緑の仔犬
 

 涼やかな風の感触と、ほのかに甘い匂いが鼻先に届いて、
「………で、ともかく一安心だけど。」
「そうですね。」
 聞き覚えのある声がする。窓辺に誰か人の気配。明るい部屋だと、目を閉じていても判る。ふわふわと浮いていた意識が体の中に戻って来て沈み込む。俺、こんな重かったか? 腕も脚も支えるのがやっとだな。糊をかけ過ぎてるシーツの感触がして、息を吸い込むとちりちりっと胸板が痛んだ。力尽きた粘着テープが剥がれるように、じわりと瞼を開くと、
「………え?」
 目が合った相手がキョトンとし、それから…持っていた可憐な色彩の花々をバラバラと、その白い手から取り落とす。
「あ、Mr.ブシドーっ?! 気がついたんですか?」
 …いつか言おうと思ってたんだが、その呼び方、変えてくんないかな、ビビ。

            ◇

 嵐を避けて、ゴツゴツと岩場の多い小さな群島に辿り着いた彼らは、そこで専横を極めていた海賊どもと一戦交えた。悪党退治なんてものじゃない、強いて言えば"一宿一飯の恩義"というやつで、そういうのには義理堅い船長が即断で決めたことだった。相手の一味は、どこぞの文明国で乗っ取ったという、空気圧で船体を浮かべて進む"ほばあ"とかいう船に乗っていて、海上のみならず、どんなごつごつした陸の上でも素晴らしいスピードで進める変わった代物。そんな船を操る奴らにはかなりの苦戦を強いられたが、岩場の急斜面へと誘い出し、ルフィとゾロの二人掛かりで思いっきり突き飛ばしたところ、崖からすっぽ抜けて海へと墜落していった。どこでも走れるが船底がどこかに接していなければならなかったらしい…という理屈は、後からナミに聞いた。早い話がちょっと偶然という感の強い勝利だった訳だが…それはともかく。突き放すその時に、ゾロがゴム製らしき船体を細かく斬り刻んでやっていたから、そうそう簡単に"復活"という訳にも行くまい。船がなくなれば裸も同然な情けない奴らで、そうとなれば島の人々たちでも充分太刀打ちも出来るだろう。戦いの方はそれで終わったが、船体の周りに刃物をやたらと装備していた相手だっただけに、ルフィもゾロもたいそう派手にあちこち傷めていた。一気呵成という立ち会いだったせいか、今はもう立ち上がる気力もなくって。待っていれば…村の守りの方にあたっていたサンジやウソップたちが、やがては探しに来てくれるだろうと、やや楽観的に構えて、その場に倒れたままでいた二人だった。



