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波も風も静かな、いたって穏やかな夜。さほどには暑くも寒くもなく、しばらくは他愛のないことを話していたものの、もともとあまり夜更かしはしないルフィのこと。遅くにやっと"居待ちの月"が上った頃には、副長殿の頼もしい肩に凭れてくうくうと寝息を立てていた。つばが当たってくすぐったい麦ワラ帽子は、既とうに脱いでお膝の上に。
"………。"
このまま男部屋に抱えて戻ってハンモックに放り込んでも、朝まで起きない彼だろうと思いはするのだが。静けさの中に二人きりなこの状況が、何となく微笑ましいやらくすぐったいやら。それで…何となくこのままでいる。とはいえ。萎えて凭れているせいで、首を後ろへ大きく落としかけている姿勢でいるのに気がついて。この格好ではさすがに窮屈だろうと、そっと抱えて膝の上、懐ろへとくるみ込んで………どのくらい経ったろうか。のんびり上った月に照らされた、屈託のない無心な寝顔が何ともあどけない。
『なんで王子様とかいう奴はサ、人魚姫に気がつかなかったんだろうな。』
今回のお目当ての"人魚姫"。前の時は、確かそんなことを言って憤慨していたルフィだったのを思い出す。
『魔女に声まで奪られてさ、歩くごとに剣を刺されるほどの痛さを我慢して。そんなまでしてすぐ傍まで来てくれたのに、大好きだからそこまでしたのにさ。』
おとぎ話であるにもかかわらず、あまりの悲恋に本気で憤慨していた彼だったっけ。住まう場所の違う人に恋をすることの悲劇。アンデルセンが原作者ではあるものの、古くからあったお話が原型になっているのだとしたら、そんなにも昔から…こうまで身近に語られるほど簡単に、身分違いの悲恋は存在していたのだということにもなろう。シェークスピアの古典小説にも、町で一、二を争う名家でありながら敵同士という、相容れられぬ家の子供同士が恋に落ちるという、超有名な悲恋ものがありましたしねぇ。
"………。"
何故に竜宮の末姫は、そんな恋をとっとと諦めなかったのだろうか。ルフィは気にならなかったらしいが、そもそもはそんな一時的な熱病のような恋に身を焦がした姫の、刹那的な思慕を綴った物語であり、お子様に読んで聞かせるには少々レベルが高すぎる話なのではなかろうか。どうせ添い遂げることは出来ないのだから、引き返せなくなる前に自分から諦めて"思い出"にしてしまえば良かったのに。…だが、
"………。"
それで死なずに済んだとしても、姫の胸にはいつまでもいつまでも愛しい人の面影が焼きついて離れなくなったことだろう。居ても立ってもいられないほど、何も喉を通らなくなるほどに恋い慕った人として。あまりに幼かった姫は、どんな激情もいつかは穏やかに収まるものだという、大人たちの訳知り顔から聞かされた忠告に、結局耳を貸さなかった。せめてすぐ傍にいたい。声を聞きたい、笑顔を見たい。生き生きとしている相手そのものを余す事なく感じていたい。恐らくは報われない恋だろうと、日に日に辛くなってもなお離れられず。いつまでも一緒にいられないなら、せめて今だけ。いつかは袂を分かって去ってゆくその時まで………。
「………っ。」
はっと我に返って苦笑混じりに吐息を一つ。いやに生々しい、覚えのある"想い"をなぞっていたような気がして、何を考えていたのやらと自分自身へと向けた苦笑だ。日頃の瑣事はともかくも、夢ビジョンも物の見方も、そして本人の度量も、途轍もなく大きく広くて深い、素敵に無敵な子供。何につけ現実的で小利口な奴らがしたり顔でのさばっている今時には奇跡のような純粋さで、しかもそれにきっちり比例して器の大きい不思議な少年。鼻先で嘲笑されそうな桁外れの野望を、実力と熱意でもって現実の…地続きのものとしてしまう小気味のいいそんな彼が。自分を評価し、こんなにも懐いて来てくれるものだから、それが堪らなくて、むずむずするほど嬉しくて。………だが、そんな風な甘い一時はいつ途絶えるか判らない。意見の相違とかいうような、当人同士による齟齬決別はまずはなくとも、例えば…どちらかの頭上に“死の天使”が突然舞い降りたなら?
