月夜の人魚


 錨を降ろして停留中の小さなキャラベルを囲む大海原は、立ち込める夜闇を呑んで真っ暗だ。それでも遠い遠い水平線が…空との境目が判るのは、宝石を散りばめたような見事なまでの星空が、まるでドーム状の蓋のように四方八方の全方位を取り囲んでいるから。小さなランプを一つ、船端に腰掛けたそのすぐ間際に置いて、ぼんやりと海を眺めている麦ワラ帽子付きの小さな背中を見つけた剣豪は、大きな肩を吐息と共にすとんと落とした。あれほどクドく"夜中には甲板に出るな"と言ってあるものを、この鳥頭船長は三日と経たぬ間にすっぽり忘れてくれるから、これほど実りのない説教もないだろう。
「…ルフィ。」
「んん? なんだ、ゾロか。」
 今夜は良く晴れていて月もきれいで。甲板の上だけなら、夜目の利く身にはランプも要らないほど見通せるのだが、船端に上がって片膝立てるような格好で座っていた小さな船長殿は、すぐ間近に歩み寄るまで相手の気配には気がつかなかったらしい。…もっとも、この剣豪殿は自分で意識する前から足音を消し気配も消して動き回るという、武芸者としての習いがあるため、その消気を読めという方がご無体な話でもあるのだが。呑気な声を返して来た船長殿へ、ゾロは普段以上に眉間をしかめて見せた。
「なんだ、じゃねぇだろが。いつも言ってるだろう? 夜中に海に落ちたら探せねぇんだぞって。だってのに、選りに選ってこんな船端なんぞに昇りやがって…。」
 悪魔の実の呪いのせいで、不思議な能力を得たと同時に海から嫌われ、落ちたが最後、力を奪われ、もがくことさえ出来ぬまま沈んでしまう。そんな身であるというのに、当の能天気な幼い船長殿はといえば、昼間は舳先の真ん丸な羊頭という不安定なところへ登りたがるわ、夜は夜で、宵っ張りでもないくせして時々こうやってふらふらと甲板に出て来るわで、まるでそれが日常茶飯であるかのように剣豪殿の手を焼かせていたりするのである。そもそも…自分が危険な身の上なのだという自覚があるのかどうかという点も怪しいもので、
「ああ、そうだったな。悪りぃ。」
 だから、にこにこ笑って言うと説得力がないというに。…まあ、それも今更な話であり、それこそいちいち目くじらを立てていてはキリがない。
「で? 何してやがったんだ?」
 先にも述べたが、この幼い船長は宵っ張りではない。子供並みの早い時間帯に瞼が降りてくる"昼型人間"であり、今もどこか眠そうな様子は隠し切れず、傍らに乗り上がって同じように腰を下ろした剣豪殿の頼もしい胸板へ、ぽそんと無造作に凭れたその頬がほんわりと温かいのは、もうもう眠い兆候に間違いなかろう。だのにも関わらず、こんなところに這い出していたのは何故かと言えば、
「ん…ビビが、月のきれいな晩には人魚が海の上の世界を眺めに出て来るって言ってたんだ。」
「…ふ〜ん。」
 正確には、ビビ皇女から聞いた『人魚姫』のお話の冒頭、
『ある月のきれいな晩。竜宮に住まう人魚たちの姉妹の中の末姫は、十八歳のお誕生日にだけ許された海の上の世界への見物に出掛けたの。』
という一節を、例によって逆さまに解釈したのだろう。先日も、シェフ殿がカボチャを料理しようと包丁を入れていたところが、
『あ〜あ、もしかしたら馬車になったかも知れねぇのに。』
とか何とか、至極残念そうに言っていた。
『…出典は"シンデレラ"だな。』
『お、知ってたんか、サンジ♪』
『………まあな。』
 それはともかく。
(笑) お話の中、たまたま月の綺麗な晩が背景になっていただけの描写を、月の綺麗な晩は人魚が現れることがある…という解釈で把握し、だったら今夜は綺麗な満月だから現れるかもしれないと、そう感じてこうやって待ち構えている彼であるらしく、
「人魚が見てぇのか?」
「ん〜、だって綺麗なんだろ? それに、俺、まだ見たことねぇし。」
 あまりにも無邪気そうに笑って見せるものだから、
「ゾロは見たことあんのか?」
「…いや。まだねぇな。」
 何だか頭からあり得ないと否定するのも大人げないような気がして。障りのない答えようを選んでしまった辺りが、相変わらず船長には甘い。元来、あまり気の利かない彼であり、こんな小さな気配りなんて、他の人間相手には絶対にしなかろう。明日は赤い雨が降るかもしれない。
