微熱 〜 a  slight  fever  2

  

        


口許が気になる。
本人さえもそれと気づかぬ笑みを浮かべる瞬間のほころび方。
無心な眠りに薄く開いた、やわらかそうな口唇。

気にはなるけど、触れられない。
触れられないから、ますます気になって仕方がない。


 宵闇は既にそのガウンを深色に着替えていて、しとやかな月光が音もなく甲板を濡らしている。
"………。"
 誰かが出て来た気配には気づいていたが、お節介なコックだろうと思うと余計に苛ついた。また何か頭ごなしに説教めいた皮肉でも言うつもりか。幼い子供の気まぐれに、本気で腹を立ててどうする、とか。だとしたらうんざりだと、何度目かも数え切れないほどとなった溜息をつきかけたゾロだったが、
"…っ。"
 ひたひたと歩き回っているのは、革靴ではない小さな足音だ。聞き間違える筈がないそれへハッとし、上甲板へ向かうのをついつい身を起こして見やる。階段の途中で背伸びをしてから、肩を落とし、こちらへと戻ってくる小さな影にどぎまぎする。サンジではなかった。居残っていたことは知っていたが、この時間なら暖かなキッチンで食事中かと思っていた。近づいて来た足音はやがて、
「………。」
 すぐ間際で立ち止まり、
「…ゾロ。」
 小さな声が降って来る。後甲板の大砲の陰。隠れていた訳ではなかったが、月の位置からして、丁度闇溜まりの中に没してしまって、表情やら態度やら、向こうからはよく見えないことだろう。
「ごめん、俺…。」
 小さな声をつい遮って、
「傍にいてほしくねぇんだろ?」
 拗ねた子供のような、駄々のような、突っ張った言いようになったことへ舌打ちしたくなる。そうじゃない。多少なりとも凹みはしたが、彼が望むことなら仕方がない。そう思って自分を何とか納得させようと、夜風と月光の力を借りて頭を冷やしていたのに。まだ充分冷めやらぬうちに、御大が現れてしまったため、取り繕うことさえ出来ずにいる。そんな自分が情けない。何物からでも守らねばならない対象だといつの間にか決めていた。あまりに無垢で真っ直ぐすぎる彼だから。他者からの魔手や攻撃からは勿論、痛みや苦しみからもだ。だから、自分の存在が不快だというなら、それもまた呑んでしまわねばと覚悟を決めるべきだのに、ついつい未練がましく駄々をこねた自分が浅ましい。早くも後悔を一つ数えた不器用な剣豪だったが、

  「………俺、どうしたら良い?」

 力ない呟きに胸を衝かれた。
「…ルフィ?」
 顔を上げかけたその視線とすれ違うように、何か光るものが落ちて甲板に当たる。ぱたぱたっというかすかな音。見下ろせば、彼の足元に何か小さなものが光っていて、確かめるより前に続いてまた落ちて来た。パタパタタッと続くそれは、最初のものと合わさって、乾いた甲板に音もなく吸い込まれてゆく。
"………あ。"
 うつむいた顔から次々に落ちてくるもの。これまで、どんな時にも見せたことのない"涙"ではないのか?
「俺、ゾロのこと、好きなのに、大好きなのに触われないんだ。」
 向こうからこちらが見えにくいのと同様、こちらからは麦ワラ帽子の陰になり、彼の表情がよく見えなかった。
「火傷しそうに熱くなったり胸が痛くなる。傍に居たいのに、苦しくって居られないんだ。なあ、どうしたら良い? 」
 かくんと膝を折り、すぐ前に力なく座り込む。やっと間近に見えた顔。目許は真っ赤で、今の今まで涙に暮れていたことをまざまざと示していた。
"…ルフィ。"
 自分の気持ちがコントロール出来ないと、好きなのにどうしてこんなに苦しいのかと、はっきりそう言った彼だ。多少は混乱もあろうが、なればこそ、そんな状態で嘘はつくまい。
"………。"
 ゾロは深い吐息を一つつくと、胸の前に組んでいた腕をほどき、そのままルフィの方へと伸ばした。
「…っ!」
 やはりビクッと身を竦ませる。ありありと判るほどに。だが、一切構わず肩を二の腕を掴むとやや強引に引き寄せて、こちらの胸板へと倒れ込ませる。麦ワラ帽子が弾みで背後へ落ちた。
「…ゾロ?」
 途端に声が震え出す。触れた肌が本当に熱を帯びてゆく。逃げ出そうともがき始めるその身を抱きすくめ、

