Sweet fragrance


「…あ、しまった〜。」
 経線と緯線、ちょっとした勘違いから間隔を間違えて引いてしまい、せっかく完成間近だった海図がお釈迦となってしまった。修正が利かない訳ではないのだが、ここまでノーミス、あたしってば やっぱ天才…なんて思って進めて来ただけに、なんだか悔しい。
「………。」
 ちらっと顔を上げて見やった窓の外では、さっきからわいわいと騒いでいる声が一際やかましくなったばかり。
「ウソップ、そっちもしっかり持ってろってっ!」
「持ってるけど、重いんだよっ! うわっ、たたたったっとっ!」
「まだリールは巻けないのかよ!?」
「まだだ、今巻くとバラしちまうっ! おわっと、こいつぁ大物だぜっ!
 いいか、ルフィっ。いいって言うまで、ゴムゴムは使うなよ?
 下手に掴むと、いくらお前でも逆に引き摺り込まれっちまうからな。」
「おうっ!」
 ウソップとルフィの二人が、船端から釣り竿を降ろして釣りをしているのだが、ほんの30分ほど前から何かしら大物がかかったらしくて…その大騒ぎが延々と、つまりは30分も続いているのだ。釣りは気の長い者が楽しむもの。魚信を待つのも、針からバラさずに釣り上げるのも、魚との根比べが物を言うそうだが、ただでさえ賑やかなこの二人が30分も騒いでいるのだ。まあちょっと想像してほしい。………ほらね? けっこうキツイでしょ?
「ゾロ、お前もかーかー寝てねぇで手伝えっ!」
「なんだよ。お前らで充分手は足りてるだろうが。」
「うるせぇっ、うまく釣り上げられたらこれが夕食になんだぞ。だからお前にも手伝う義務があるっ。」
「へいへい、判ったよ。」
 どうやら昼寝を邪魔されたらしい剣豪も加わるらしいと来て、
「………っ!」
 海図の書き損じはこの大騒ぎのせいもあるのかもしれないと思うと、自慢の集中力を挫いた憎っくき輩たちに一声怒鳴ってやりたくなった。だんっと机を叩くようにして立ち上がり、ドアに向かうと深呼吸。むしゃくしゃしたストレス解消も兼ねて、さあ、思いっきり怒鳴ってやるわよと、扉を力いっぱい開いたその時だった。
「あ、危ねぇっ!」
 船端から沸き立った声が真っ直ぐこっちへ飛んで来たのだ。彼女がこのタイミングで出て来ることが前以て判っていたのだろうか。…そうではなくって、
「…え?」
 何かしら大きな物体が宙を舞って一直線に飛んでくる。力自慢二人ともう一人の、合計3人掛りで竿をあおった途端、よっぽどタイミングが良かったらしくて、針もバラさず件
くだんの"大物"とやらが船上へ揚がった…らしいのだ。ただ、力任せにあおっただけで、その後のことは全然考えていなかった辺りが、何とも彼ららしい仕儀であり、正体不明の大物さんは、たまたま甲板へ出て来たナミへ向かって熱烈なタックルを仕掛けんとしている真っ最中…という次第。
「えっ? えっ!」
 吹っ飛んで来たのは、後で判ったことだが100キロ超級のカジキマグロ。こんなもんが当たったら、まずは無事では済まない。(…っていうか、命がないかも知れない。)何が起こっているやらさえ判らずにいたナミが、その場で凍りついたように立ち尽くしていると、
「哈っ!」
 横合いから飛び出して来た影があって、危ういところで蹴り飛ばしてくれた。蹴ったということは、
“あ、サンジくん?”
 こちらも、釣りの大騒ぎには加わらず、キッチンでデザートと夕飯の下ごしらえにかかっていたコック氏で、大方、ナミ同様に騒ぎにキレて顔を出しでもしたのだろう。軽々と蹴飛ばされた大物さんは、ぽ〜んと弾かれた中空に高い高い放物線を描いてから、どごぉっという大音響とともに中央の主甲板に無事着陸。
「おお、凄げぇっ!」
 何にでも驚きと感心を素直に示す麦ワラの船長が、サンジの蹴りにか、それとも正体を現した大物さんへか、感嘆の声を上げている。だが、その声がふっと遠く感じられたナミであり、
“あ…。”
 平衡感覚が狂って膝から力が抜ける。無事ではあったものの、魚のシルエットから何かを想像して一瞬気を失いかけたようである。水しぶきをまとって大海から跳ね上がった巨体と、先が鋭くとがった長い鼻。触れたものをすべて破壊し殺戮する、黒くて大きい魚。大切な人、大切な思い出、大切な幸せと時間。幼かったナミから全てを奪った、魔海から来た悪魔………。
「…ミさん? ナミさん? 大丈夫ですか?」
 どこも痛くない。倒れなかったのか? 背中や肩、二の腕に少しばかりざらつく感触がする。普段着の木綿ではない、しっかりした上着の生地に直に触れているからだ。何かしら頼もしい空間に包み込まれていて、それが…抱きとめられた腕の中だと判った。
“あ………。”
 誰かが自分を覗き込んでいる。いつもはどこか澄ましている顔だのに、今はその眸が真摯な色をたたえて覗き込んでくるのにハッとする。
「あ、だ、大丈夫よ。いきなりあんなもんが飛んで来たからビックリしちゃって。」
「そうですか? 何か当たったとか、立ち眩みがしたとか、そういうことは?」
「ないわ。心配してくれてありがと。」
 お礼を言うとにっこり笑い、そのまま…ナミを腕に抱えたまま立ち上がって、部屋の中へ逆戻りしてくれる。
“…え?”
 ひょろりと痩せた体躯に似合わぬ、軽々と抱えてしまえる膂力に驚いた。まさかに"よいしょ"が出る年齢ではなかろうが、それでも人ひとり抱えて、しかも片膝ついた姿勢からそうそう簡単に立ち上がれるものではない筈だ。ナミの小さな驚きには当然気づかないまま、室内を見回していたサンジは、ソファーへそっと横たえてくれると、ブランケットを取ってかけてくれる。
「しばらくそうしていた方がいいでしょう。何か、冷たいものでも持って来ますからね?」
「あ、ええ。ありがとう。」