こらこら
「………。」
 甲板や船窓などに明かりでも灯していればともかく、小さなランプ一つの明かりでは、やはり海は真っ暗い。月光がほんのかすかに、波のゆらめきを鈍くちらちらと浮かび上がらせてはいるが、例え海面に何かが浮かび上がって来ても、これではなかなか見つけられまいに。それが判っているのかどうだか、ルフィはゾロの胸元に凭れたまま、一応はじっと海面を眺めている様子。縁が胸に当たってくすぐったい帽子をちょいちょいと突々くと、ああ…と気がついたらしく、頭から背後へずらして脱いだ。あんまり飛ばすものだから、ナミが見かねて、首に掛けたりそのまま背中に吊るせるようにと、紐をつけてくれたのだ。
「…なあ。」
 もう"音"として意識しないほど耳慣れてしまった潮騒が縁取る夜陰の静謐
しじまの中へ、不意にぽつりと呟いたルフィで。
「んん?」
「なんで王子様とかいう奴はサ、人魚姫に気がつかなかったんだろうな。」
 どうやらお伽話の展開のことを言っているらしい。丁度ゾロも傍らにいて、ビビの話を聞くともなく聞いていたので、こんな省略のされ方でもそこは通じて。とはいえ、そこまで思いは及ばなかったものだから、
「さてな。」
 適当そうな声を返すと、
「だってよ、命の恩人なんだぜ? 奴だって、助けてくれた人がいたんだってのは覚えてたのに、海岸で見つけてくれただけな隣りの国の姫さんのことを、そうだって勘違いしてさ。」
 話の成り行きには、聞いていたその時からやたら憤慨していたルフィであり、一緒に聞いていたチョッパーともども
『何て奴だ、そいつっ!』
『恩知らずな奴だなぁっ!』
と、二人揃ってかなり怒ってもいた。それを彷彿とさせる声音であり、
「魔女に声まで奪
られてさ、歩くごとに剣を刺されるほどの痛さを我慢して。そんなまでしてすぐ傍まで来てくれたのに、大好きだからそこまでしたのにさ。」
 ルフィとしては、アンハッピーエンドなお話だったのが気に入らないらしい。相変わらず、現実以上に"フィクション"に熱くなれる、ややこしい人である。
"…まあ、お姫さんの出てくる話にしちゃあ、めずらしい展開だよな。"
 自分を愛してくれなかった王子様を、でもでも殺すことは出来なかった人魚姫は、最後には海の泡になってしまいますからね。そんな理不尽さや痛い話を嫌うせいでか、童話は近年様々な脚色がなされているそうで、例えば『三匹の子豚』や『赤ずきん』などは、最後に敵役の狼が死なず、ただ逃げ出すだけという終わり方になっているものも珍しくはない。また『シンデレラ』は、義理の姉たちがガラスの靴に合わせて足を切るという下りと、さんざんシンデレラをいじめたことを咎められ、継母と義姉たちが城に呼ばれて罰を受けるラストが削除されて久しい。この『人魚姫』も、近年の子供たちの間では、あのディズニーが『リトル・マーメイド』として発表したお話の方がメジャーなのかもしれない。それはともかく。
「うーん。」
 なんで?と訊かれた以上、答えるのが義務だとでも思ったか、剣豪は一応考えてみた。だが、返事は案外とそっけなくて、
「やっぱ、言わないと判んねぇんじゃないのか?」
「そっかなぁ。」
「そうだって。神様じゃねぇんだから、他人の心の中までそうそう判るかよ。」
 だのにも関わらず、涙やキッスでもってそこへと気がつく"奇跡"を謳い上げるのがお伽話の夢のあるところなのだが。この場合、お話自体が妙にリアルと言うか悲恋物なのだから、こりゃあもう現実的な解釈を持って来るしかない。だが、胸の際に見下ろした童顔は、まだどこか納得がいかないらしい表情でいる。
「そうかなぁ。」
「なんだよ。」
 せっかく答えてやったのに一体何が不満なんだよと、ちょっとばかりムッとした声を返すと、
「だって…俺だったらきっと判るぞ?」
 こちらも真面目な顔が真っ直ぐに見上げて来る。大きな眸が闇の中に黒々と光って、さしもの"元・海賊狩り"でさえ少しばかりたじろいだ。
「…何がだ。」
「だから。わざわざ言われなくたって、こんなにも想ってくれてる人の気持ちくらい判るって。」
 むうっと口許をひん曲げるルフィであり、
「ふ〜ん…。」