  「泣いてみろよ。」

 ゾロは低い声でそう言った。

「………え?」
「そんなうじうじした泣き方じゃなく、もっと声出して派手に泣いて見せろよ。」
 間違いなくゾロの声だ。それも、脅すような響きを含んだ、たいそう低い声であり、これまで…敵に向けられた啖呵というケースでしか聞いたことがなかった種の声だった。
「身もだえして泣きわめいて見せろって言ってんだ。何なら引っぱたいてやろうか? 引き金代わりによ。」
 直接触れている胸板からも直にびりびりと響いてくるようなその恐持てのする声に、何がなんだか混乱し、そぉっと顔を上げたルフィは、だが、
"…あ。"
 自分を見下ろしていたゾロの顔を見て、胸を詰まらせた。わずかに身を起こしたことで砲台の陰から外れ、月光に照らし出されたその顔は、何とも言えない、静かでやさしい表情を浮かべているのだ。呆気に取られたこちらの顔の、額に額をコツンとくっつけて、彼は…今度はいつもの深みのあるやわらかな声でこうも付け足した。
「大丈夫だ。何があっても、俺はお前のこと、嫌いになんかならねぇよ。だから、思い切って泣いちまえ。みっともなくても良い、子供みたいでも良いからよ。」
 途端、見る見るうちに"ふえ………"とルフィの口許が引き歪む。それから、しゃにむにしがみついて来て、まるでがんぜない子供のように大声を上げて、おいおいと泣き続けた彼だった。そんな彼の小さな背中をさすってやりながら、
"………。"
 事の次第が見通せて、こちらこそ胸が締めつけられるような、切ない想いがしたゾロでもあった。
"…お前がお前じゃなくなる方が、よっぽど堪えるってもんだ。"


 ヤマアラシのジレンマというのをご存知だろうか。ジレンマとは板挟みになること。ある寒い冬の朝、2匹のヤマアラシがお互いを温めようとして擦り寄るが、それぞれが持つ棘が当たって痛いために離れる。だが、寒いのは収まらないからまた近づく。そして痛さにまた離れる。こうして何度も互いに傷つき合いながら、その内ある程度温め合うことの出来る距離を発見する。このショーペンハウエルの寓話から、フロイトが導き出したのが"ヤマアラシのジレンマ"という人間関係上での鬩
(せめ)ぎ合いで、どんなに好きな相手でも、あまりに近づき過ぎるとお互いのエゴイズムから傷つけ合う度合いも高くなることを指している。傷つくのは嫌だが近寄りたい。愛する者と一体化したいと思うのは、本能に根付いた代物だから押さえようがない。だが、自我という名の"エゴ"は、他の誰でもない"自分"である証しなのだから、冒されたくないし手放したくもない。その許容の限界を見つけ合うまでの鬩ぎ合いを、人はどうしても乗り越えねばならず、その難関には愛憎のドラマも数知れず派生する。