"………。"
幸せは得てして呆気なく幕を下ろすものだと知っている。この少年が常々恐れもなく口にする"絶対"や"ずっと"は、されど現実世界には存在し得ない。どんなに堅牢な岩でもやがては風化するし、強靭な岸壁でも歳月をかけて波に洗われれば形を変える。ましてや人の命なぞ、この広大な海の中では小さな小さな泡にも等しくて。
「………。」
月を覆って薄い雲が掛かったのだろう。懐ろに見下ろしていた寝顔が曇る。ああ、せめて。自分はどうなっても構わないから、この彼だけは幸せでいてほしいと考える自分に、既とうに気がついている。野望は野望。諦めてなんかいないけれど。全力で目指し、踏破すると決めているけれど。
「………。」
彼のような“太陽”がいなくなったりしでもしたなら、ただでさえ味気無いこの世の中、たいそう詰まらないものになりはしないか?
「…ん。」
あまりに凝視していたものだから、それが刺激を招きでもしたのだろうか。雲が少しずつ晴れゆくその中、ふと、ルフィが眉を寄せて身じろぎをし、小さく唸った。そして…うっすらと眸を開ける。
「………ぞろ。」
「なんだ。」
呂律の回り切らない声にそっと応じてやると、
「ぞろ…。」
「だから、なんだよ。」
まだ寝ぼけているのかなと小さく笑いかけたその途端。
「ゾロォ〜っ。」
がばっと唐突にしがみつかれたから………驚いた。
「やだようっ。やだやだっ。」
「なっ、何だなんだ、一体っ。」
駄々を捏ねるように"やだ"の連呼。寝起きとは思えないような勢いでしっかと抱き着かれ、何が何やらさっぱり訳が判らないまま、
「だぁ〜〜〜っ、良いから落ち着かんかいっ!」
とっとと目を覚ませとばかりに、拳骨でしっかり殴りつけている辺り。どうかシヤワセになってほしいと願っていたのとは…次元が違うのね、きっと。うんうん。(苦笑)
◆
力いっぱいしがみついて来ていたのを宥めながら…文字通り"解ほどき"つつ。(笑) ようようお顔を覗き込んで見てみれば、えくえくと少しだけ泣いてまでいた船長さんで。とはいえ、お腹が痛いの、気分が悪いのと言った体調悪化が原因ではないらしく、
「一体どんなスペクタクルな夢を見たんだ?」
ほんに一々人騒がせな船長さんであることよ。こちとら柄になくちょっとばかりおセンチになっていただけに、そのムードまで跳ね飛ばされた恨みは…ちと大きかったが、つぶらな眸を黒々と潤ませているのをこうまで間近に見てしまっては、怒ってばかりもいられない。腹巻きの折り返しから取り出した手ぬぐいで、ぐしょぐしょになった顔を拭ってやれば、その裾で思いっきり洟を咬むものだから、
「………落ち着いたか?」
「うう"。」
頷いたのを見て、先の質問をもう一度繰り返す。
「一体どんな夢を見たんだ? 話してみな。」
寝ていて見た夢は人に話すと実現しないという。だから、悪い夢はどんどん話して追い払うに限る。これもまたいつも言い聞かせていること、ルフィもうんうんと頷いて、だが、こちらを見上げると再びその目許がじわじわと潤んで来た。
"こりゃあ…かなり寝ぼけてやがるな。"
本来、彼はあまり夢を覚えていないタイプである。頭の切り替えが良すぎるからで、人とは違ったものに気を取られることが多く、悪く言えば集中力散漫。日頃あんまり集中していないのは、いざという時に粘って粘って相手に食らいつくためなんだろうなというのが、最近の仲間たちの間での定説になっているのだが、それはともかく。そんな彼がいつまでも夢の内容を引き摺っているのはらしくない。まだ半分ほど未覚醒で…頭が夢の中に片足突っ込んでいるのだろう。
「んん? 話してみろって。な?」
まるで赤子をあやすように、小さな体を懐ろへとに引き寄せたまま、頭を髪を"よーしよーし"と撫でてやると、
「ゾロが人魚だった。」
……………はい?
