが拾い上げ、
「車で来ているからって乗せていただいたんですけれど、あの、何だかこちらで、何か用意しているものがお在りだとかで。」
 それで、急ぐ訳でないなら寄って来なさいなと、後でちゃんと送って行くからと、ややもすると強引に、こちら様へ連れて来られた彼であるらしい。濡らした服は洗濯&高速クリーニングに出したらしく、今はいているジーンズやらセーターやらは、間に合わせにと姉から借りたらしき女物だ。
「………。」
 眸を伏せて、あの姉貴はまったくもうとか何とか。胸の裡(うち)にて頭痛のタネを再確認してから、
「小早川…。」
「ごめんなさいですっ。」
 謝ろうと思ったその機先を制された。さすがは高校最速を競い合う仲である。…じゃなくって。
(笑)
「何か、ボク、図々しくて。きちんとお断り出来なくて、あの、」
 顔を上げない、目線を合わせない。こんな彼は大概、思い詰めるあまりに失速して、何か誤解していると知っている。大方、自分が何かしら不機嫌になったらしいと、その原因をセナへではなく姉へと据えているのだろう自分の抱いた"誤解"を解きたいと、そんな風に思ってのことだろう。
「………。」
 何とも…相変わらずな彼であることが、何だかホッとする。一週間近く会えなかったせいで餓
かつえていた部分に、じゅっと音を立てて何かがぐんぐん染み込むような充足感。
「…謝らなくていい。」
 俯いた小さなお顔のやわらかな頬へ大きな手をすべらせて。そぉっと促すとやっと目線を上げて見せるから、
「姉さんが強引なのはいつものことだ。むしろこちらこそ迷惑をかけたな。」
 諭すように、噛んで含めるように。ゆっくりと話しかければ、
「えと…。」
 何故だか…少年の頬が見る見る赤くなる。
「小早川…?」
「…あの、なんか、久し振りですね。」
 今頃になってそんな実感が沸いたらしいが、
「………。」
 それはこちらも同じこと。寒さが過ぎたところから一気に温かさが盛り返した、手のひら・指の先。それと同じくらいに熱いらしい、彼のやわらかな頬の感触もまた久し振りであり、
「えと…。/////
 恥ずかしそうながらも…嫌ではないらしい、仄かに嬉しそうな微笑を返してくれる彼を見つめつつ。こんな唐突な逢瀬を齎
もたらしてくれたことに関してだけは、姉に感謝しても良いかなと、珍しくも甘やかなことを思ってしまった"フィールドの仁王様"であったりした。おいおい









          



 節分は節季の節目という意味で、特に立春前日のそれは旧の暦では"大晦日"にあたったので、前年の災厄を払うという意味から"追儺
ついな"儀式というものが随分と古来より催されており。その始まりは平安よりも前とされるから奥が深い。一番最初は土くれで作った牛の像にお払いをする…とかいう形式のものだったらしいが、様々に人心が乱れた平安の時代には"鬼"という存在が人々の中に確立され、それを追い払う儀式が様々に発展。今の世に残るあれこれとなったとされている。炒り豆を撒くのは、金のように堅い豆を火で炙ることで"火剋金"をほどこし、それを撒いたり食べて邪を払ったという説が有名だが、鬼にさらわれた娘を取り返した父親が"娘をほしいならこの豆が芽を出したころに出直して来い"と炒り豆を差し出し、鬼を追い払ったというおとぎ話もある。また、鬼は細かいものが苦手なのだそうで、それで枝や葉の縁に棘のあるヒイラギの葉や細かい骨があるイワシを門守りに掲げるのらしい。