            ◇

 どのくらい経っただろうか。今はやっと泣き疲れて眠っている。見下ろした腕の中、すうすうと立てる寝息も穏やかで。角度が変わった月の光に照らし出された無心な寝顔が、何とも幼く愛惜しくて、和んだ視線がどうしても外せないでいる。
「…。」
 ふと、気配を感じた。見やるとキャビンから出て来た痩躯が、月光の中で逆シルエットになっている。ゆっくり近づいて来た彼は、
「キッチンに夜食がある。腹が減ったって騒ぎやがったら、それをたらふく食わせてやれ。」
 そうと言って…傍らへと屈み込んだ。声を低めるためだったらしい。というのが、
「それと、これはナミさんからの伝言。医務室のベッド、特別に使って良いとよ。」
 どういう意味かすぐには判らなかったが、
「な…っ!」
 察しがついて反駁しかかるのを、煙草を指に挟んだままな手のひらを、こちらへかざすようにして押し留め、
「そこいらの埃ん中や板張りの上じゃあ、こいつが可哀想だからな。あ、俺はこれから宿の方へ行くからよ。気兼ねは全然要らねぇぜ?」
 あっさりととんでもないことを並べるサンジだ。
「…おい。」
 当然、笑えねぇ冗談はよせと眉を顰めるゾロだったが、サンジは相変わらず動じない。ただ、彼としてもふざけてはいないようで、最初からずっと真顔なままである。
「荒療治かも知れんがな、もう十七なんだぜ? 今はリビドー全てが海賊王になるって野望へ費やされて上手いこと消化されとるが、先々で破綻を来したらどうすんだ。今回のだって、その一端だったのかも知れん。自分の恋愛感情が理解出来なくて、訳もなく怖がっとったんだからな。ナミさんが言うには、下手すりゃ"自家中毒"の一歩手前だったんだぜ?」
 味のあるなめらかな声が、今は低められてそれらを一気に囁くと、
「…ま、判断はお前に任せるよ。じゃあな。」
 返事も待たずに立ち上がり、さっさと背を向け、主甲板へと降りて行く。
「………。」
 追っかけてって何かしら言及したかったが、腕の中にはルフィがいて身動きが出来ず、結局…小さく苦笑して諦めた。………と、
「…ん。」
 そのルフィが目を覚ました。
「………あ、れ?」
 本当に小さく小さく身じろいで、辺りに何か探そうとするから、
「どうした?」
 訊くと、
「サンジの声がしてた。」
「ああ、さっきまでいたんだ。」
 ふ〜んと頷いて、大人しくしている。まだ半分くらいは夢の余韻に意識が酔っているのだろう。
「ルフィ?」
「なに?」
「もう、苦しくないか?」
「? ……………あ。」
 すっぽりと、これ以上はないほど懐ろ深くへぬくぬくと抱き抱えられている自分なのだと、今初めて気がついたらしい。だが、先程引っ張り込んだ時のような震えは起きない。大方、さっきの大泣きがリミットだったのだろう。何も取り繕わなくて良いというゾロからの一言が引き金となり、溜まりに溜まった緊張というストレスが一気に発散されたのだ。そんな理屈は判らないため、ややもすると半信半疑、どこかぽかんとしていたが、
「うん。もうへーきだ。ドキドキはするけど、温ったかいドキドキだから。」
 頼もしい胸板へ自分から頬摺りをし、仄かに恥ずかしそうながら笑顔を向けてくる。そんな彼の頬へ、ゾロは手のひらを片方だけそっと添えた。大きくて温かな手だ。ずっと触れたくてしようがなかった手だ。ルフィの側から軽く押しつけるように頬摺りをすると、ゾロはやわらかく微笑って見せる。その手の親指が、まだかすかに濡れている目の縁をやさしく拭った。そして…その手はそっと位置をずらす。指の腹が頬を伝い、小さな顎にかかり、そして、
「………。」
 恐る恐る唇へと触れた。まだどこか子供の名残りの濃いそれであり、しっとり柔らかな感触の唇。ふわふわしすぎて頼りない、まるで…自分は苦手なのでここしばらく食べていないゼリーかマシュマロのようで
おいおい、いかにも脆そうで危なっかしい。
「…ゾロ?」
 じっと動かない剣豪へ、ルフィは小さな声をかけた。それが潮風にさらわれて幾刻か。二つの影は隙間なく、一つの影として重なっていた。