「………。」
 とにかく素早く駆け回る相手だっただけに、避け切れぬ衝突と同時に触れた箇所を容赦なく切り裂かれた。船体も相当重かったから、跳ね飛ばされた回数分、肋骨を何本かやられているなと自分で判った。息をするのがかなりきつい。最後に吹っ飛ばされたそのまんま、どうにも動けない。しょうことなしに背中を大地に預けたそのまま、仰向いて空を眺めている。風に追われて走る雲がなければ、凪の海のように見えるほど、深い色をした空と向かい合っていると、
「…ゾロ?」
 海から吹きつける強い潮風の音に中にルフィの声がした。そちらを見やって、体を起こしかけたが、
「…っ!」
 どう動いても胸が軋んで身動きが取れない。
"くそっ。"
 せめて起き上がるくらい出来ないのかと、舌打ちをする。
「大丈夫か?」
「…ああ、何とかな。お前は?」
「判んねえ。大して痛てぇトコはねぇんだが…。」
「?」
 そういえば。大丈夫なら歩み寄って来れば良いのに、声がする位置がさっきから動かない。彼も相当やられているということか?
「何だか目が開かなくてよ。はは、何か貼っついてんのかな。」
「…っ!」
 笑ってはいるが、目をやられたなら只事ではないではないか。しかも、
「…ルフィ?」
「………。」
 唐突に返事がなくなった。
「ルフィっ?」
 無性に気になったゾロだ。簡単にどうかなる奴じゃあない事は知っている。だが、胸の奥が鷲掴みにされたようで傷よりもっと痛む。
「…くっ!」
 歯を食いしばって何とか体を横へと倒す。寝返り一つにこんなに時間を掛けたのは、生まれて初めての経験だった。うつ伏せになったことで、そう離れていないところにルフィが横たわっているのが見えた。次いで、立ち上がるため、胸元へ脚を引き寄せようとしたが、
「あぐっ!」
 立ち上がれない。胸も痛むが、脚も自由が利かない。筋でも違えたのだろうか、それともこちらも骨をやられたか、引き上げようとするだけで、腿から膝から焼けつきそうな激痛が走る。斬られた傷とは違って、痛む箇所が広い割に漠然としているその曖昧さが、意識を良いように撹乱して動こうとする気力を萎えさせようとする。これは正しい反応なのだと判ってはいる。痛みや熱はイコール"休め"という体からの合図だ。これが、たった一人でここに倒れているというなら、後は野となれ山となれとばかり、このままぐうぐう寝入ったろう。だが、自分だけではない。
"ルフィ…。"
 肘を立て、そのままじりじりと地べたを這って、何とかすぐ傍まで辿り着く。これだけの距離にどれだけかかっているやらと、たまらなく歯痒かった。平生の彼らなら、軽く手を伸ばし合えば届いたろう距離だのに。
「ルフィ、どうした。」
 声をかけても返事がない。何とか間際まで近づいて、軽く胸元へ乗り上がるようにして耳をつけ、じっと様子を"聞いて"みる。とくん、とくんと心音はする。規則正しい正常な音だ。ついでに…寝息も聞こえるから、どうやら起きていられないほど疲れただけであるらしく、
"いい気なもんだな。"
 乗り物ごと断崖から海へ墜落した相手への心配は要らないが、血の匂いを嗅ぎ付けてどんな獣や新手の敵が現れるか知れたものではないというのに、よくもまあくうくうと眠れるもんだと感じた。無論、自分のことは棚に上げて。
"………。"
 見回すと、全身に擦り傷が数え切れないほどあって、二の腕と頬に結構大きな裂傷がある。血の塊りが暗赤色のかさぶたになりかけて、あちこちの傷口にへばりついている。
"…目は。"
 何とか上体を起こして見やると、
"…ああ、何だ。"
 怪我を負った訳でなく、額からの血が目許にこびりつき、動けないでいた間に固まったらしいと判った。血で瞼を糊付けされたようなものだ。
"水は…。"
 見渡す限り、岩と砂しか目に入らない。乾いた土地だと聞いてはいたが、
「…くっ。」
 地面に手のひらを突き、何とか上体を起こして高さを保持し、再び辺りを見回す。だが、よほどの遠くに見える緑のところまで行かねば、どうやら水っ気には触れられない場所であるようだ。
「…っ。」
 身体を起こしたことで頭がぐらぐらと揺れた。軽い脳震盪くらいは起こしていたのかもしれない。それとも血が足りなくての貧血か。じっとしていれば多少は体力も戻るだろう。万が一に備えて、刀を手繰り寄せると杖の代わりに凭れかかり、そのまま何とか座っていることにする。吹きつける潮風はかなり強い。植物が育ちにくいのはそのためなのかも知れない。頬に痛いほどの風が、だが、今は意識を保つのには好都合だなと感じたゾロだ。ふと、ルフィの顔に目線が行って、
"………。"
 瞼と睫毛を縁取る血糊が、まるで血の涙をこぼしているように見えて気になった。乾く前なら拭き取ってやれたが、こうまで乾いてしまっていては…
"………。"
 体の向きを変え、難儀ではあったが再び横になる。ぎちぎちと軋む胸の痛みを堪
こらえ、何とか腕で上半身を支えて覆いかぶさると、すやすやと眠る寝息が顔に当たってくすぐったかった。
"悪りぃな。こんなやり方で。"