  …………………………はい?


「………。」
 不意に口を噤んだ剣豪だと気がついて。深い緑が仄かに翳った眸をじっと見つめ返していた船長殿は、
「………。」
 ややあって、するりと腕を伸ばして首元にしがみつくと、静かに顔を寄せて来る。それを取り込むように、小さな背中へと腕を回したゾロは、そのままやわらかく抱き締めて………。


「…なんで判った。」
 唇を離し、ふうと細い息をつく小さな恋人を、腕の中、抱き締めたままで訊く。
「んん、何となくだ。キスしたいって思ってるなって、そんな気がした。」
「…判ったからってすぐさま反応すんのかよ、お前は。」
「? だってゾロだもん、良いじゃん。」
 あまりに短い言いようなので翻訳すると、恋人が相手なら構わない反応だろう?と言いたいらしい。こんな単純なお子様に易々と見透かされたのが少々悔しいが、文字通り"美味しい役得"だったのでこれ以上不平を鳴らすのは止めにして、
「まあ、あれだな。とどのつまり、人魚姫は今一つ人を見る目がなかったってこった。」
「…そうなのか?」
 おいおい、勝手な解釈を。
(汗) ゾロの冗談半分な言いようへ、こちらは真面目に受け取ったらしく。きょと…と小首を傾げる少年の仕草が、どこか…小さな動物のそれのような、ちょこんと単純だがその"ささやかさ"が愛らしい。
「………。」
 じっと見つめると、やはり通じるのか、
「………。」
 またまた素直に眸を瞑ってしまう彼であり、するりと降りて来た唇が再びふわりと重なって。
「…あ、ちょ…ちょっと待て、ゾロ。」
「待ったなし。」
 合わせた唇が少しばかりズレるように頬へ逸れるに至って、ルフィがわずかに抵抗の気配を示した。このままどういう展開へ"続く"のかを察したらしく、
「だから…何か、音しねぇか?」
「聞こえねぇよ。」
「だって、何か海で撥ねたような…。」
「いいから黙ってろって。」
 まだ何か言いつのる恋人を抱え上げながら立ち上がると、危なっかしい船端から甲板へと降りる。静かな潮騒の単調なリズムには、確かに時々、何が撥ねるのか、不自然な水音が入り混じることがある。まさか人魚がホントに…いたとしても、今の自分には関心がない。それよりもっとずっと愛しい温もりを、深い深い口づけ一つで観念させてそっと組み敷いてしまう剣豪殿であり、
「…ゾロのスケベ。」
「わざわざ言われなくても、そう思ったって判った。」
 くつくつと喉の奥で笑いながら、顔を埋めたおとがい辺り。またぞろ何か囁いたゾロだったが、それには言い返せなかったルフィであり、代わりのように洩れ出たのは短くて甘い睦声だった。海の王宮の住人である姫君が本当に遊びに来ていたとしても、この有り様では呆れて帰ったことだろう。ただただ青い月だけが、やさしく睦み合う恋人たちを、無言のまま見下ろしているばかり………。


  〜Fine〜  02.1.27.


  *カウンター14444HIT リクエスト
      中野方紀サマ『誰も邪魔をしない、仲のいいゾロル』


  *いちゃいちゃものなので『蜜月まで〜』にしようかなとも思ったんですが、
   となると、最初の方、
   夜中にふらふらと甲板に出て来たルフィという設定に無理が生じる。
   まあ、キリリクものですからね。
   リクエストに応じる部分で色々なバリエーションも有りということで。
おいおい
   全然ロマンチックじゃありませんが、
   こんな出来でいかがでしょうか? 中野サマvv

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