もっともっと

思うより早く"想い"は育つ。
カラダは求めに鋭敏になり、
戸惑う心を急き立てる。
指へと梳きとった髪の冷たさに、
重ねた唇の感触に、
触れた肌の温もりに、
吐息と鼓動が早鐘を打って急き立てる。

もっともっと深く
もっともっと熱く

どこかに何かを見つけたい。
汲めども尽きぬ泉の水底のように、
追っても届かぬ風の鉾先のように、
どこかに答えが、どこかに果てがあるのなら、
そこへと辿り着いてみたい。
もちろん、二人一緒にだ。

 ………………………………………………。

つないだ指先はそこから蕩けそうなほどに熱くて。
けれど、朝まで離さなかった。



            ◇

 翌日は昨夜のきれいな月が残した約束通り、朝からぴっかぴかの晴天で。その青空を背景に、
「おっ帰り〜っ!」
 舳先からそれは大きく両手を振るルフィを見やって、
「…あ〜れはベッドは使ってないかもね。」
「ナミさん…。」
 ビビが赤くなり、サンジが"あはは…"と苦笑する。他の停留船へも、乗船のためや荷揚げのために人々が集まりつつあって、港へ向かうそんな人波の中でのこと。周囲に聞こえては…と恥じらう気さえないらしいナミの言いようには、確かに色気もへったくれもないが、これでナミにだってルフィを気遣う親心はたっぷりとある。そう、堅実なる"親心"。だからこそ…色気より実利であり、採算なのである。
「だって、また今度はその段階で一騒ぎあるのかも知れないのよ? しかもいつになるんだか判んないのよ? それを思えば、今のうちに何段階でもちゃっちゃと済ませといてほしいじゃない。んっまったくあの甲斐性なしがっっ!」
 そういうもんだろうか。何ともリアクションに困っているビビの後ろ、
「大丈夫ですよ。」
 サンジがそうと応じている。
「何が?」
「そんなに待つこともなく、次の段階とやらに突き進むと思います。」
「なんで判るの?」
「キスにせよ触れ合いにせよ、一度きりで満足して、後は諦めるなんて潔いことが出来る筈がないからです。」
 おお、さすがは"恋はハリケーン"推奨者。
こらこら
「言い切るのね。」
「こらえられる奴なら、その一回さえこらえ切れてる筈ですからね。」
「…そうねぇ。」
 けど、それはあくまでも"理屈"では?
「ホントのホントに心から好きな相手で、あんなにもすぐ傍にいて、何にも障害はなくって、だのに手ぇ出さないなんざ、男の風上にも置けねぇ。」
 おいおい。でもまあ、言わんとして居ることは判らんではない。あれほどのセッティングをしてもらっても手を出さなかった…というよりは、今回そこまで追い詰めたのだから、次への溜めはそりゃあもう大変なもの。我慢し切れず次のステップへとっとと進むことだろうという目串で、
"…けど、ホントに手ぇ出さんかったのかなぁ。"
 さぁてさて。そればっかりは当事者たちとお月様しか知らないお話。筆者も何にも申せません。


          〜Fine〜      01.8.27.〜8.28.

    カウンター700HIT キリ番リクエスト
            SAMI様 『ゾロの掌に擦り寄るルフィ』



  *うう〜ん。久々に意識した"甘甘"でございます。
   何だか『虹のあとさき』の親戚のような仕立てになってますが。
   照れ隠しの理屈がごちゃごちゃと並んで、
   正規の画面(というか流れ)を随分と邪魔してますね。
   ウチの"お父さん"ゾロは古いタイプの人だから、
   プラトニック・ラブ主義なのかも知れません。(おいおい)
   …って、ホントに手ぇ出さんかったんだろうか?
   一度サシで話したいもんです。ふっふっふっ…♪
   という訳で、SAMI様、
   妙なお話になりましたが、宜しかったらお持ち下さい。
   

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