ちょっと待って下さいませな。人魚って人魚って………人魚? この、陰影のつけ方如何いかんで鬼のような形相にもなってしまい、良いもんのヒーローであるにもかかわらず、テレビの前のお子様たちから"怖いよう"と泣かれることもあるお兄さんが…人魚? どうか皆様、ビジュアルでの想像はお控え下さいますように。(笑)
「……………。」
言われた本人まで絶句しているぞ、どうすんだ、船長。…と、
「だからっ。格好はそのまんまだったけど、人魚だから海へ帰らないといけないってっ。そう言って、そこから飛び込んで、帰っちまったんだよっ。」
ご本人が一番気が高ぶっておられる様子。またぞろ泣き出しそうな口調で言いつのるルフィだと気がつき、お陰様でショックから素早く立ち直れた剣豪は、
「そこって、この海へか?」
ルフィが指さしたのは、すぐ間近い船端である。眠りに落ちる直前まで見ていたものが夢に出てくるのはよくある話で、確かめるようにゾロに訊かれて"こくこく"と頷く船長さんであり、
「そこん立って、向こうへ。勢いよく飛び込んだ。」
そうまでリアルで臨場感あふれる夢だったからこそ、目が覚めてもなお、引き摺っている彼なのだろう。
"…こりゃあ、とっとと部屋に戻ってた方が良かったな。"
内心で苦笑が止まらぬ剣豪へ、ルフィはすがるような…責めるような眸を向ける。
「俺、追っかけようと思った。でも、ゾロが海に落ちるからって、危ないって怒ったばっかだったろ? そいで、すぐには飛び込めなくて、どうしようどうしようって思ってるうちにも、ゾロがどんどん見えなくなって。」
今ちゃんと目の前にいるのもゾロ本人であるのだが、それでも…波間に見失いそうになった"夢の中のゾロ"への強い強い思慕からだろう。込み上げてくる新たな涙に声がたわむ。その…切々と語られる真摯な逡巡が、そのまま自分への想いの丈にも匹敵するとあって。たとえそれが、恋慕とまではいかない、他愛のない愛着のようなものであっても、そこはやはり仄かに嬉しいことだとばかり、ゾロは黙って聞いてやっている。そんな彼へと一生懸命に言葉を連ねる小さな船長殿は、
「もう間に合わなくなるって思って、そいで“えい”って飛び込もうとしたら、ゾロが“やめとけ、バカ”って言って腕掴んで引き留めたんだぞ? 見失ったの、ゾロのせいだからな。」
そうと括って恨めしげな顔をするものだから。
「……………おい。」
ややこしい夢だったんだねぇ、そりゃあまた。(苦笑)憤慨しまくってる船長殿から最後には怒られたゾロであるが、それは筋違いもいいところだろう。
"…ったく、寝ぼけやがってよ。"
見たものの方を優先するのは視覚を持つ生き物には当たり前のこと。夢が本当は脳刺激によるものでありながら、情景や何かを"見た"と感じるのもそのためだそうで。まま、そういった余談はともかくも。
「…っく。うく…。」
未明や寝起きに見た夢は逆夢だとか、それより何より、自分はちゃんと此処に居るだろうがとか。子供のように幼い彼へ、自分のような不器用者でも言ってやれる…心を軽くするあれやこれやは幾らかあったのだけれど。
「………。」
見下ろした自分の懐ろの中、時々小さく引きつけるようにすすり泣いている、いつも以上に小さく見える肩が、震えている黒髪が。何だか無性に愛惜しく思えて。つい、もう少しだけこのままでいたいと、それを大人げない我儘と察していながら黙っていると、
「…そりゃあサ。」
ふと、顔を上げてルフィは言いつのる。まるきり子供の顔。初めて人魚の悲恋のお話を聞いた時、やはり幼い船医と二人して、語り部だったアラバスタの王女へ詰め寄ったのと同じ顔。
「どこに帰ってもどこに向かっても、それはゾロの勝手で自由だけどさ。」
少しばかり震えの残る声で、そうと言い、
「でも、俺が追っかけて行けないトコは無しだからな。」
挑むように睨みつけながら、だが、そんなまで甘いことを言ってくれるものだから。
「………。」
はっとした後、知らず頬に笑みが浮かびかけたのを何とかねじ伏せるゾロである。柄ではないがそれでも…今の自分が最も嬉しくなる言葉。
「大体、海なんて狡りぃぞ。俺がカナヅチだって、一番良く知ってるくせによ。」
「…ああ、そうだな。」
いつだって内心で欲してやまない、彼から自分への"求め"を乗せた言葉の数々が、胸の中、ほろほろと転がって。どんな酒よりも甘い熱さで、体中を体内からじんわりと炮やいてゆく。
「海や池や川とか湖以外なら何処でも良いさ。水ん中じゃないなら、俺でも追っかけてけるからサ。…な?」
素直に飲めばてきめん酔ってしまうだろう、それはそれは甘露な呪文。浅ましいとは思いつつも、もっと聞きたいと感じてしまい、
「ほほお、追っかけて来てくれるのかよ。」