 さて、進家で催される予定があった行事というのは、もうお判りだろう節分のアレだ。といっても、豆は昼間にも道場の年少クラスの坊やたちがさんざん撒いたそうなので、お義理に1摘まみずつをそれぞれが庭へと撒いてから、
「晩は食べる方での"厄払い"ね。」
 まだ真新しい青い匂いのする畳が敷き詰められ、大きな角膳を広げた居間へと用意されたのは、いわしの塩焼きだとか巻き寿司だとか、節分ならではなメニューと、お造りにフライやローストビーフといったパーティーメニューとが合体した、何とも楽しげな食卓であり、
「お父さん、遅くなるんですって。先にいただきましょう。」
 お爺様は道場の方で、門弟さんたちとイワシや炒り豆を肴に"お神酒"を上げているのだとか。ちょっと変則的な4人の顔触れで"いただきます"と手を合わせて、さて。
「あら、清十郎。今年は"まるかぶり"やんないの?」
 着席した席の向かい側、会食配膳で大皿に盛られた"切られていない巻き寿司"を指さすたまきに、鼻先で"ふん"と短い愛想だけ返した大きな弟御の隣り、
「"まるかぶり"?」
 お母さんからお吸い物のお椀を受け取ってリレーしていたセナが訊く。
「ああ、えっとね。」
 知らなかったらしい彼へ、説明しかかったたまきに代わり、
「私は関西の出身なの。それで、ね。毎年、切らない巻き寿司を、つい用意してしまうのよ?」
 お母さんがはんなりと説明してくれる。
「もともとは愛知の方の風習なんだそうだけれど、関西の方では、節分には鬼の金棒に見立てた巻き寿司を、恵方に向かって一気にまる齧りで食べ切る習慣があるの。」
 これは諸説紛々あるそうで、6種類の具とご飯という"七福"を海苔で巻き込んで食い尽くすという説もある。で、こうまで広まったのは、大阪の海苔問屋組合がキャンペーンを張ったせいなのだとか。恐るべし関西の商人パワー。
(笑)
「一言も喋っちゃいけないの。でも、清十郎は意識しなくとも完遂出来ちゃうのよね。」
 日頃から無口な弟をからかうような言いようをする彼女だが、
「およしなさい、たまきちゃん。」
 お友達が来ている前で恥をかかせちゃあいけませんと、そこはお母さんもぴしりと叱って、
「でもね、清ちゃん。お寿司を巻くのとエビフライの衣つけは、小早川くんも手伝ってくれたの。だから、よっく味わって食べなさいね?」
 お母さんはお母さんで、こんなまで図体の大きな息子をともすれば小学生みたいに扱うところが、何だかやっぱり…ちょっと意外で。
「…えと。」
 ちらっと見上げたその"息子さん"は、どこか"やれやれ"という顔をしてはいたが、それでも何だか幸せそうな、和んだお顔なのへホッとする。………と、
「…?」
 そんな彼と目が合ってあわわと慌て、お箸の先に摘まんでいたエビフライ、尻尾の方から咥わえてしまったセナくんだった。