            ◇

 目を覚ました此処は、村に唯一の診療所であるらしかった。
「此処までルフィが担いで来てくれたのよ? ま・その前に、あいつが体力回復するまで、あんたが起きてて張り番してたんでしょうけど。」
 どうやらナミにはお見通しであるらしい。
「? どうして判るんです? ナミさん。」
「目が覚めたらすぐ傍に倒れ込んで寝てたって、ルフィが言ってたでしょ? 最初からそこにいたなら、そんな風にわざわざ言わないわ。最初は居なかったのが、目を覚ましたら移動して来てたって意味なのよ。」
「………。」
 聡いのもこういう時には煙ったいという顔になるゾロだ。言わず語らず、仄めかすだけで置いといて欲しかったらしい。だからと言って、それとなく気の利いたことの一つも言えない、そんな彼の想いには当然気づかなかったらしく、
「そうそう。あんた一体何したの?」
 ナミはゾロの方へと向き直る。
「口の中が血だらけだったって、お医者様が首を傾げてたわよ。疵はないし、第一、その血とあんたの血とでは血液型が違うから吐血でもない。誰かに噛みついたにしては歯はきれいだったし、まさかとは思うけど浴びた血を大量に飲み込んでやしないかって心配してらした。」
 すっぽんだのマムシだの豚だの、他の生き物の血を精力剤として飲んだり料理に使ったりすることはあるが、人間の血液を人間が大量に飲むとドえらいことになる。消化されないため固まりとなるからで、吐いてしまえば問題はないが、下手を打つと死んでしまう恐れもあるとどこかで聞いた。ゾロもそれは知っていて、
「飲み込んだりしてねぇし、別に大したことじゃねぇよ。」
 息をついて"ふいっ"と窓の方へ視線を逸らした。まだ疲れは相当残っている筈だ。口許だけを微笑う形にして見せて、ビビを促し、そのままそっと部屋から出て行こうとしかかったナミだったが、
「…あら。」
 どこかの部屋でがらがらがっちゃんというけたたましい物音がした。頭上にその音の形を見い出そうとでもしてか、視線を上げたナミとビビが、顔を見合わせ、小さく微笑み合う。次には"ばたばたばたばた…"という実に判りやすい足音が、ドップラー現象を引き連れて迫って来て、
「ゾロっ!」
 ドアが蝶番から外れるかという勢いで開かれた。
「よお。大丈夫なのか、いきなり歩…。」
 歩き回って…と聞きかけた言葉が途切れたのは、ベッドの際までやって来た彼の大きな眸が見開かれていて、もしかして泣き出すんじゃないかと予感したからだったが、
「ゾロぉ〜〜〜っ!」
 いきなりはいきなりでも、いきなりガバッと抱き着かれたものだから、
「いっ、痛々々々々っ!」
 肋骨が軋んでさすがに堪えた。そして、やはりさすがに、
「あっ、悪りぃっ!」
 しまったと思ったらしい向こうの反射も早かった。パッと手を離し、背中を丸めがちにして、自分の胸板を抱えるようにして堪えるこちらを、心配そうにじっと見つめる。
「ああ、だ…大丈夫だ。いきなりで、ビックリしただけだ。」
 相変わらずなやりとりにクスクスと笑い、
「ルフィ、あたしたちお医者様のところに行ってるわ。何か用があったら呼んでちょうだい。」
 ナミとビビは、気を利かせたつもりか、そのまま部屋から出て行ってしまう。せめてお医者を呼んでほしかったなと、ルフィは困ったような顔になって、ベッドで疼痛に耐えているゾロを見やった。
「…なあ、大丈夫か?」
 しばらく体を丸めていたゾロで、ベッドの脇にあった丸椅子に腰を下ろしたルフィは、気遣うような声をかける。見慣れぬ格好はお互い様で、この診療所のお仕着せらしいパジャマ姿なのが何だかたいそう余所余所しく、こちらに背中を向けていると誰だか判らなくなるのがルフィにはちょっと嫌だった。しばらくすると、
「平気だよ。」
 ゾロは深い息を慎重に吐きながら身を伸ばし、やっとまともに横になってルフィの方へ視線を向ける。あちこち傷だらけだったが、どれも浅かったのか、鉢巻きのように額をぐるりと巡る包帯が目立つ以外はさして仰々しい手当ての跡はない彼で、ああ良かったなとホッとする。
「此処までお前が運んでくれたんだってな。」
「うん。でも、俺一人じゃなくって、あの岩場のそばまでサンジやウソップが来ててくれてさ。そいで、骨をやられてそうだからって、板戸に乗っけて運んだんだ。」
「…そうか。」
 そりゃあまたたいそうな運ばれ方をしたんだなと、気絶していて良かったと感じたゾロだった。いくら破天荒や唐紙破りが得意技だとはいえ、一片ほどの羞恥心くらいはある。
「………。」
 話の継ぎ穂が途絶えて、穏やかな沈黙が訪れた。負けるかも知れないという悲愴感はなかった戦闘だったが、それでも達成感より疲労感の方が今は強い。穏やかな沈黙は、気の置けない同士だからこそ保てるやさしい間合い。うとうととしかけたゾロへ、
「俺、変な夢見たんだ。」
 ぽつりとルフィが呟いた。
「へぇ?」
 疑問符と目線で"どんな夢だ?"と促すと、
「ゾロの頭と同じ毛並みの犬に顔とか舐められてるんだ。凄っげぇ温ったかい、かわいい犬だったから、ここから離れる時、絶対連れてくんだって思ってたのに、目が開いたらいなくてサ。」
「…そりゃあ、夢だから仕方なかろう。」
「でも、ホントにそっくりだったんだぜ? あ〜あ。連れてけたら、俺、絶対可愛がったのにさ。」
 そう言って手を伸ばしてくると、ゾロの短く刈られた髪に指を差し入れてみる。
「ホント、同んなじ感じだったんだぜ? 手触りも温ったかさも。」
「…ふ〜ん。」
 煩
うるさがりもせず、好きなだけ撫でたいままにさせているゾロだったが、
"半分くらいは起きてたんじゃねぇのか、こいつ。"
 ………おや? どういう意味でしょうか、それ。
ふふふ ルフィの手のひらの感触が心地よくて目を閉じたゾロであり、
「ゾロ…? 眠いのか?」
 返事をするのも大儀なほど深い深い眠りの波が寄せて来た。
"犬、見つかると良いな。"
 そんなことをぼんやりと思いながら、静かな眠りの中へ落ちてゆく。しばしの休息へと誘
いざなうやさしい手のひらの感触は、彼にとって最高のご褒美なのかもしれない…と、そう思うのは筆者だけでしょうかしら?


     〜Fine〜    01.9.6

     カウンター1200HIT キリ番リクエスト
        アゲハ様 『戦闘後、互いの大怪我を見て、どう思う彼らなのか』


  *な、何とかテーマに触れてはいると思うのですが、
   いかがなものでしょうか?
   いやもう、Morlin.と来たら、
   折り紙つきの意気地なしなもんですから、
   戦う彼らには付き物なテーマだというのに扱えないだなんて、
   間口が狭いったらありゃしないってもんでして。
   何だか話の主旨が後半大きくズレとりますが、
   宜しかったらアゲハ様へ…。
   


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