夜陰に表情を紛れさせ、何でもない風を装った単調な声を返すと、
「決まってるだろ。」
当たり前のことを訊くなという声で言い返し、ゾロのシャツの胸元をぎゅうっと掴みしめて詰め寄って来る。
「俺が海賊王になるまで海賊でいるって約束したんだからな。それに…。」
「それに?」
真珠色の月光に照らし出された幼い顔が“うう"…”と言葉に詰まってから、だが…ふっと、破顔し、そのまま“にいっ”と笑って、
「内緒だっ!」
まだ目尻に残っていた涙を、少し汚れた“ぐう”の拳でぐしぐしと拭う。もう立ち直ったのだろう、いつもの子供のような屈託のない仕草。苦笑しつつも愛しいと、堪らないほどに胸がくすぐったくなる。そんな副長殿のお顔を真下から覗き込み、小さな船長は言葉を継いだ。
「ゾロに頼るつもりはない。でもな、俺はゾロが好きだから。傍に居てほしいし、その腕前も一番近くで見ていたい。」
率直で真っ直ぐで、誰にも、自分にも恥じないいつもの眸が、闇に濡れて黒々と光った。どうやら…何とかやっと、意識ごと目が覚めた彼であるらしい。夜中には不相応なまでにくっきり目映い笑顔でもって、彼はこうも続けた。
「ゾロは俺んことすぐ甘やかすから、この際だから言っとくけどな。俺の望みを何でも聞くんでなくて、ゾロが自分でそうしたいって思ったことが…俺を構うこととかだったら嬉しいんだ。そういう"好き"でなくちゃイヤだからな。」
「………ああ。」
先程のように、緩んでほころびそうになる頬を何とか引き締め保とうとしてゾロは難儀する。王は王でもこんな我儘を言う王様だ。全くもって不埒なお子だと、苦笑がこぼれて止まない。
"こいつめ…。"
だからこそ、この“太陽”だけはどうあっても沈めたくはないと、思って止まないゾロなのだ。
「な〜んか眸が覚めちまったな。」
こちらの気も知らないで、くああと欠伸混じりの背伸びをしてから、
「何か食べもんないかな。」
ルフィはぴょいっと立ち上がる。背後のデッキまでの残り数段を登り切り、キッチンへと向かうから、
"…やれやれ。"
あの、手際の良いサンジが無駄に何かしらを残しておく筈はなかろうに。未調理か、明日の下ごしらえ分に手を出せば、雷が落ちるのは間違いない。もしくは、
「だ〜〜〜〜っ!」
やはり絶叫が聞こえて、ゾロは何とも言えない顔で苦笑する。どうやら、サンジが仕掛けた"ネズミ捕り"にでも捕獲されたのだろう。
「ゾロ〜〜〜っ!」
「ああ、判ってる。今行くから静かにしてろ。コックが起きるぞ?」
遅れてやって来た月を背に立ち上がり、ステップを登りながら、もうゾロの胸に先程までの屈託はない。傍からどう見えようと構わない。どんな悲恋に見えても、きっと人魚自身は幸せだったのだろう。望まれなくても構わない。一番好きな、一番大切な人が幸せであるのなら、それが一番の満足と、竜宮の末姫はきっとそう思ったに違いない。それは"自己犠牲"なんかじゃなく、きっと立派な?自己満足。誰かが他所から口を挟む筋合いのものではないのだ。そうと理解が至った剣豪は、だが、船長殿にそれを言ってやるつもりはなくて。今丁度背中を濡らす月のように黙っているつもりだ。
"そんな甘っちょろい自分の胸の裡うちをわざわざ晒しても仕方がないからな。"
甘さも過ぎれば苦くなる。それを噛みしめながら、月光に背を押されるように歩みを進める剣豪殿だった。
〜Fine〜 02.8.7.〜8.9.
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ヒロ様『誰も邪魔に入らないゾロル“月夜の人魚”の続き』
*『月夜の人魚』を書いたのは真冬でございました。
アレから約半年。
Morlin.にはさしたる変化もなく、
相変わらずに煩悩を垂れ流す毎日でございます。
*それはそれとして。
何だか変てこりんなお話になってしまいました。
あ、いつものことか。(おいおい、反省は?)
似合わぬ考えごとをする剣豪さんのところで
キリよく終わっても良かったのですが、
それだといつもと一緒なので芸がないかなと思ってしまい、
芸を見せようとして…却って収拾がつかなくなった感が。(泣)
自爆でしょうか、これって。
いっそ2つのお話に分けた方が良かったかな?
ヒロさま、ごめんなさいです。(号泣!)
*人魚といえば『海のトリトン』がつい浮かぶ世代のMorlin.は、
実はゾロに惚れる前から緑色が何となく好きでした。(笑)
あれってラストは…今なら珍しくはない系統ながら、
勧善懲悪ものではなかったのが、当時はとっても意外だったなぁ。

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