            ◇



「ふわ〜、なんか星が一杯見えるんですね。」
 カーテンを引き忘れた窓辺。部屋へと入ってすぐそれに気づいて。傍へと寄ったセナが、だが、カーテンに片手をかけたままで窓ガラスを手のひらで拭うとそんな声を出した。
「ウチの近所は家がぎゅうぎゅうに建て込んでるから、空がこんな小さくしか見えなくて。」
 胸の前で両手を広げ、少しだけ間を空けて、そこへ見えない何をか挟んでいるような仕草。それはオーバーだろうが、それでもそういえば住宅街の中にあったなと、進も思い出す。少しばかり露に濡れた窓。冷たいだろうからと、自分も傍らに寄ってカーテンを引くのを促すと、あ・すみませんと素直に従う。
「すまんな。付き合わせて。」
 明るいお姉さんが何かと話を振ってくれたこともあって、楽しいままにお食事は進み、後片付けはいいからと男の子たちはお二階へ追いやられた。無理から予定を押し付けられた格好のセナへと再度謝る進へ、
「あ、いいえ。とっても楽しいんです。こっちこそ、お招きいただいてありがとうございます。」
 出された座布団へちょこんと座り、ぷるぷると首を横に振る。
「今日はウチの両親も遅くなるって言ってましたし。それにちゃんと電話で連絡しましたから。」
 心配しなくても大丈夫ですよと、ほこりと笑う。誰も待つ者のない家に帰るところだったセナ。彼にはそれが当たり前のことであり、とうに慣れている彼なのだろうが、
「………。」
 だから。こんなにも心優しい彼なのかなと、進はふと思う。よく気がつくのも、案外と芯が強いのも、一人で過ごすということをその身に親しませて来たその名残りなのかも。そんな大仰なとまたまた恐縮されそうだったから口には出さなかったが、傍らへと腰を下ろし、ぽふぽふと髪を撫でてやる。これには、
「???」
 意味が分からないながらも…嬉しかったのか、ふふと小さく微笑った少年であり、その柔らかな笑顔に、こちらこそほこりと温められたような気がした進である。彼らを追うように母上が運んで来てくれたのが、お茶道具の一式とポットに菓子盆。
『おやつに摘まみなさい』
と置かれたその中には、あられとそれから炒り豆が入っていて、
「そういえば去年はやってないんですよ、豆まき。」
 今年もこうやってこちらに伺わなければやってないですねと、小さな指先で香ばしい大豆を摘まみながら、少年は嬉しそうにくすすと笑った。自分の家では…望むと望まざるにかかわらずの当たり前の年中行事なだけにちょっと意外で。そうなのか?と目顔で問うと、セナは屈託なく笑った。
「ええ。だって去年の今頃は受験の最中だったです。」
「あ…。」
 成程、それどころではない追い込みの時期だ。苦手な教科があったからと、従姉妹のお姉さんにきっちり勉強を見てもらっての、それでもドキドキの受験だったそうで、
「合格出来て良かったです。」
 春には新入生となり、思わぬ形でアメフトというスポーツに接して。そしてそして、進とも出会えた。今の自分につながる道の中の大事な基点、進と知り合う経過を得るまでのその初め。泥門高校に合格したから辿り着けた"今"。とっても幸せだから"良かった"と嬉しそうにやわらかく微笑う少年へ、進の側も何だか嬉しくなる。彼が幸せだからと笑うのが、そしてその"幸せ"に、自分という要素も少しくらいは関わっているのかなと、ちょっとばかり自惚れて嬉しくなる。
"………。"
 季節の変わり目。あと一月はかかる春の来訪を待つ厳冬の頃。そういえば、去年の今頃、自分は一体何をして居たかなと、思い出せないでいる自分に気づく。こうだったろうああだったろうと並べられれば、ああそうそうと思い出せもするのだろうが、それよりも。その後から今へと続く、この小さな彼と歩いて来た日々があまりに鮮烈だったから。自分にまつわるものには一向に沸かなかった"関心"が、傍らにこの少年がいた記憶だというだけで、どれもこれも大切なものになっている。春の大会、初顔合わせ。フィールド外での再会、少しずつの接近と理解。合宿に入ったために逢えなかった夏休み。その不足を取り戻して余りあるほどに、馴染んで親しんだ秋を抜けて。辿り着いた冷たい季節は、だが、こんなにも暖かい。視野が遠目で、禁忌的を通り越してただただ味気無いばかりな人間だった自分へ、大切なことへの集中はそのままに、色々なことを授けてくれた、視野を広げてくれた生き生きとした存在。
「? 進さん?」
 傍らに小さなお膝を揃えて座っている小さな少年へ…そのやさしい凝視がますます彼の頬を赤く染めさせてしまうとも知らないで、無言のままについつい見とれてしまう、フィールドの白い騎士殿であった。






   aniaqua.gif おまけ aniaqua.gif

 ややあって。もう遅いし、たまきの運転では心許ないから、今夜は泊まって行きなさいと、母上からにこやかに言われて…二人揃って固まってしまったりもするのだが、それはまた別のお話ですのでvv





     〜Fine〜  03.2.4.〜2.5.


     *寒い時には温かい甘甘話が一番っ…だとはいえ。
      寒さにも限度があるぞ、という厳寒期、
      もしかしてこのお話自体が物凄く寒いかもねと思いつつUPしてみました。
      いかがなもんでましょ。


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