            ◇

 ナミが物心ついてから見て来た接して来た"男"という生き物は、そのほとんどが海賊たちであり、下種で野蛮で馬鹿で卑劣で、およそロクでもない輩ばかりであった。一般の男性たちにしても、居合わせた海賊たちの蛮行には青ざめて右往左往するだけで、てんで頼りにならないやはりロクでもない連中ばかり。ココヤシ村で父親代わり同然だった警官のゲンゾウやドクター、ほんの限られた人々を除いて、ナミにとっての男は皆んな、弱い者にだけ威張りくさる、最低下劣な生き物でしかなかった。だが、
〈お前、俺の仲間にならないか?〉
 風変わりな船長に出会って、
〈腹の傷より、名前についた傷の方が重症だ。〉
 風変わりな剣豪に出会って、
〈村の皆んなを守りたいんだっ!〉
 風変わりな狙撃手に出会って…それまでの男性観が少々揺らいだ。そして、
「お加減いかがすっか、ナミさん。」
 常にスマートなダークスーツに身を固め、料理に関連する知識に派生してとはいえ、海にまつわるものへの造詣も深く、卒のない気遣い込みの、形だけではない根っからのフェミニスト…と、日頃の顔は他の3人とはっきり毛色が違うのに、戦闘の場面になると似たり寄ったりの暴れっぷりを見せる彼もまた、
“この人もコックって型に嵌めれば"風変わり"には違いないわよねぇ。”
 なんでこうも風変わりな男ばかりが集まる海賊団なのか。これはやっぱり、あたしだけでもしっかりしなくちゃだわと、そんな今更な決意を新たに、
「大丈夫よ、サンジくん。」
 にっこりとレディの笑顔を振り向ける。…かなりな男性観を持ってる彼女だが、それを言うなら御本人も、結構"使い分け"をするちゃっかり者ではなかろうか。それはともかく。
「ねぇ、さっきの魚はどうなったの?」
「ああ、氷室に入れてますよ。結構デカいから色々とバリエーションが楽しめそうで。」
 サイドテーブルに、スフレのカップとエメラルドグリーンのサワードリンクとを並べ、
「何しろナミさんに失礼をはたらいた奴ですからね。
 最初の料理は何にします? リクエストお聞きしますよ?」
 そんな理由がなくたって、どんなリクエストでも聞いてくれるくせに。優しい口調で、時々おどけたりしながら、話相手になってくれる。他の面子には殊更クールで乱暴な口を利いていて、けれどナミにだけはやさしい丁寧な態度。

 −でも、それって、時々ね、
   何だか仲間外れ扱いをされてるような気もするの。
   とっても素敵な人から、
   自分だけの騎士として女王様に接するみたいに傅(かしず)かれるのは、
   女の子なら誰でも一度は夢見ることであるけれど…。
   不思議ね、実際にそうされると、
   もっと自然に、気さくに接してもほしいなってね、
   我儘だけどそんな風にも思っちゃうの。

            ◇

 一瞬、目の前が真っ暗になって世界が反転したその時、
“…っ!”
 ぐいっと手を引き、腕の中へと庇ってくれた。さりげない頼もしさの満ちた温みの中へ、しっかりくるみ込んでくれた。…ああ、あの時にもあなたがいれば。大切な人が、大好きな人が、次から次へ、殺され、傷つけられたあの時に。8年も遅れてやって来るなんて遅すぎる。いつも言ってるくせに。何が起ころうと自分が必ずナミさんを守るんだって…。

「…あ。」
 いつの間にか眠っていたらしい。寝覚めに妙な夢を見た。今と昔が混然となっていて、筋違いな不平を誰かに言いつのっていた。
“そういえば…。”
 サンジと話していて…その途中からの記憶が曖昧だ。もしかして、人がいる前で眠ってしまった自分なのだろうか。だが、
“そんなのって…。”
 あり得ないことだ。今はもう盗賊ではないが、それでも何かと油断なく振る舞うのは身に染みついた性分のようなものになっていて、そんな…他人に気を許すような真似をこの自分がする筈がない。表面的には随分と愛想よくしていても、その実、誰にだってそうしているように手放しの安心をゆだねてはいない筈。だのに、何故また彼には油断した自分なのだろうか。どこか呆然としたまま身を起こす。その拍子に肩からすべって膝回りへとずり落ちたのは、
「これ…。」
 見覚えのある上着だ。夢の中で自分をくるみ込んでくれた温みや匂いは、これが間近にあったから感じられたものだったらしい。
“………。”
 そぉっと頬を寄せてみる。いかにもな服地の匂いと、香辛料だろうか複雑な甘さや苦さの入り混じった匂いがして、どうしてだろう、何だかホッとする。
“あっ、そうか。”
 煙草の匂いだと気がついた。色々な匂いの中、知らなきゃそれと気づけないくらい、うっすらとしたベールになって染みた匂い。ホントなら料理に携わる人間にはご法度なアイテムだのに、始終咥えている彼であり、それがナミに誰かを彷彿とさせたのだ。ミカンソースのオムレツが得意で、いつだって煙草を咥えていた誰かを。
“これって…。”
 男物のスーツの匂いはゲンさんの制服の匂いで、煙草の匂いはベルメールさんの匂いだ。昼間あれほど間近にそれを感じたから、これほど警戒心の強い自分があっさりと心を許してしまったのだろう。正体が分かるとなんだか急に可笑しくなって、
「…あ、はい。」
 ノックの音がしたのへ応じつつ、
「ナミさん? 入りますよ?」
 その声にまでついついクスクス笑いが止まらない。
「夕食はここへ運びましょうか…って、どうかしましたか?」
「う、ううん、何でもないの。」
 自分の上着を胸元へ抱き込んで、何故だかクスクス笑っているナミの様子に小首を傾げつつも、
“う〜ん、美人は寝起きも綺麗なもんだ。”
 相変わらずの賛辞を胸に、一人、悦に入ってる、こちらも幸せ者なコック氏であった。

        〜Fine〜   01.7.31.〜8.1.

   カウンター300番 キリ番リクエスト
                               瑳蘭サマ 『サン×ナミ小説』



  *どんなもんでしょうか? 初めての"サン×ナミ"でございますが…。
   何だか、
   単なるナミさんの一日…半日を綴っただけみたいで申し訳無いです(泣)
     出来るだけ るひーさんやゾロさんに絡ませないようにと思ったもんだから、
   尚更、何を書いていいやら、ネタに困ってしまいました。
   瑳蘭サマ、未熟者のMorlinをどうかお許し下さいませ。
   このようなものですが、どうかお持ち下さい。


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